道州制論議に寄せて−地方支配の歴史的変遷J

 55年体制の崩壊と地方分権推進
                     堀込 純一

 X新自由主義と上からの分権

  (一)政治不信を基礎に世論が分権を後押し

〈分権の時代的背景〉

 欧米では、地方分権の動きは、早いところでは一九七〇年代末から始まっている。
 この特徴は、重森曉氏によると、「ヨーロッパ・アメリカでは、分権化(decentralization)は、二つの次元でとらえられている。……R・J・ベネットによると、分権化には二つの主要な局面があり、一つは政府間関係(中央政府対地方政府)、もう一つは、政府対市場の関係である。中央政府から複数の地方政府への権限や財源等の委譲は、明らかに集権的意思決定から分権的意思決定への移行であり、また、中央・地方の政府部門から市場や非営利団体など非政府部門への資源配分決定権の委譲も、同様に、集権的意思決定システムから分権的意思決定システムへの転換である。日本では、通常、前者を分権化と呼び、後者を規制緩和と称していると考えてよい。いずれにせよ、分権化の二つの次元が同時にもんだいにされているところが、世界共通の特徴となっている。」(『地方分権』丸善ライブラリー 1996年 P.57)といわれる。
 この背景には、二度にわたる石油ショックとスタグフレーションによって、ケインズ主義政策の破綻と福祉国家体制の動揺がある。ケインズ主義の破綻に伴い、英米を中心に一九八〇年代から、世界的に新自由主義の浸透とグローバル資本主義化が推し進められた。この動きは、ソ連体制の破産、中国、ベトナムなどの市場経済化でさらに強まる。
 こうした世界的な動向の下で、日本においても、上からの分権化が推進される。
 水口憲人氏によると、「まず、主だった答申や提言の中から、分権が主張される論拠を調べてみますと、おおむね次の二つの論拠がみられるようです。/一つは、東京一極集中の是正や多極分散型国土形成の必要性、あるいは国際化や高齢化への柔軟かつ多様な対応の必要性が指摘され、そのための方策として分権を軸とした地方制度改革が説かれるという系列があります。現在の社会経済的問題との関連付けであり、いわば横糸の論理といえます。……/もう一つの論拠は、現状を歴史の中で捉えて改革を根拠付けようとする、いわば縦糸の系列の論理です。その一例としての『第三の革命』(明治維新、敗戦に次ぐもの―引用者)論は先に触れたわけですが、『追いつき型近代化』の終焉が新しい制度を要求しているという言い方、あるいは明治以来の集権システムの『制度疲労』として現在の問題を理解する発想などがその例となります。」(『地域と自治体』第20集―「広域行政と地方分権」 自治体研究社 1993年)と、日本の特徴をまとめることができる。

