道州制論議に寄せて−地方支配の歴史的変遷F
  開発主義と中央への依存
                        堀込 純一


W全国総合開発計画と広域行政


 一九五〇年代後半は、高度成長が始動する時期であり、同時に、戦後地方自治のあり方も大きく変貌し、今日に至るまで根強く残る地方自治体制の体質が形作られる時期でもある。
その体質とは、一言でいうならば「自治体行政の開発主義と中央政府への依存・従属」である。すなわち、一九五九年の地方選挙において、「中央直結」の「地方自治」がうたわれたように、自治体は文字通り中央の高度経済成長政策を与える地方基盤としての役割を果すことに専念するように誘導され。中央政府は全国的な経済計画、地域開発計画を作り、産業基盤の整備、基幹産業の拡充のために、大規模に財政を投入し、足りなければ財政投融資をもって補充した。このもとで各府県の総合開発計画が作られ、工場誘致、産業基盤整備のための先行投資や重化学工業コンビナートの建設が国家財政の補助金が投入されて推し進められた。さらに新市町村建設計画によって合併・拡大した市町村自治体は、工場誘致条例を制定して工業化の下請の役割を果し、また新農山漁村建設計画によって『新しい村づくり』―農村近代化もすすめられ、工業化をささえる農村基盤をつくりあげていった。

(一)全国総合開発計画(1962・10)
                 と自治体再編


前号で述べた関経連の「地方行政機構の改革に関する意見」(一九五五年四月)や第四次地制調の「地方制度の改革に関する答申」(一九五七年十月)などの道州制構想は、その経済的背景として国土開発政策があった。
たとえば、第四次地制調の答申の多数意見として発表された「地方制」案では、「限られた国土および資源の開発利用、各種産業立地条件の整備等の諸施策を、強力にかつ効果的に推進する」ための「合理的行政制度」として、府県を廃止し全国を7〜9ブロックに区分した道州制(詳しくは、前号参照)を打ち出している。
しかし、この頃の国土開発政策は、未だ特定地域の開発政策であった。それが全国総合開発の段階となると、中央政府が正面に躍り出た全国的な開発政策であった。それは、高度成長をやみくもに更新しようというものである。
安保闘争で岸政権が打倒され、その後、政権を継いだ池田内閣は、「低姿勢」を打ち出し、人民懐柔策として、一九六〇年に所得倍増計画、一九六二年に全国総合開発計画を提起する。これが、のちに続く全国総合開発計画の初めてのものである。
この開発計画は、重化学工業化のコンビナート中心の拠点開発方式を全国に押し広める政策であり、「低開発地域工業開発促進法」(一九六一年十一月)、「新産業都市建設促進法」(一九六二年五月)、「工業整備特別地域整備促進法」(一九六四年七月)などをテコとして推進された。だが、それは地域的には全国をおしなべて開発するのでなく、100万都市構想といわれるように、重化学工業の立地可能地点を開発拠点とし、拠点地域の開発効果を周辺地域や他産業に波及させようというものである。
この拠点地域として取上げられたのが、「新産都市」および「工業整備特別地域」である。

〈新産都市指定で世紀の陳情合戦〉

この拠点都市の開発をめぐって、官庁間での凄まじい競争と権限争いが展開される。すなわち、自治省の「地方開発基幹都市構想」、建設省の「広域都市建設構想」、通産省の「工業適正配置構想」が三つ巴となり、法案作成争い(これを獲得すると利権の確保になる)が展開されたのである。
この争いには、結局、自民党の工業開発特別委員会(橋本登美三郎委員長)が入って調整し、「新産業都市建設促進法」となる。
この構想に、当時、ようやく財政窮乏から脱しつつあった地方自治体が飛びつくこととなる。この地域開発こそが「住民の福祉向上」につながる最高の目標だというのである。
このため、新産都市の指定には、まさに史上空前の「世紀の陳情合戦」になったといわれる。大都市を擁する県以外で名乗りを上げなかったのは、京都府と奈良県のみで、各県一斉に陳情を行なったと言う。それはまさに凄まじく、陳情費が公式で約6億円、新産都市建設補助金の初年度分に匹敵したといわれる。
この浅ましいほどの陳情合戦の結果、次の15か所が新産都市に指定され、次の6か所が準新産都市といわれる工業整備特別地域に指定された。
(新産都市)―道央、八戸、仙台湾、常磐郡山、新潟、富山高山、松本諏訪、岡山県南、徳島、東予、大分、日向延岡、有明不知火、大牟田、秋田臨海
(工業整備特別地域)―鹿島、駿河湾、東三河、播磨、備後、周南
全国総合開発計画の遂行は、広域行政をおしすすめ、自治体の再編成を促がしたが、しかし、これは中央政府主導の色彩がきわめて濃厚で、地域住民の利害を軽視したため、さまざまな矛盾をもたらした。

