道州制論議に寄せて−地方支配の歴史的変遷G
 革新自治体の増大と道州制の再燃

   W全国総合開発計画と広域行政
                   
   堀米 純一



     (二)新全総でも過密・過疎の進行

〈反公害で住民運動の全国化〉
 全国総合開発計画(後に一全総と称される)によって、さらに高度成長を推進しようという支配階級の目論見を脅(おびや)かしたのは、高度成長そのものが生み出した諸矛盾である。
 資本主義がもたらす工業・都市中心主義は、大都市への人口集中と、農業・林業・漁業に依存する地方の人口減少に伴う過密・過疎問題を全国で引き起した。これが、第一の問題である。
 大都市の過密化は、小中学校や保育園・幼稚園、上下水道施設、住宅などの不足により、行政需要を急激に拡大させた。他方、農業など第一次産業を主とする地方の過疎化は、労働力不足(出稼ぎ問題や三ちゃん農業など)や出稼ぎ、また生活の困難をもたらす。このため一部では廃村をもたらし、のちには高齢化と人口減少で限界集落をますます増大させている。このため、地方でも行政需要を拡大させることとなる。
 第二の問題は、高度成長により、無政府的な企業活動が全国各地で広がり、公害問題が続出した。
 水銀汚染、河川の汚濁と悪臭、大気汚染・光化学スモッグなどは、住民の健康や生活環境を直接的に脅かし、全国各地で住民運動を爆発させた。
 戦後日本の住民運動の画期をなしたのは、一九六四年、静岡県の三島・沼津で展開された石油コンビナート誘致反対運動といわれる。全国的なブームとなった開発主義の中で、ここでは住民が決起し、大規模コンビナートの誘致・建設を阻止したのである。
 福島県いわき市の小名浜地区では、一九七〇年に、企業と住民の間で、公害防止協定が全国で始めて締結された。同じ時期、群馬県安中市では、カドミ汚染をまきちらす亜鉛精錬所に対し、住民が前橋地検に告発し、全国で始めて企業側に有罪判決が下された。
 この時期、いわゆる「公害四大裁判」の判決も下されている。一九七一年八月の「富山イタイイタイ病(富山県神通川流域)」、同年九月の「新潟水俣病(新潟県阿賀野川下流での有機水銀による水俣病)」、一九七二年七月の「四日市ぜんそく」、一九七三年三月の「熊本水俣病(水俣湾でのチッソ水俣病)」の判決である。
 これらをキッカケとして、裁判も利用して行政責任を迫る住民運動が、さらに各地で展開されるようになる。

