道州制論議に寄せて――地方支配の歴史的変遷E
 道州制構想と府県制の動揺
                            堀込 純一

 V次々と逆流する地方自治改革

  (四)最後の官治的道州制構想の破綻


一九五二年八月十八日、地方制度調査会設置法が制定され、これに基づき総理府の審議会として、同調査会が設置された。地方制度調査会(同名の組織は一九四六年一〇月にも組織されている。以下、地制調と略)は、内閣総理大臣の諮問に応じて、「日本国憲法の基本理念を十分に具現するように現行地方制度に全般的な検討を加えることを目的とする」(第一条)審議会である。
第一次地制調は、「地方制度の根本的改革」についての諮問に対して、一九五三年十月十六日、とりあえず当面とるべき措置として「地方制度の改革に関する答申」を提出した。
この答申では、基本的に現行方式を肯定しているが、「(2)地方公共団体の規模の合理性に関する事項」では、「3 府県の規模の合理化については、その実態に即応し、道州制等の問題と併せて考慮するものとすること。」と、既に道州制構想への展望が垣間見られている。
一九五四〜五五年にかけての第二次地制調では、府県制度の根本的改革の意見が強く出てきた。国側からは、@府県の規模や財政力に差があるため、全国的に統一した行政の処理が困難である、A各府県の割拠主義が国家的な行政運営に支障をきたす、B知事公選制の弊害、C国の地方出先機関と府県が並存しているためロスが多い―などの問題点が指摘された。市町村側からは、@町村合併でその規模・財政力が大きくなってきたから、従来府県が処理してきた事務も、今後は市町村でできる。A府県は町村の上の監督官庁的存在として臨み、町村自治の伸長のプラスにならない。B地方団体の構成として、府県と市町村の二層構造は必要なく、自治体としては市町村一本でよく、府県は無用である―などの主張がなされた。
だが地制調は、一九五五年から五六年にかけて、地方財政の改善方策についての答申に忙殺される。

〈関経連と自民党〉
関西経済団体連合会は、一九五四年十二月二十一日、地方行財政研究委員会を臨時に設置し、研究をかさねてきたが、一九五五年四月十一日に、「地方行政機構の改革に関する意見」を最終的に決定した。そして、この「意見」を自治庁その他関係各方面に建議している。
 この「意見」の骨子は、@府県制度は廃止する。A市町村規模を再編して、完全自治体として育成強化する。B国の総合出先機関としての道州を設置する。道州の長は官吏とする。C一般の都市とは異なる大都市に特有な行政機構の必要を認め、当該地域内の行政事務を自主的に処理させる。
関経連のこの「意見」の最大の特徴は、府県制度を廃止し、自治体としては市町村に限定し、国の行政機構を道州制として全国に拡大させる点にある。
関経連は、折から進行しつつある「昭和の大合併」といわれる市町村合併を前提として、「市町村の行財政能力の充実を伴い、現行府県の処理する行政事務のうち地方住民に直接関係あるものは総て市町村に移譲し、府県を廃止し、現存の如き二重行政・二重監督の不合理を除くべき」としている。しかし、それは表向きの名分であり、真の狙いは、地方自治体の行政範囲を市町村に限定し、地方自治体の広域行政を全面的に否定し、国家の行政権限を道州制を通して拡大させることである。一言で言えば、地方自治のための戦後改革を評価すると言う言葉とは裏腹に、戦前同様の国家行政の拡大を狙うものである。
一九五五年十一月十五日、自由党と民主党の保守合同により、自由民主党の結党大会が開催された。その合同の過程で両党の政策調整が行なわれ、新党の重点政策目標が「政綱」(一九五五年七月決定)としてまとめ上げられた。その「政綱」をさらに具体化したものが「一般政策」であり、そのうち特に重要で、かつ当面解決すべき課題として絞ったものが「緊急政策」である。この「一般政策」「緊急政策」のたたき台となった多数の資料が、一九九三年九月に発見された。その資料のひとつ「地方行財政刷新の基本方針」では、@全国を八ブロックに分けた道州制の施行、A府県庁の廃止、B道州に議会を置く―などの考え方が織り込まれているという。(『読売新聞』同年九月十九日付け朝刊)

