道州制論議に寄せて-地方支配の歴史的変遷H

 定住構想で道州制論議下火
                      堀込 純一

W全国総合開発計画と広域行政

  (三)高度成長終焉と定住構想
 

     〈タテ割り行政の矛盾〉

 一九七三年秋の第一次石油ショックの勃発と翌年のマイナス成長を契機として、日本の高度成長は完全に終わった。このような時代背景の下で、これまでの拠点開発・大型プロジェクト方式による国土開発から、定住構想による国土開発への転換を図る第三次全国総合開発計画(三全総)が一九七七年十一月に閣議決定された。
 三全総は、人口・産業の大都市への集中を抑制する一方、地方を振興し、過密・過疎問題に対処しながら、国土の利用のバランスを図り、人間的居住の総合的環境の形成を目的とする定住圏の形成を中心課題とするものである。
 その中で、国土開発の土台は、基本的に二全総を継承しつつ、新たに工業の地方への分散配置を打ち出し、「工業配置計画」(一九七七年七月)による地方工業の立地を促すものである。そして、定住圏の形成は、「歴史的・伝統的文化に根ざし、自然環境・生活環境・生産環境の調和を図り、雇用の場を確保し、住宅・生活関連施設を整備し、教育・文化・医療の水準を確保すること」(三全総)を目指すとした。まさにこの定住圏が、開発の地域基盤となるのであった。
 三全総は、地方に自立的な生活圏構想を定着させること、地域の資源やローカル・エネルギーを開発し活用すること、地域の文化的・歴史的な伝統と個性を尊重することなどの諸点で、従来の国土総合開発計画とは大きく異なるものである。これまでの開発計画が高度経済成長一点張りであったことから見ると、オイルショックを契機に、過密・過疎問題や公害の蔓延などを踏まえた生活様式の見直しを行なわざるを得なかったのである。
 この定住圏構想を推進するために、一九七九年七月、国土庁は「モデル定住圏計画策定要綱」を定める。そこでは、モデル定住圏が、「都市農山漁村を一体として山地・平野部・海の広がりをもつ圏域」で、「自然環境、生活環境及び生産環境を総合的に整備していくうえで必要な一体性を有する圏域」として選定されていく。
 国土庁が、「住民の定住条件を充実させるため、地域の特性を生かした魅力ある定住圏を整備する」定住圏計画を作るのに対して、自治省は、「新広域市町村計画」(「安定成長期に移行する地域社会に生ずる諸問題に対応しつつ、各地域に住み良い生活環境をつくる」)をつくり、建設省は、「地方生活圏計画」(「国度の有効利用と住民の福祉向上のために公共事業を計画的に進める」)をつくり、互に競い合う。
 この中で、地方自治体を所管とする自治省は、三全総は国の計画であり、従ってあくまでも国の施策を盛り込むべきで、地方行政に干渉すべきではないこと、定住圏は現在の広域市町村圏とまったくダブルものであり、従来の広域市町村圏の手直しで行くべきことなどをあげて、厳しい批判を行なった。これは、当時の中央集権主義的行政の下で、地方自治を考慮しない国家的開発計画に対する批判としては、一理あるものである。しかし、自治省とても、地方自治体の利害というよりも、自省の利害・権限の立場からのもの言いでしかない。
 その証拠には、実際、定住構想の事業化において、各省はそれぞれ自らの構想の内に反映させようと、激しい権限争いを演じている。近代いらいの日本の官僚機構の宿命的とも言えるタテ割り行政の矛盾である。
 こうした紛争の結果、「『定住圏』の事業計画は、各省庁の現行の補助金制度の枠内で確定することにおちついた。そのうえで国土庁は、前記の策定要綱(モデル定住圏計画策定要綱のこと―引用者)で、『モデル定住圏』が『地方生活圏、広域市町村圏等の圏域と調整された圏域であること』を明記した。/このようにして定住構想は、地域自治体主導の自主的計画づくりにむかわず、中央主導で各省のタテ割り行政の鋳型に押しこめられたものとなった。」(山田公平著「広域行政と自治体再編をめぐる歩み」―『地域と自治体』第20集「広域行政と地方分権」 自治体研究社 1993年)のである。
 