〈革新自治体の続出〉
 高度成長を促進する全国総合開発計画がもたらす諸矛盾は、自治体行政に大きな影響をもたらす。
 まず第一は、開発主義によって住民の福祉を発展させるという目論見が、総てとは言わないとしても多くの自治体で外れたことである。
 その代表例が倉敷市である。同市は新産都市の優等生と言われながら赤字団体に転落してしまったのである。かつて倉敷市は、財政力指数(基準財政収入額を基準財政需要額で序して得た数値の過去三カ年の平均値)が1・5といわれるほどの全国屈指の富裕団体であった。それが、一九五三年以降の地域開発推進の中で、一九五六〜六一年度、一九六四〜六六年度の二度にわたって赤字再建団体に転落したのであった。
 その原因は、一つは産業基盤整備に対する巨額の投資であり、もう一つは過大な工場誘致奨励金であった。
一九六〇〜六七年までの間に投下された公共事業費五三二億円のうち倉敷市のそれが一五五億円で、これに見合って伸びた市税はわずか六五億円でしかない。 
さらに大きな赤字原因の一つは、巨額の工場誘致奨励金の交付であった。一九六〇〜六七年度の間に十一・九八億円、一九七〇年度までの11年間では三九・八億円という大規模なものであった。
 開発主義に依存した自治体財政は、その多くが税収減、財政危機へと転落したのである。たとえ、それが免れた企業城下町であっても、景気動向に左右された不安定な財政構造、さらには住民自治が企業によって剥奪された「地方自治」に陥るのであった。
 第二は、従来の自治体の体質の転換が行なわれたことである。
 たとえば、住民のリコール権の行使である。国会とは違い、リコール権を保持する地方自治体では、従来も、汚職や選挙法違反などで首長の辞職や地方議会の解散が、リコール活動の圧力によって行なわれた例は数多くある。
 しかし、この時期には、公害反対運動の爆発に伴って、リコール運動に発展する新たな事態に立ち至っている。
一九六九年十月、大分県臼杵市の足立義雄市長が大阪セメント誘致を発表する。翌年三月、企業との協定書に調印する。これに対し、労働者市民は、「緑の田園都市を白い粉じんの町にするな」と公害追放を市政に迫り、それは市長リコールの運動に発展する。これに恐れた市長は、ただちに辞意を表明する。だが前市長は、姑息にも、突如「再出馬」を明らかにし、激しい攻防の末に再選する。しかし、リコール運動はいったんは市長辞職に追い詰めたのである。そして、臼杵市風成(かざなし)地区の漁民たちは、大分県・臼杵市・臼杵市漁協との「漁業権確認、埋め立て免許取消」の裁判闘争で、一九七一年七月の大分地裁、一九七三年十月の福岡高裁と、全面的に勝訴した。
 反公害運動の発展は、権利意識や自立意識を高め、これ自身が行政体質の変革に大きな影響を発揮するようになる。そのことは、まず一九五〇年代後半から六〇年代にかけて、革新自治体が全国につぎつぎと成立したことに現われている。
 一九五五年の第三回、一九五九年の第四回の統一地方選挙では、帯広市、延岡市、津山市、釧路市、岡山市、仙台市などで革新市長が誕生していたが、一九六三年の第五回統一地方選挙では、さらに横浜市、京都市、大阪市、北九州市の大都市でも革新市長を成立させた。これらの革新市長は、かつてのような労組幹部型とは異なり、住民運動・市民運動を背景とした市民型市長として登場してきた。
 一九六七年の第六回統一地方選では、ついに首都東京で革新知事が誕生し、一九七一年の第七回統一地方選では、大阪府、川崎市で革新首長が成立し、さらに翌年の一九七二年には復帰後の沖縄県で、首都隣県の埼玉県でも革新知事が誕生している。
 太平洋沿岸の大都市を中心とする革新首長の続出は、新たな自治体行政をもたらし、住民自治への大きな一歩をもたらした。
 革新自治体の大きな功績は、まず第一に、生活優先や福祉重視をかかげて、中央政府の施策をリードしたことにみられる。とりわけ、公害行政(公害防止協定、公害防止条例など)や福祉行政(老人医療費の公費負担、児童手当など)では、自治体先行の政策を実践した。この結果、これまで条例を法律に従属的で下位の制定法とする説が主流であったのに対して、公害問題の噴出で、既成の法律レベルでは対応できず、先行的に各自治体が地域の実情に即した条例を作って対処することが増えて、司法の側などもまた、これを出来る限り生かし、その自主性を尊重するように法律を幅広く解釈するという考え方が有力になってきたのである。
功績の第二は、革新自治体の下で住民自治の第一歩が刻まれたことである。
飛鳥田横浜市政に代表されるように、革新自治体は「市民との対話」、「市民参加」の行政など、まだ初歩的ではあるが住民自治を促がす自治体行政を推進した。保守系の市政が住民自治などを夢にも思わなかった当時においては、極めて先進的なことであった。

〈矛盾解決をあまく見た新全総〉
一全総(全国総合開発計画)が実施される中で、都市への大規模な人口集中が進み、全国的に広い範囲で過密・過疎問題が生じ、また、各地で公害問題が社会的な一大争点となる。そうした状況の下で、一九六八年四月、国土総合開発審議会(一九五〇年に公布された国土総合開発法に基づいて作られた)は、目標年次を一九八五年に置いた新たな全国総合開発計画を策定し、これは翌年五月に「新全国総合開発計画」(新全総または二全総と略称)として閣議決定される。
新全総は一全総の拠点開発方式に代って、全国を一つの視野におさめて、過密と過疎の同時解決を進め、全国土の有効活用を目指した開発条件の全国的な整備と開発可能性の全国土への拡大などが目指された。
新全総の開発戦略としては、@日本列島の全域に効果を及ぼすネットワークを形成するための情報通信網、航空網、新幹線鉄道網、高速道路網、港湾建設などの国土の空間構造の基礎づくり、A産業規模の拡大、技術の集大成、大量生産方式などをともなう大規模産業開発プロジェクトによって、大規模な工業基地・流通基地・畜産開発基地・観光開発基地などの建設、B環境保全の観点から農山漁村や都市の環境保全計画、大都市の諸施設の再配置に関する大規模プロジェクトの実現などである。
この計画は、東京を中心とした大都市の中枢管理機能のレベルアップによって、効率的に全国の地域開発を促進させうるとし、地域格差は経済発展の波及効果によって解決しうるとした。
しかし、のちの田中角栄内閣の日本列島改造論の破綻が示すように、単なる一全総の延長でしかなく、過密過疎問題が解決しうる代物ではなかった。また、公害問題に真正面から取り組む姿勢も決してなく、ひたすら高度成長の持続の中で、諸矛盾は解決しうるという暴論でしかなかった。