〈連合構想や府県合併構想の破産〉

この中で、各種レベルの広域行政の構想や実際的な動きが進められた。
その第一は、地方自治体の連合構想である。
一九六二年十一月、第八次地方制度調査会(地制調)は、「地方開発都市に関する答申」で、「数市町村の区域にわたる地方都市建設のための市町村の連合体設置」を提起した。それは、全総の拠点開発計画に応じた行政機構の構想である。
一九六三年十二月には、第九次地制調の「行政事務再配分に関する答申」が、事務再配分の受け皿としての地方公共団体連合制度の創設を提唱した。これは、経済・社会・文化の発展にともなった、都道府県や市町村の区域をこえた広域の事務を処理するために、協議会、一部事務組合、開発事業団など各種の共同処理方式(補注)の活用と共に、地方公共団体の連合を構想し、総合計画の策定とそれに基づく事務の実施を推進し調整すること、執行機関として理事会を置くこと、財源を分担金・基金・起債などによることとした。
 これらの答申を受けて、自治省は一九六四年の国会に、「連合法案」をはじめて提出した。しかし、これは審議未了で終わった。それは、主要には、当時、論議の的となっていた「府県合併特例法案」(詳しくは前号参照)の実現にとって水をさすものであるという批判が強かったためである。
 広域行政への第二の動きは、府県合併構想である。
 一九六三年十二月、第九次地制調の「行政事務の再配分に関する答申」で、初めて都道府県の自主合併と広域的行政処理のための府県連合が打ち出された。これを受けて、一九六五年九月、第十次地制調の「府県合併に関する答申」では、府県自主合併が展開された。答申は、近年の社会的・経済的発展にともない、広域的行政処理の要請が増大しているのに対応して、府県合併が府県の区域を越える広域行政の合理的かつ効率的な処理を可能にするとともに、広域的地方公共団体としての府県の自治能力を充実強化するための効果的方法であるとしている。
 これらの答申を受けて、政府は、一九六五年末に「府県合併特例法案」を国会に提出する。しかし、これは前号でもみたように廃案となる。その後も二度にわたって提案するが、やはり廃案となる。

〈自治を忘れた規模拡大追及〉

 広域行政への第三の動きは、地域開発を進めるための市町村合併の新たな展開である。
 一九六二年五月の「新産業都市建設促進法」は、その第23条で、「新産都市の一体的な建設を促進するために……市町村合併によりその規模の適正化及び運営の合理化に資するように配慮しなければならない」と定めた。
これにより、新産都市の指定を受けた15の都市が、周辺の市町村との合併を進めた。たとえば、福島県のいわき市の場合は14市町村との、同県郡山市の場合は11市町村との、岡山県の倉敷市の場合は3市との、大分県の大分市の場合は6市町村との合併であった。
政府は、こうした動きを全国的に推し進めるために、一九六二年五月に「市の合併特例法」を、一九六五年三月に「市町村合併特例法」を制定し、北九州市、東大阪市、東広島市など大都市の確立を強力に促したのである。とりわけ、北九州市の成立は、政令指定都市が五大都市(神戸市、大阪市、京都市、名古屋市、横浜市)に限定されるのでなく、それ以上に増加するターニングポイント(一九六三年)となった。
こうして、一九五三年に始まった「昭和の大合併」は、当初の基礎的自治体としての財政規模を確立するための合併から地域開発のための都市建設へと目的を変更しながら、合併のピークを迎える。一九六七年三月一日現在の市町村数は3329となり、一九五三年当時の三分の一にまで大激減したのであった。
しかし、効率一辺倒からくる規模拡大や大企業本位の都市建設は、大きな矛盾をはらんでいた。
このため、一つには住民の合併反対運動で破産する例がでてくる。たとえば、一九六五年の静岡県三島・沼津・清水の二市一町の合併計画である。これは、東駿河湾地域の工業
特別整備地域の指定の下で、静岡県の地域振興計画に基づく沼津・三島地区の広域都市計画によって推進されたものである。しかし、沼津・三島地区への石油化学コンビナート立地計画が、広汎な住民の反対運動によって撤回される事態に陥る。このため市町村合併も実現しなかった。同様に、住民不在の合併計画により、破産した例として有名なものには、仙台湾新産都市計画に基づく仙台・塩釜地区五市町村の合併や、大阪府の衛星都市合併促進計画に基づく、大阪・泉北三市の合併などがある。
 もう一つは、合併自身は実現したが、自治に適正な規模の問題や住民の福祉を軽視した自治のあり方などが問われるケースも少なからず存在した。その象徴は、一九六六年に新産都市合併により形成された福島県のいわき市である。それは、新産都市常磐・郡山地区を基盤に、14市町村の合併でできあがったもので、旧磐城(いわき)・勿来(なこそ)臨界工業地帯を核に周辺の町村部を加えたものである。
そこでは、行財政の効率性と工業開発を大義名分として、企業の利益のための合理性が第一であり、住民の福祉をになう地方自治ではなかったのである。まさに本末転倒の市町村合併=新産都市建設なのであった。
広域行政への第四の動きは、開発事業団方式である。住民間の利害対立の複雑さから強引な合併や連合を避けたもので、経過的措置としてとられた。
「一九六三年六月に設置された特別地方公共団体の『地方開発事業団』は、府県を含む地方公共団体が共同して設置し、住宅、工業用水、道路、港湾、上下水道、公園、緑地をめぐる土地造成、区画整理事業を営み、事業完了後の維持管理が地方公共団体に引き継がれる点で、一部事務組合や連合・合併にかわる事業組織として機能するものであった。そしてさらには、新産業都市建設をめぐる地域開発を推進していった」(山田公平著「広域行政と自治体再編成をめぐる歩み」―『地域と自治体』第20集「広域行政と地方分権」自治体研究社 1993年)といわれている。
この時期、破産した府県連合案・府県合併案やいくつもの問題を内包した基礎自治体の規模拡大という状況が存在したにもかかわらず、現実には広域行政の需要はますますたかまっていた。そのことは、つぎのような形で現われている。すなわち、「全体としてみるなら、この時期の広域行政は、本来の事務共同処理方式において、いちじるしい進展をみせていた。とくに市町村の事務組合は、一九六〇年の1489から六四年の1917までに急増しており、その内訳は、厚生福祉六四一、環境衛生三八二、教育二三二、農林三〇三、その他二一八などで、病院、老人福祉、ごみ・し尿処理を中心に、広域行政の需要がますます強まりつつあることを示していた。」(同前)のである。(つづく)

