1・27〜28「オール沖縄」が日本政府直訴行動
 反オスプレイ全国闘争へ

 一月二七日から二八日にかけて、「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会実行委員会」の主催によって、「オスプレイ配備撤回!普天間基地の閉鎖・撤去!県内移設断念!」を求める東京行動が大規模に展開された。
二七日には東京・日比谷野外音楽堂で4000名以上結集の大衆集会・デモ行進を行ない、二八日には安倍首相を始めとする内閣、外務省・防衛省、米大使館に要請行動を行なった。この行動は、保守・革新を超えた「オール沖縄」の団結によって日本政府に直訴したもので、沖縄県民の闘争史上、画期的といえる行動であった。
昨年の「9・9オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」(宮古・八重山を併せて約十一万人)が決議した要請書を、当時の民主党政権と米政権は無視した。そして県民によるこれまた画期的な普天間基地全ゲート封鎖行動を排除して、海兵隊オスプレイ12機の普天間配備を強行した。復活した安倍自民・公明連立政権もこの態度を継承し、さらなる12機の配備を認め、また嘉手納基地への空軍のオスプレイ配備も容認する気配である。今こそ日本政府に「オール沖縄」の怒りを東京行動によって直接にぶつけ、また鈍感な「本土」の世論とメディアを喚起させなければならない。これが、東京行動の主旨であった。
日比谷野音での「1・27NO OSPREY東京集会」は、沖縄からの東京行動団(全41市町村長・地方議員など144名)が壇上を埋め、会場は「本土」の労働組合・市民団体・個人で埋め尽くされた。
集会は、喜納昌春さん(県民大会共同代表・県議会議長)が主催あいさつ、「オスプレイは運用に関する日米合意を無視して、沖縄中を昼夜飛び回っている。この危険が、低空飛行訓練が迫る本土にも広がろうとしている。全国の皆さんと連帯して闘おう」と訴えた。
市町村代表あいさつを、那覇市長の翁長雄志さん(共同代表・市長会会長)を始め四氏が行なった。翁長市長は、「沖縄県民は目覚めた。もう元にはもどらない。日本国民も変わってください」と述べた。これは集会の雰囲気を代表する発言であった。
激励あいさつを、渡久山朝輝さん(東京沖縄県人会会長)が述べた。「配備を撤回できなければ、沖縄差別を容認し、増長させることになる」という、その発言も印象的であった。
安部首相に対する「建白書」が、平良菊さん(共同代表・婦人連合会会長)から読み上げられた。
「建白書」は、@オスプレイの配備を直ちに撤回すること。及び今年7月までに配備されるとしている12機の配備を中止すること。また嘉手納基地への特殊作戦用垂直離着陸輸送機CV22オスプレイの配備計画を直ちに撤回すること。A米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念すること。この二項目を求めている。
県議の玉城義和さん(県民大会事務局長)は、集会の進行をまとめるような役割であった。彼は、このかん「沖縄県民統一戦線」を提起している。玉城さんは、「建白書は平成の沖縄一揆。大きな国民運動を実現し、解決を勝ちとろう」とアピールした。
ガンバロー三唱を仲村連合沖縄会長の音頭で行なった後、銀座へのパレードが行なわれた。
こうして東京行動は、沖縄・「本土」の連帯行動として成功したが、首都圏からの集会などへの参加者は、多いとは言えない。各団体は、東京行動への大合流を組織すべきであった。また、低空飛行訓練が予定されている各自治体の行政・議会、住民運動の反応も、今のところ低調である。低空飛行訓練が、提供訓練空域でもない所で、基地間移動の名目で行なわれる違法性を、ひろく問わなければならない。
「オール沖縄」の今後の取り組みに連帯しつつ、全国各地での反オスプレイ運動を盛り上げなければならない。また「本土」でも、安倍政権による辺野古「埋め立て申請」を阻止する世論の盛り上げが必要だ。沖縄の本気が示される中、「本土」側の運動勢力の本気度が問われている。
なお野音集会では周辺で極右勢力が、「中国の沖縄侵略に加担するな」などとして集会妨害を図っていた。近年の極右の言動は目に余るものがあり、運動勢力がその制止を検討する必要もあるだろう。(東京W通信員)


