道州制論議に寄せて――地方支配の歴史的変遷I

 深まる一極集中と地方分権論議
                          堀込 純一

W全国総合開発計画と広域行政


  (四)四全総と地方分権

 第四次全国総合開発計画(四全総)は、バブル最中の一九八七年六月に閣議決定された。
 四全総は、三全総の定住構想の継承をもって、さらに「多極分散型の国土形成」を課題とし、また新たに「交流ネットワーク構想」を打ち出した。
 四全総は、東京一極集中を是正する政策とともに、ハイテク型技術革新をともなう製造業や高等教育機能を地方圏に分散させ、これらを全国的に交通・情報ネットワークで結びつけるものである。このために、新幹線・高速道路・地方空港を全国的に建設し、都市間の人と物品の移動時間を短縮する。
 その中で、国際的金融・情報都市化を前提とした東京を頂点に、大都市圏と地方中枢・中核都市圏の連携とそれぞれの役割が位置付けられる。
 そして、「多極分散型国土」は、生活の圏域(定住圏)を基礎的な単位とし、さらに都市(地方中枢・中核都市)を中心とする広域圏域が全国的に連携して作り出されるとしている。
 だが、四全総は従来の全総とは比較にならないほど不評であった。大手新聞ですら、「『多極分散』看板倒れも」(『日経新聞』一九八七年六月二七日付け)とか、「東京集中にはずみ?」(『朝日新聞』同日付け)とか、皮肉っているのである。
 これには、訳がある。というのは、「……計画策定の最後の段階で、当時の中曽根首相が東京の世界都市としての機能を損なわないように注文をつけ、次のような付帯意見が採択された。〈東京中心部等に立地する事務所の追い出しをねらいとすることなく、また我が国の国際的な役割の発揮を阻害することのないよう十分配慮すること〉。この意見は、東京一極集中と地価のバブルの肯定にもつながるものとなり、90年前後の狂乱地価と投機ブームへとつながっていく。」(『世界大百科事典』舟場正富氏執筆)のである。
 当時、東京は空前のビル不足で、2000年までに、千代田区・中央区など都心五区に霞が関ビルに換算して、百棟前後のビルが足りないと予測されていたのである。このため、国土庁などは「事務所追い出し税」などを検討しており、これに財界などが猛烈に反対していたのである。中曽根首相は、財界の要望に応えて、先のような付帯意見を付けて、一九八〇年代後半のバブルを促進したのである。
 