   〈市町村の規模拡大と道州制論議の沈静〉

 三全総の定住構想は、地方自治に新たな動向をもたらした。自治省は、旧来の計画を引き継ぐ形で、前述した新広域市町村計画を打ち出す。それは定住構想に即応した生活圏づくりのために、新たな広域事業を推進軸としたものである。すなわち、従来の広域事務処理のシステム形成から、土地利用を基本とした総合的地域計画をたて、圏域内の公共施設の設置・整備などを行なうものである。具体的に言えば、従来の広域事業は道路・ゴミ・し尿処理を中心としたものであったが、新たに地域の産業振興を推進しながら、教育・文化・スポーツ・レクレーション・医療・福祉などの施設の設置・整備などを行なうものである。
 計画策定には都道府県が参画し、地域住民の意見を反映させるとしている。しかし、そこでは、未だ住民中心主義どころか、基礎自治体ですら主体にはなり切れていないのである。
 当時のエピソードとして、次のようなものがある。国土庁は定住圏の設定を具体化するものとして、一県一圏選定を原則として、「モデル定住圏」を各府県に設定していった。しかし、これに対して、神奈川県の長洲一二知事は、「モデル定住圏」の設定を受け入れなかった。神奈川県は、これまで地方自治・地方分権の観点を明確にした「新神奈川計画」(一九七八年二月)にもとづいて県独自の地域計画を策定し、それに沿って広域市町村事業をすすめてきた。その「地域」が、「モデル定住圏」の選定対象となったため、県独自の計画が混乱するのであった。このため、長洲知事は、「モデル定住圏」を断固、返上したのであった。長洲知事の対応は、相も変わらない中央官庁の中央集権主義を批判し、自ら「地方の時代」を先鞭する行動であった。
 一九七九年四月の自治省「新広域市町村圏計画策定要綱」は、新たな事業展開に即応して、広域行政も新たな展開を示す。すなわち、新事業の展開に伴い、従来の協議会(注)を廃止して、一部事務組合=複合事務組合を設置することを指示し、さらには同一の広域市町村圏に属するすべての市町村の合併を想定する措置をも指示したのである。基礎自治体の財政力確保を大義名分とした、一面的な規模拡大である。
 市町村の規模拡大=大合併構想は、臨時行政調査会(臨調)によってさらに促進された。一九八一年七月の臨調第一次答申は、「国と地方との機能分担及び地方行政の改善」に関する検討事項として、「広域行政需要への対応方式」をあげ、更に翌年七月の第三次答申(基本答申)では、「広域行政に対応する地方行政体制の整備」として、当面、市町村間の共同処理方式によって対応しつつ、市町村合併への条件整備を図っていく、とした。
 このような動きの中で、対照的に、従来の道州制構想は下火となる。一九八一年七月の地方制度調査会答申は、「府県制の現状維持」を表明し、翌年の臨調基本答申も、府県をこえる広域行政については、長期的・総合的な観点から行なうとして、将来の課題にした。高度成長が終焉する情勢下で、道州制論議は明らかに後退したのである。そこでは、市町村や府県における地域政策、とりわけ広域市町村圏でのそれが中心論議となっていったのである。
 だが、そのような中でも関西経済連合会は、執拗に道州制構想に固執する。一九八一年、関経連は、次のような「地方庁構想」を公表する。
 *全国を7〜102ブロックに分け、地方庁を設置する。
 *地方庁の長官は、国会の同意をえて、首相が任命する。
 *地方庁は、国の総合出先機関であり、域内の総合調整機関となる。
 これは、民間機関の提唱であるが、あくまでも中央政府の地方機関を大規模化するものである。地方自治・住民自治とは、無関係なものでしかない。
 同じ年に、大分県の平松知事も、次のような「九州府・九州議会構想」を明らかにする。
*九州地区の国の出先機関を一本化し、権限を移譲し、その機能を各県に移譲するとともに、道州制を導入する。
*九州議会は、各県各界の代表により構成され、県境を越える問題の提言を行ない、それを各県および九州府が実施する。
 これは、現行の都道府県―市町村という二層制を改め、九州府―県―市町村という三層制にするものであり、屋上屋を重ねるもので、しかも基礎自治体を軸としたものではない。


   〈定住構想の行き詰まりとテクノポリス構想へ〉

 過密・過疎問題を象徴的に現わす、地方圏から三大都市圏への人口流入は、一九七〇年代後半に入って大きく変化し、ほぼ均衡状態となる。しかし、地方圏では、県庁所在地など中心的都市部への人口集中が顕著となり、地方圏での過密・過疎問題はいっそう深刻となる。
 また、三全総フォローアップ「産業専門委員会」報告は、定住構想の柱である工業の地方分散について、産業の知識集約化・情報化が強まる動きの中で、工業の地方圏での新規立地が低調であり、工業分散中心の産業振興は既に行き詰ってきた、とした。そして、今後は、経済・産業構造の転換に対応する形で、地域の自主性や創意工夫による「地域産業掘り起こし」を目指すべきとした。
 こうして、一九八三年五月、「高度技術工業集積地域開発促進法」(テクノポリス法)が成立し、これにもとづくテクノポリス構想が打ち出された。これは、定住構想の工場再配置の産業政策を内容付けるものである。具体的には先端技術産業の地方立地拠点の形成を目指すもので、全国で26地域を指定している。
 この指定地域の基準は、大都市圏以外の地域で、ハイテク企業の立地が進んでいるか、あるいは誘致見込みがあり、空港、新幹線駅、高速道路などのアクセスがあること、生活基盤が整備された母市があり、大学や研究機関が備わっていることなどである。
 テクノポリス構想は、地域の文化・伝統と豊な自然に、先端産業技術の活力を導入し、「産」(先端産業技術群)・「学」(学術研究機関・試験研究機関)・「住」(潤いのある快適な生活環境)が調和した町づくり・都市づくりを中心目標とした定住構想なのである。
 日本の産業構造が、いわゆる「重厚長大型」から「軽薄短小型」へ移行する時代状況の下で、今度は、各県などがエレクトロニクスやバイオテクノロジーなどの先端産業の誘致にしのぎを削ることになるのであった。
 しかし、テクノポリス構想には、地方自治の観点から見ると、重大な問題が存在する。
 テクノポリス法は、たしかに開発計画の策定権限を都道府県に与えており、都道府県は独自の判断で開発計画に住民参加の手続きを導入することもできる。しかし、計画策定はあくまでも行政主導であり、住民参加の保証規定もない。また、国の開発指定・策定によって、都道府県の地域選定・計画策定権も侵害されうるものである。
 そこには、上からの地域経済の開発構想はあっても、住民主体の町づくり・都市づくりはない。単に、上からの開発計画と、文化や教育をふくめた豊な地域生活の願望が、外的に結合されたものでしかない。結局、テクノポリス構想においては、定住圏の「福祉構想」と、先端産業誘致という「企業社会型構想」が結合された形ではあるが、究極的には、後者が優先されたものでしかなかったのである。   (つづく)
 
 (注)協議会は、普通地方公共団体の事務の一部などを共同処理する方式の一つである。協議会には、同じく共同処理方式の一つである一部事務組合とは異なり、法人格が与えられていない。