12・28〜1・7「第43回釜ヶ崎越冬闘争」貫徹さる
  社会的就労の拡大へ

 十二月二八日の突入集会から一月七日までの「第43回釜ヶ崎越冬闘争」が、仲間たちの団結で一人の餓死・凍死者も出すな!を合言葉に、多くの釜ヶ崎の労働者、支援の仲間たちによって闘い抜かれた。
 越冬闘争とは、行政の窓口が閉ざされる年末・年始の時期に、冬の寒さから仲間の生命を仲間自身の団結した力で守り抜き、春からの闘いを準備する闘いであり、そうしたものとして大阪・釜ヶ崎では四十二年間にわたって取り組まれてきた。
 とりわけ90年代に入って、釜ヶ崎―寄せ場で不況を先取りする形のアブレ地獄が深まり、失業・野宿が一気に拡大し、常態化していく中、その役割はますます重要になっていった。
 02年成立の「ホームレス自立支援法」を活用した様々な施策によって、当時全国で3万人といわれた野宿者は、現在1万人を切るといわれるほどに減少した。しかし我われの闘いの不充分さから、就労自立に向けた「実行計画」をつくり出せず、「旧来と同じ箱物行政」という批判があるのも事実である。
 実際、釜ヶ崎で、この法律の趣旨は利用できても、釜ヶ崎の労働者の野宿から就労―自立に向けた施策をかち取ることはできなかった。事態が大きく動いたのは、08年の「年越し派遣村」の闘い以降である。
 それまで失業を理由とした「生活保護申請」は、申請以前の段階で「門前払い」されていた。その窓口が法律どおりに大きく開かれ、多くの仲間が生活保護に移行し、その数は9500人じつに釜ヶ崎労働者の3分の1〜2分の1となっている。
 これによって、大阪市の唯一の越年対策である「南港臨泊」の利用者は半減した。
 しかし、今越冬闘争においても、500名以上の仲間がこの施策(ケアセンターを含む)を利用せざるをえず、また様々な理由から釜ヶ崎地区内だけでも200人近い仲間が野宿状態で年を越さざるをえない状況だ。
 昨年夏、「ホームレス自立支援法」の「五年延長」が闘い取られたが、真に有効な「実行計画」が必要だ。
 第43回釜ヶ崎越冬闘争は、@自公政権の復活、A「有識者座談会」の「答申」が出され、「西成特区構想」の具体性が見え始めたこと、B昨年十月、梅田で野宿していた仲間が少年らに虐殺されたことにみられる差別と社会的排除の強まり――これらに抗する闘いとして貫徹された。
 十二月三十一日には、100名を超す「人民パトロール隊」が梅田に登場し、虐殺された仲間・富松国春さんの追悼をやり抜いた。
 2013年の闘いはすでに始まっている。
 越冬闘争のさ中、一月四日には大阪市・府に対する「要望書」提出行動―通称「お礼まいり」を70名を超える仲間の結集で行なった。
 また一月十四日には、大雪の中、東京・山谷で行なわれた「佐藤さん、山岡さん虐殺弾劾!日雇全協反失業総決起集会」に、釜ヶ崎日雇労働組合はバス『勝利号』で参加した。また途中で、経産省前の脱原発テント村への連帯・激励行動もあわせて行なった。

東京・山谷では1・14日雇全協反失業総決起集会

 この1・14日雇全協反失業総決起集会では、「昨年一年間かけて調査・準備した被曝労働の問題について具体的闘いに着手する」という意志一致がかちとられた。
 2013年は、反失業闘争にとって飛躍の年だ。「野宿問題は失業問題だ」という共通認識は一致しつつも、「仕事づくり」の取り組みの立ち遅れという現状から、「公園からの排除との闘い」、「生活保護を取る(現在では、その締め付けを許さない)闘い」が主戦場となっている。
こうした結果、野宿脱却の実効策を求めるのではなく、反排除のみの対抗となりがちであり、仲間たちの内にも、「『就労自立』は新自由主義の標語だ」、「野宿の自由」「路上での生活権」といった様々な主張が混在している。
これらの主張は、「テントは自由の証し」と野宿を美化し、野宿を放置する行政を免罪し、野宿を固定化する一部の主張ほど悪質なものではないとは言えるが、大いに論争を深めていかなければならない。
資本主義が完全に行き詰まり、新たな産業の発展が望めない、まさに資本主義の終焉の時代を迎え、反失業闘争の新たな発展が問われている。
その要は、社会的(公的)就労の拡大に他ならない。「権利の防衛」「抵抗戦」に終始するのではなく、時代状況を見据え、新たな社会を展望する闘争方針が問われている。
これを実感する、今越冬闘争であった。(釜ヶ崎S)

 1・3釜講座ツァー

 釜ヶ崎越冬闘争には、地区外から多くの労働者・市民・学生の支援参加がある。
 十二月二十三日には、これら支援者をメインに「越冬闘争支援連帯集会」が開かれ、地区内のふるさとの家に約40名が参加した。
 支援団体の一つが、「市民と釜ヶ崎をむすぶ」を標語とする「釜ヶ崎講座」である。この釜講座は今年も、越冬闘争の一翼を担いつつ、一月三日の午後、釜ヶ崎の各所を巡る「釜ツアー」を行ない、地区外から約30名の参加であった。
 釜講座では今後も、反失業・就労、子ども、労働センターなど「西成特区構想」に係わる諸点について、市民に開かれた学習企画を立てていくとしている。(釜支援A)