 〈地方分権の推進と道州制の検討〉
  日本の近代史で、大きな地方分権の運動は、自由民権運動、大正デモクラシー運動、戦後の住民闘争と革新自治体の輩出である。これらはすべて下からの人民運動であった。戦後の国土開発計画で、上からの地方分権が提起されたのは初めてである。
 今や二度にわたる石油ショックで、世界の資本主義は大きく動揺し、スタグレーションに代表されるようにケインズ主義政策の限界が露呈した。支配階級もまた、動揺する資本主義に対処するために、ケインズ主義政策から距離をとり、新自由主義に傾くとともに、行財政の肥大化を労働者の犠牲の上に抑制する方向をとり始めたのである。
 上からの地方分権は、広域行政構想にも大きな影響を与えた。
 現実に、四全総の閣議決定の前後ころから、政府諸機関から地方分権と広域行政に関する政策構想がつぎつぎと打ち出された。
 まず一九八六年六月には、第1次行革審最終答申「今後における行財政改革の基本構想」は、都道府県の広域行政化や、広域市町村圏における一部事務組合の複合事務組合化、小規模町村の合併などを提起した。
 これを受け、一九八八年五月、第21次地方制度調査会(地制調)「地方公共団体への国の権限委譲策についての答申」は、東京一極集中是正のためには、地方分権が必要であるとする。そして、そのためには、全国各地で個性豊かな活力ある地域社会作りが重要として、「従来のように国の政策が先行するのではなく、自治体が創意工夫をこらし、自主的に施策を立案、実施できる行財政制度の確立が肝要だ」として、都道府県や市町村への大幅な権限委譲を求めた。
 この答申をふまえた政府の諮問に対して、一九八九年十二月、第2次行革審「国と地方の関係等に関する答申」は、広域行政に関する新たな構想を提起した。その基本的内容は、@都道府県の区域を越える広域社会経済圏に対応した広範な行財政権限を備えた広域的な地域行政主体としての「都道府県連合制度」を導入、数個の都道府県の区域に立脚する広域行政主体を形成する。A「地方中核都市」を一般市の特例として制度化する。B町村に対する都道府県または近隣都市による協力・補完とともに、「市町村連合制度」を導入する。
 このように、広域行政に関して、都道府県や市町村の「連合制度」を新たな特別地方公共団体として性格づける構想が提起された。
 これを受けて、一九九一年十一月、第22次地制調答申「都道府県連合試案」が提起された。これは、@都道府県の行政区域を越えた行政課題に対応する広域行政体制の確立、A一定規模以上の都市自治体には政令指定都市並みの権限を移譲する案が提起された。
 さらに一九九二年六月には、第三次行革審答申「地方分権特例制度(パイロット自治体)」が、基礎自治体への分権の試みとして、特定の都市自治体に国の権限を移譲する構想を提起する。それは、人口10〜20万以上の自治体か市町村の集まりを、当面、10〜20か所選び出し、これに都市計画、農村整備、教育、福祉などの権限を移管する案である。
 そして、一九九三年四月の第23次地制調答申では、@府県や市町村を越えた広域連合に国の権限を移譲し、議会や執行機関のほかに、小人数の評議会も採用する、A人口30万以上で面積100平方キロメートル以上をもち、その地方の中核的機能を持つ都市(中核都市)に政令指定都市並みの権限のほとんどを移譲する案が提起された。
 
 それが、一九九三年十月の第三次行革審(臨時行政改革推進審議会)の最終答申では、地方分権推進のための連合案の強調とともに、道州制案の検討すらも提起するようになる。
 すなわち、広域行政主体としての都道府県は、市町村との連携を強化しつつも、現行の枠を越えた事態には、都道府県の連合で積極的に対処する。「さらに、将来の都道府県合併についても固定観念にとらわれない真剣な取り組みを行うほか、全国的に都道府県合併の気運が高まるような状況が発生する場合に備え、現行の都道府県制に代わるべき新しい広域的自治体制(いわゆる道州制)の意義等について国として幅広い観点から具体的な検討を行う必要がある。」としている。
 
 〈経済団体の突出した提言〉
 だが、民間レベルでは、地方分権の推進とともに、道州制構想は、すでにそれ以前から提起されている。
 一九八八年十月、西日本経済会議の第30回総会決議は、「多極分散型国土の実現をめざして―中央集中排除への提言」は、地方分権の受け皿として、新しい広域行政制度の成立を目指し、五年後に国の出先機関を統合した地方庁を作り、十年後に府県連合体として「道」か「州」を実現し、最終的に府県を廃止し、道州制の実現を目指す、としている。
 関西連合会は、一九八八年十月の意見書で、道州制への第一歩としての地方庁設置を、翌年八月の意見書で、府県共同体の設置を、さらに一九九一年十一月には、地方分権の受け皿とてし、「都道府県連合制度」の導入を提言している。
 経団連は、一九八九年五月、市町村相互間、都道府県相互間の連携、合併などの広域行政の展望を決議した。
 日本青年会議所は、一九九〇年、「地方分権へのいざない」をまとめ、@府県合併により8州を設置し、国の権限の大部分を移譲する。A中央政府は連邦政府として、各州の委託により外交・防衛・国土計画などの機能を果たす―としている。もっともこの案は、地方分権をした上で、次に連邦制にするとしているが、各州に国家建設を行なう段階があいまいである。
 地方自治体でも、具体的な方策が提言されている。
 一九八九年十二月、東京都は、埼玉・千葉・神奈川を含む1都3県で、ECのような都県連合を設立検討している。一九九〇年一月、大阪府知事は、大阪・京都・兵庫・奈良・和歌山・滋賀の2府4県の近畿圏協議会構想を提唱した。一九九二年十月には、神戸市で全国知事会主催のシンポジウム「これからの日本と地方分権」が開かれ、地方分権に向けた国民運動を進めることが宣言された。
 