〈国家機能の強化拡大計画〉
 第4次地制調は、一九五七年十月十八日、「地方制度の改革に関する答申」を提出した。
 道州制構想を掲げるこの答申案は、出席委員33名中、賛成17名というギリギリの多数で採択されたものであり、反対の12名の支持する「府県統合案」が少数意見として答申に付記された。
 道州制構想は、市長会、市議会議長会、全国町村会の三団体代表によって支持され、知事会のみが強く反対した。
 答申の骨子は、@現行府県は廃止する。A国と市町村との間に中間団体として、「地方」(仮称)を置く。B「地方」の区域を管轄区域とする国の総合地方出先機関「地方府」(仮称)を置く。C大都市行政の運営の合理化を図るため、事務配分の特例その他事務処理上の特例を考慮する―などである。
 関経連の「意見」と地制調の「答申」を比較してみると、府県を廃止し、代わりに道州制を布くという点では、共通している。しかし、この道州制の内容において、次のような大きな差異がある。
 「意見」は、道州を国の総合出先機関とするのに対し、「答申」の場合は、「地方」が「地方公共団体としての性格と国家的性格とをあわせ有するもの」とし、さらに、「地方府」の首長は、「地方」の執行機関たる「地方長」をもってあてることとなっているのである。
 そして、この「答申」の「地方」の特徴をみてみると、以下のようになる。
@区域―「地方」の区域は、「自然的、社会的、経済的、文化的諸条件を総合的に勘案して、全国を七ないし八ブロックに区分した区域によること」である。
A組織―(イ)「地方」に議決機関として議会を置く。議員定数は、40〜120人の範囲で、人口に応じて定める。議員は、「地方」の住民が直接選挙する。任期は、四年とする。(ロ)執行機関―執行機関として、「地方長」を置く。「地方長」は、「『地方』の議会の同意を得て内閣総理大臣が任命する」。「地方」の議会は、内閣総理大臣に対し「地方長」の罷免を請求できる。ただし、「議会は、『地方長』の就任後一年間又は罷免の請求の議決後一年間は、罷免の請求をすることができない」。(ハ)「地方」の職員には、国家公務員と地方公務員を併用する。
B事務―「地方」又はその機関は、国から移譲できる事務、県又はその機関が処理している事務で市町村に移譲できない事務を処理する。「地方」は、その処理する事務につき、条例又は規則を制定することができる。
C財政―「地方」は課税権を有し、起債能力を有する。
 少数意見としての「府県統合案」の内容は、@戦後の地方制度改革を評価し、府県―市町村の完全自治体を堅持する。Aおおむね三〜四の府県の統合により、現行府県の区域を広域化し合理化する。B国・府県・市町村それぞれの機能を明確化し、事務の合理的配分、それを裏付ける財源配分を適正化する―である。
 道州制案(A案)と府県統合案(B案)とを比較すると、大きな違いは二つある。一つは、区域の問題である。A案は全国を7〜8のブロックにし、B案は三〜四の府県を単位とするので、その区域はA案の方が広い。ただし、北海道と四国は一つの単位とする点で同じである。両案に共通するのは、現行の府県では狭すぎるということである。もう一つの違いは、性格の問題である。A案は、「地方」を地方公共団体としての性格と国家的性格を併有するものに改めようとするのに対して、B案は、現行府県の完全自治体たる性格をそのまま維持しようとする。このことに基いて、長の選任方法において、B案が当然公選を維持するのに対して、A案は公選制を廃止し、内閣総理大臣が議会の同意を得て任命することにしている。
 この道州制構想(A案)については、それぞれの立場からの賛否の意見表明があり、知事代表はA案に否定的で、市長代表・町村代表は、A案に条件付きで賛成であった。
 だが、A案に対しては、マスコミや専門家などから多くの批判と注文が集中した。それらはまとめると、@「地方」案が国家的官治的性格が強く、また首長が官選とされことは逆行であること、A府県がなくなって、「地方制」だけになった場合、市町村の自治が果たして守られるかという危惧、B府県制の廃止は、憲法違反にならないかという問題、C地制調の採択がわずか一表差の多数であり、しかも「二者択一」の採決を強行したこと―などである。
 この結果、第四次地制調の答申は、官治的道州制については、旧内務省勢力の復活の色彩が強いという疑念が払えず、他省庁や国民の支持を広く得ることができずに法案化されることもなかった。