〈財界総出で道州制〉
 日本商工会議所(日商)は、かねてより道州制に熱心な永野重雄富士製鉄社長が、一九六九年九月十八日に会頭に就任することで、同問題を強力に推進するようになる。そして、九月下旬、日商、経団連〔経済団体連合会〕、日経連〔日本経営者団体連盟〕、経済同友会の財界四団体首脳の会議では、@資本・貿易自由化の促進に伴う日米間の摩擦解消に努めるとともに、A道州制への移行など地方行政の広域化を四団体が協力して推し進めるとした。新全総と歩調を合わせた道州制構想である。
 日商は、同年十月一五日、永野重雄体制になってからの初めての会頭・副会頭で、道州制を政府に要請することを決めた。
日商の道州制構想の概要は、次のようなものである。
@基本方針―都道府県制を廃止し、全国に八ブロック程度の道州を設置する。国と市町村との中間にある行政機構とする。
A区域―自然的、社会的、経済的諸条件を考えてきめる。(十二月二二日に決定された具体案では、全国を次のように八ブロックに分ける。北海道、東北州、関東州〔関東諸県と山梨・長野・新潟〕、中部州〔富山・石川・岐阜・愛知・静岡・三重〕、近畿州〔近畿諸県と福井〕、中国州、四国州、九州)
B組織―道州に議決機関として議会を置く。議員定数は人口に応じてきめるが、さしあたり旧府県の議員の定数合計数にする。道州の長として知事(仮称)を置き、旧府県庁所在地に地方事務所を設ける。
C事務―国の事務や出先機関の権限はできるだけ道州に移譲する。現在の都道府県が行なっている事務のうち、住民の日常生活に直結する事務は、なるべく市町村に移管し、道州は広域的に処理する事務だけにする。(日商は、一九七〇年三月二六日の総会で、「道州制の設置に関する意見」を正式採択する)
 同年十月二四日には、経団連と関経連は、道州制の実現で一致した。この政治的キッカケは、「府県合併特例法案」が、三度国会に提出され、いずれも実現しなかったことが背景として存在する。
日商の提言に続いて、同年十月二七日、関西経済連合会(芦原義重会長)の常任理事会も、道州制を政府へ要請するとした。
日商などが提唱する道州制構想について、野党は、「自治能力の範囲を超えている」、「結局は国の下請け機関となり、中央集権制を強めるだけだ」などといって、反対した。自治労も、「きめの細かい住民サービスができない」として反対した。
廃止を宣告された全国知事会は、当然のこととして反対した。所轄官庁である自治省も、道州制構想に気乗り薄で、それは将来の課題であるとして、当面は、市町村あるいはその広域連合の育成強化に力を入れるべきとした。
では、道州制構想に関する当時の推進者たちの主張は、一体、いかなるものであったのだろうか。
賛成論者の論拠は、大まかに言うと、第一に、府県と市、あるいは国の出先機関と地方公共団体の「二重行政」が、行政能率を著しく阻害している。第二に、過密・過疎や公害などの解消になる。第三に、府県の区域がもはや狭く、発展する社会経済の要請に応えられていない―である。
第一の論拠は、「二重行政」を批判する点では一理あるが、しかし、だからといって道州制構想が正しいことにはならない。
住民自治・地方自治の観点から言えば、広域行政を主たる任務とする「中間政府」は、なにも画一的な制度にする必要はない。大都市自治体にとっては、府県は必要ではなく、むしろ自ら独立化するとともに、新たにより現実性のある、より狭い「フェイス ツウ フェイス」の基礎自治体の形成が必要なのである。
また、市町村連合や府県連合による事務処理を柔軟に扱うことができるシステムをもって活用すべきなのである。というのは、生起した矛盾を関係自治体が対等・平等で処理することが不得手な状況を克服しなくては、より上位の機関の下での解決をはかり、ヒエラルヒー秩序を再生産するからである。
第二の論拠は、全くの論理のすり替えである。
日商の討議資料は、「工場地帯がはきだすばい煙は、その周辺の他の府県にまで、広がっています。府県単位の防止対策では、その効果をあげることができまん」と、しらじらしいことを言っている。資本の運動が公害や過密・過疎などの諸問題を引き起している元凶であるにもかかわらず、そのための努力もしないで、道州制によって諸矛盾を解決しようというのは本末転倒である。工業用水の問題でも、道州制になれば複数の府県の許可が不要になるので便利になるというが、それは企業のエゴイズムそのもので、資本家たちの身勝手なものでしかない。道州制になろうとも、企業の利益と水源地域の住民の利益が自動的に解決されることにはならないのである。
第三の主張は、全くのごまかしの論理である。
資本活動の条件は、基本的に封建制の廃絶過程で実現できているのであり、府県制によって基本的には制約があるわけではない。資本活動のための諸条件と行政区域の大小とは、直接には関係なく相対的に別の事柄である。日商の論理で言うと、資本主義が発展すればするほど行政区画は広くなり、遂には中間政府は不必要になってしまうであろう。
資本家たちの狙いは、府県をまたがった大規模開発に必要な社会資本の整備に必要な巨額な資金投下や事業の迅速な展開を進める行政のバックアップが欲しいのであり、住民自治に必要な自治体制などは全く眼中にはないのである。
自治の観点では、まず住民自治の諸条件の整備とそのための団体自治が重要なのであり、そのためには基礎自治体の充実が極めて重要なのである。大規模な中間政府がアプリオリに必要なのではない。東北や北海道などでは、狭すぎるのではなく、逆に広すぎるのである。中間政府はあくまでも基礎自治体の補完事務が主要なものなのである。(つづく)