〈既成政治への不信から地方分権へ〉
 朝日新聞の世論調査によると、一九八三年十一月には、まだ「自民党政権を望む」が49%もあった。しかし、一九九二年五月には、既成政党への不信が強まり、「今の政治に期待していない」が50%となり、一九九三年五月には、腐敗にみちた自民党政権に代わる新たな政権を望む人々が62%にも増大した。
 既成の政治への不信が頂点に達した一九九二年五月、熊本県知事であった細川護熙氏らを中心とした日本新党が結成された。その結成宣言では「硬直化に陥った明治以来の集権的国家システムとその中枢にある中央官僚制に根ざした巨大な構造障壁を除去しないかぎり、生活優先の社会の建設も国際協調・国際貢献するための日本経済の体質改善も不可能」であるとうたわれた。
 そして、一九九三年七月の総選挙では、リクルート事件や公共事業汚職などに端を発した政治改革(小選挙区制)が争点となり、自民党が敗北し、非自民7党の連立による細川政権が誕生する。55年体制の崩壊である。
 これに先立ち、一九九二年末、社会党は地方分権推進プログラムとして、国会決議や地方分権推進法の制定を打ち出し、自民党、公明党、民社党も、内容的な差はあるにしても、これに呼応した。経済界も、経団連が、地方分権推進の基本法の制定を求めた。
 そして、一九九三年六月に、衆参両院の本会議で、地方分権を推進する法の制定を求める「地方分権の推進に関する決議」が、憲政史上はじめて全会一致でなされた。同決議は、「国と地方の役割の見直し、国から地方への権限移譲、地方自治体の自主性・自律性の強化を図ることが急務」などとして、国会も地方分権を積極的に推し進めることを鮮明にしたのである。呉越同舟による地方分権の推進である。
 また、細川内閣発足後(一九九三年七月)、衆参両院には、地方分権特別委員会が設置された。
 おりから分権問題を論議していた第三次行革審では、九月、地方分権起草チームが「全国的な統一性や公平性を重視する集権型行政システムから脱却し、地域がそれぞれの個性や主体性を発揮しつつ、その文化、経済の潜在力を十分に活用できるような分権型行政システムに転換する必要がある」として、地方分権を推進する組織と、次期通常国会での法律制定を求める素案を提出した。
 だが、これには官僚の抵抗が激しかった。すなわち、事務方の行革審事務室は、「地方に任せれば、すべてうまく行くとの考えが全体に強く出すぎていないか」と、異例の反論書を提出して反発する騒動となった。
 この対立は、結局、行革審会長の鈴木永二の「大綱をまず作り、その後速やかに立法化をめざすということでどうか」と収拾案を出して、やっとまとまる。(「めざす」という言葉は、官僚用語では努力するという程度の意である)
 こうして、一九九三年十月二七日の第三次行革審の最終答申は、「政府は分権の手順などを明らかにした地方分権大綱方針を今後一年程度をめどに策定すべきである。大綱方針に沿って、地方分権推進に関する基本的な法律の制定をめざすべきである」とした。
 一九九四年二月、細川政権は、第三次行革審の答申を受けて、今後の行政改革大綱を決定した。そして、地方分権問題では、「大綱方針を自治体をふくむ関係者の意見をもふまえつつ検討し、九四年度内をめどに策定する。これに沿ってただちに基本的な法律の制定をめざす」とした。ただし、細川首相は、「九四年度内」を「九四年内」に前倒しした。

 〈影響が強かった高原委員会の意見書〉
 第三次行革審の答申直後の一九九三年十一月八日、地方六団体代表と、有識者やマスコミ代表の10人の委員とにより、地方分権推進策を検討する委員会(高原須美子・元経済企画庁長官が委員長)が発足した。委員会は10回持たれ、一九九四年九月に分権推進要綱をまとめて、政府に意見書として提出された。田島義介氏によると、この意見書は「その後の地方制度調査会、地方分権部会の論議のベースとなった」(田島義介著『地方分権事始め』岩波新書 1996年 P.72)といわれる。
 この意見書は、「現在の都道府県、市町村という『二層制』を前提に、国の権限をまず都道府県に移し、つぎに市町村に下していくことでまとまった。そこには、日本新党などの地方主権論からくる連邦制や財界が主張してきた道州制などの“受け皿”論議をくり返せば、分権論議が混乱し、マイナスになるとの、第三次行革審と同じような判断があった。」(P.73)といわれる。
 この方法は、一つの現実策としてありうるものと思われるが、ただ今日にまで尾を引いて禍根を残したのは、「国の権限をまず都道府県に移し、次に市町村に下す」という考え方である。これは、市町村優先の原則、地方自治の根幹としての住民自治という観点からすると、誤りである。また、この考え方には旧来から強固に存在するピラミッド型の階層制を前提にしており、上から順々に権限を分散するという方法であり、これでは一向に市町村優先の原則は実現しないのである。つまり、中間階層である都道府県を権限・財力などの点で、全国一律にする必要はなく、当該の市町村(基礎自治体)の状況に応じて、組織形態や活動形態を備えればよいのであって、それでこそ「補完性原理」に相応しいものであろう。また、それなくしては永遠に市町村優先の原則は実現しないであろう。今日の道州制論議の最大の誤りは、この点がまったく斟酌されていないことである。
 この意見書は、「権限移譲の手順」の他に、@「国と地方の役割分担」で、前者の役割は、外交、防衛、司法、全国の総合開発計画、健康・安全に関する基準など16項目に限定することを原則とする(限定列挙主義)。残りを地方自治体の役割とする。A「分権の推進方法」については、地方分権推進委員会を設けることとし、国会が分権推進決議をしていることを踏まえ、内閣は分権の基本方針や手順を定める推進計画を作るが、国会には計画の作成や修正を求めうる強い権限を与えるとした。B「中央と地方との関係」では、従来の上下・主従関係を廃止し、中央政府と地方政府が、対等の関係で共同で行政を行なうこととした。この結果、機関委任事務制度の廃止を求めた。C「税財政の調整」では、国と地方の比率が、支出では一対二なのに、税収では二対一と逆転構造となっており、国からの財源移転に伴い、補助金による関与や使途の限定などにより地方支配が生れていることを踏まえ、地方自治体の事務配分に応じた形で、地方税源の安定的確保のための税体系の抜本的改革、課税自主権の強化、奨励的補助金の廃止・一般財源化などを求めた。