  (五)開発ブームで揺れる府県制

 その後、自治省担当者たちは、A案の官治的道州制とは、異なる方向を推進する。多数意見であった「地方制」よりは「府県合併」に傾斜した方向をとる。
 一九五〇年代半ばからの高度成長により、各地で地域開発ブームが進展する。これにともない、経済界の強い働きかけで、府県の区域を越えた広域行政の必要性が唱えられるようになるのである。
 一九六三年、関西では大阪・奈良・和歌山三府県の合併論が、また、中部経済圏でも愛知・岐阜・三重三県の合併論が台頭してくる。最も活発なのは、関西経済連合会や関西経済同友会などが音頭をとった「阪奈和」(大阪・奈良・和歌山)ブロックであった。
 佐藤大阪知事も、「府県統合は時代の大勢だ」と息巻く。小野和歌山知事も、「行政区域が、いまのように細分化していると実にムダが多い。……府県のカベがこれをさえぎっている。」と現状を批判し、合併論に賛成した。
 中京財界の目論見は、伊勢湾臨界工業地帯に三河臨界工業地帯を加え、三重県の内陸工業地帯に精密機械工業、軽工業を配して、総合的な発展を図るという三県統合計画である。
 しかし、阪奈和では奈良県、中京圏では岐阜県・三重県がかなりニュアンスの差があり、しだいに腰が引けていった。
 一九六三年八月、 “日本版EEC”ともいうべき「府県連合」構想が打ち上げられる。これは、府県の「政治的独立性」を保ちながら、経済的には数府県を統合しようというものである。自治省としては、もともとは「府県合併」を推進するつもりであったが、早川自治大臣のEEC構想がマスコミでにぎやかにとりあげられるようになり、方針を「合併」から「連合」へと転換したのであった。同年十二月には、第九次地制調の答申が、「地方公共団体の連合制度」を提言する。
 府県連合案が浮上してきた背景には、大きくいって二つある。一つは、先ほど述べた、地域開発ブームに乗った財界の働きかけである。もう一つは、自治体側が広域行政の要請に応えられない場合、中央省庁の統制方式が拡大するのではないか、という危機感である。
 この中央省庁による統制方式というのは、各省庁の地方出先機関の新設・強化や府県の機能・権限の中央への吸い上げを指す。
 現に当時、@臨時行政調査会第二専門部会の「地方庁」構想など、「国の総合出先機関の設置」構想(一九六四年)、A地方農政局の新設、地方建設局の拡充強化(ともに一九六三年)など、「国の地方出先機関の新設・強化」、B水資源開発公団、阪神高速道路公団(ともに一九六二年)など、政府機関としての公団、事業団などの設立による広域開発事業の実施、C河川法改定などにみられる府県(または府県知事)の権限の国への吸い上げ―などが、広域行政という名の下につぎつぎと進められ、新たな中央集権主義を推進する動きがあったのである。
 そのために、「自治擁護」の観点から、府県連合案が浮上したのである。しかし、府県連合案に対しては、財界と中小県の双方からの批判が寄せられる。
財界など府県合併推進派は、府県連合案は従来からある一部事務組合や、協議会方式とさして変わらず、財政的裏付けも弱く、広域行政の推進母体とするのには中途半端で、弱いものとして、かえって「府県合併に水をさす」と批判する。
慎重派の中小県からは、たとえば岐阜県は「結局は大府県、大都市だけの発言権が強まり、遅れた地方や農村が一番取り残されてしまうのではないか。名古屋への“奉仕”だけに終わってしまう」と、批判がなされる。他にも、府県連合は屋上屋を重ねるものであるとか、中央集権につながるのではないかもなどの批判もあった。
財界などの批判にあって、自民党の地方行政部会では、奥野誠亮議員(旧内務省出身)が中心となって、「都道府県合併促進特例法案」をまとめ、議員立法で提出しようという動きになった。
だが、結局これは国会提出にまでいたらず、また、「府県連合法案」も、一九六四年八月に審議未了、廃案となった。
 同年十一月、第十次地制調が設置され、再び府県合併に関する検討がはじめられ、一九六五年九月に、「府県合併促進に関する答申」がまとまり、政府に報告された。この答申では、国会で法律を制定して住民投票にかける現行方式のほかに、もう一つ、「関係地方議会が過半数の議決を経て申請すれば、内閣総理大臣が国会の議決を経て処理する」という、住民投票を必要としない方式も採用された。
 この住民投票を必要としない方式については、かなりの批判にさらされ、地制調の最終答申では、「関係府県議会の議決にあたっては住民の理解と支持を得てなされるよう十分な配慮を加える」旨が付加された。
 一九六六年四月、この答申をもとに、「府県合併特例法案」がまとめられたが、自民党の政調審議会で、府県合併の決定について、「@原案の府県の議会の議決要件を過半数から三分の二に引上げる、Aもし、過半数を超えても、三分の二に達しないときは、住民投票にかける」ことに修正し、国会に提出された。

(合併案修正にもつぎつぎと批判)
 この法案に対しても、さまざまな批判がなされた。主なものは、つぎのようなものである。第一に、自主的な合併方針は、全国的な合併地図をもっていないので、全国的に見ると寄り合いのデコボコ合併地図が生まれるおそれがある。第二に、合併圏内の地域格差が、一層助長され、消滅する弱小県地域の利益と要求が反映される政治行政機能がなくなる可能性があり、これを合併後も存続させる必要がある。第三に、きわめて重要なことであるが、府県統合の意義は、参議院議員の選挙区とか、交付税の特例措置などだけでなく、もっとも肝心な住民生活ための観点がない、という批判である。
 これらに対して、朝日新聞や日経新聞などは、この合併特例法案に好意的であり、推進するべきとしている。その理由は、経済的発展に応じて府県合併が必要というものであり、肝心の地方自治・住民自治の観点が欠落する経済主義である。
 しかし、府県合併の論議も四年余りつづき、一九六八年ごろには合併熱は次第に冷えてきた。こうして、都道府県合併特性法案も、一九六八年六月に廃案となる。この事態をまえにして、財界の一部などは「道州制」の実現を要望する声が起こってくる。(つづく)