(補注)地方公共団体の広域事務処理体制として戦前から存在しており、戦後も多くの件数で存在するのは、地方公共団体の一部事務組合である。小中学校の教育の分野、ゴミ・し尿処理など環境衛生の分野、老人ホームなど社会福祉の分野、消防の分野などにみられ、主に市町村の共同事務処理として行われている。これが地方自治法上の第一の広域行政処理体制である。
 第二の体制は、協議会、職員・機関の共同設置、事務委託などによる共同事務処理方式である。これは、一部事務組合の設立によらないで、より簡便な手続でできる方式として
一九五二年に制度化されたものである。協議会は、地方公共団体の事務の管理執行についての連絡調整を図り、また広域にわたる総合的な計画を共同して作成するために、関係地方公共団体の協議により設置される。ただこのような法定の手続に基づかないで、実質的に協議会同様なものも多い。協議会方式は、地域開発計画、農業振興、道路建設、水資源開発などの広い分野にわたっている。職員または機関の共同設置方式は、協議により規約を定めて、地方公共団体の職員または機関を共同して設置する方式である。事務の委託方式は、施設の管理や市町村における公平委員会の公平事務の県人事委員会に対する委託などに活用されている。
第三の体制は、地方開発事業団の方式である。これは、地域開発関係の事業を設立団体の委託によって実施するための制度で、施設などの完成後はこれを設立団体に移管する。一九六三年に法制化された。地方開発事業団は、複数の普通地方公共団体が設立する一部事務組合に類似しているが、次のような違いがある。@住宅、工業用水道、道路、港湾、水道、下水道、公園緑地などの施設の建設、そのための土地、工場用地その他の用地の取得又は造成などの事務のみが対象である。A開発に関する建設事業を総合的に実施するもので、一種類のみの事業団を想定してない。B地域開発事業を能率的弾力的に行なうため、議会はおかれず、議決機関と執行機関を一元化した理事会制度である。
第四の体制は、地方公共団体の連合及び複合的一部事務組合の方式である。連合方式は、本文で述べたようなものと、それをさらに弾力されたもの(一九六九年の第十三次地制調の「広域市町村圏および地方公共団体の連合に関する答申」)も提起された。しかし、結局、連合方式は制定されなかった。そこで、この方式のような考え方に基づき、一九七四年に複合的一部事務組合の制度が制定された。これは、複数の事務の共同処理について、構成団体のすべてに共通の事務でなくとも、一部事務組合を設けることができる道を切り開いた。

訂正1前号2面の最下段、後ろから9行目―「一八六八年」を「一九六八年」に訂正。2前号2面の下から2段目、後ろから7行目―「イ)について」を「府県合併の決定について」に訂正。読者の皆さんにご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。