(五)五全総と多軸型国土形成

 第五次全国総合開発計画(五全総)は、一九九八年三月に閣議決定された。
 五全総は、「地域の自立」と「多軸型の国土形成」を、多様な主体の参加と連携で実現していくとし、別名、「二十一世紀のグランドデザイン―地域の自立の促進と美しい国土の創造」と名付けられた。
 「地域の自立」とは、人々の選択と責任の下に、自然や文化、産業、雇用などの多様な生活空間を作ることであり、それを生かして世界の人々とのつながりを進めていくことである、とされた。
 「多軸型の国土形成」とは、国内の地域間連携のみならず、近隣諸国との国際的なネットワークの推進をも射程に入れながら、北東国土軸、日本海国土軸、西日本国土軸、太平洋国土軸を作っていく、ということである。
 国土軸という概念は、そもそも交通網を中心とした開発の概念である。だが五全総では、「気候や風土、文化、地理的特性で共通性のある地域及びその連なりから成る幅広の軸状の圏域」と定義している。
 従来の、「東京を頂点とする太平洋ベルト地帯に人口や諸機能が集中している現在の一極一軸型国土は、ゆとりのない大都市での生活、活気の乏しい地方での生活、劣化した自然、景観の美しさの喪失、局所の災害から全国が重大な影響を受けるようになった国土の脆弱性などの諸問題の原因となっている。」とてし、新たに四つの国土軸を形成するとしている。
 この「多軸型国土形成」という考え方には、国際化時代の日本あり方ということもあるが、最大の問題は、効率主義の道路や通信などのライフラインが、一九九五年一月の阪神・淡路大震災において、致命的な脆弱性を露呈されたことから、「第二国土軸」のバックアップ体制が重要だという考えが背景にある。
 しかし、問題点の第一は、地域の多様な人々―地域住民、ボランティア団体・民間企業などの「参加と連携」で、「地域の自立」を図るとしているが、制度的には、市町村という基礎自治体優先の原則があいまいとなり、住民自治が軽視されていることである。すなわち、効率一辺倒や経済合理主義一辺倒によって、一九九九〜二〇一〇年にかけて市町村合併が強力に推し進められ、その数は3232から1720へと半分超も激減した。このため、なかには大規模市町村の内部に新たに基礎自治体を形成する必要性が出現していることである。また、基礎自治体優先の原則が軽視されたままで、都道府県連合や道州制が論議されていることである。
 第二は、淡路・阪神大震災の教訓としての「第二国土軸」の形成といっても、危険な原発が氾濫した国土の上では、その「第二国土軸」という考え方以前に問題があり、「第二国土軸」の有効性も半減してしまうことである。
 このことは、二〇一一年の東日本大震災時の福島原発の大事故によって、明らかである。
 被害を受けなかった国土軸が、被害を受けた国土軸の人々を支援できるとしても、被害を受けた国土軸自身において、長年月人が住めなくなるような、あるいは一生戻れないような経済・技術構造の上での生活のあり方そのものを、再考せざるをえないのである。
 これは、「第二国土軸」によるバックアップ体制という論議以前の問題である。
 そもそも、大分前から関係者のあいだでは、「全総不要論」が強まっていた。環境重視の時代に、何故に高度成長の延長としての開発なのかという批判である。このため、五全総には、全総の根拠法である国土総合開発法の見直しが明記された。(つづく)