 〈政権交代でも流れは変わらず〉
 この間に、政治の動揺は続いた。細川首相は、一九九九四年四月八日、佐川急便にかかわる政治献金疑惑で辞意を表明し、後継の羽田孜内閣は、社会党の連立からの離脱で、少数派内閣としてスタートし予想通りに短命に終り、同年六月二五日に総辞職した。
 非自民連立政権の崩壊によって、そのあとを、村山富市・社会党委員長を首班とする自民・社会・新党さきがけの三党連立政権が引き継いだ。それにもかかわらず、地方分権は「早急に地方分権基本法を制定し、規制緩和・地方分権など行革の実施状況を監視する第三者機関を設ける」とされ、上からの地方分権の流れは変わらなかった。
 分権を村山内閣の旗印の一つとした官邸とこれに抵抗する官僚との攻防は、連立与党内の対立や駆け引きもからんで激しくなる。
 しかし、連立与党は一九九四年十一月初めに地方分権プロジェクトチームを作り、地方分権大綱案作りに向けた政府・与党の調整が本格化する。官僚側の骨抜きのための活動やこれに呼応する自民党議員の抵抗も行なわれたが、同年十二月二五日に地方分権大綱は、閣議決定された。
 これに基づく地方分権推進法(後述)は、五年間の時限立法なので、官僚側は地方分権推進委員会の場で骨抜きする機会は十分にあると手綱を緩めたこともあるが、基本は世論の圧力に押されて、表立った露骨な抵抗が出来なかったのである。頼みの自民党族議員も世論に封じられたのである。
 地方分権推進法は、翌九五年五月に成立し、これに基づいて地方分権推進委員会が組織される。委員長は、諸井虔経団連副会長で、委員としては堀江湛慶応大学教授、長洲一二前神奈川県知事、山本壮一郎元宮城県知事、桑原敬一郎福岡市長、西尾勝東京大学教授、樋口恵子東京家政大学教授と諸井氏をふくめた七人である。
 地方分権推進委員会は、地方分権推進法によって、地方分権推進計画の具体的な指針を首相に勧告し、その実施状況を監視して意見を述べることになっている。これに対して、首相は、委員会による勧告と意見の尊重が義務付けられている。委員会の勧告内容は、地方分権の成否を握るほどの重みを持っていたのである。
 同委員会は、一九九六年三月に、中間報告をまとめた。そこでは、「自己決定権にもとづく分権型社会の創造」という理念をかかげ、「国・地方の関係を上下・主従から対等・協力の関係に転換する」、「国の地方への関与は立法統制に制限する」、「地方の条例制定権を尊重し、機関委任事務を廃止する」という三つの考え方が前面に打ち出された。
 ところが、一九九六年の総選挙によって、第二次橋本内閣が発足する。この結果、地方分権は、橋本六大改革の一つに位置付けられ、矮小化されていく。機関委任事務廃止は、大部分が法定委任事務という形で延命され、地方分権において実際的な裏付けとなる財源移譲は、大蔵省を中心とした官僚側の反対で実現できなくなっていく。(つづく)