道州制論議に寄せて−地方支配の歴史的変遷D

  都区制の矛盾と違憲論争
               
堀込 純一

   目次
T戦前の道州制構想
 (一)近代日本の地方自治制度                         
 (二)総力戦体制の構築を狙う構想
           (以上、511号)
U戦後自治体制の意義と限界
 (一) 普通直接選挙による知事公選
 (二) 住民自治を前進させる画期的意義
 (三) 自治の前進阻む旧来からの仕組み
       (以上、512号)
 (四) 財政改革進むも依然強い中央統制
       (以上、513号)
V次々と逆流する地方自治改革
 (一) 大幅に変革された警察・教育制度
 (二) 二大支柱の警察と教育の逆進
       (以上、514号)
 (三)打ち続く東京都と特別区の対立
       (以上、本号)


V 次々と逆流する地方自治改革
  (三)打ち続く東京都と特別区の対立

  〈都下区制の変遷〉


 一九五〇年代の「逆コース」は、都制においても顕著にみられた。
 太平洋戦争下の一九四三年、都制が成立し、東京府と東京市は東京都に合体された。市会選任の東京市長は姿を消し、国選官吏の東京都長官が登場した。
 このときの「東京都制」法の骨子については、本紙511号で列挙した。以下では、区に注目して、その制度的変遷を検討する。

【都制成立時の区】
 @区は、法人格(法律上人格を認められ、法律行為を有効になし、権利・義務の主体となりうる)のある制限自治区である。東京都域内の市町村が基礎的単位団体であるのに対して、区は基礎的単位団体ではない。(従って、都は府県のように上級団体であると同時に、三十五区では市町村のように基礎的単位団体でもある)A都長官がかつての東京市三十五区の区長を選任した。区長は官吏である。B区会は、従前と異なり、区の必置機関となった。しかし、区は従来よりも権限が縮小され、昔から持っていた財産や役所・公会堂など、その区の住民が利用する施設を管理することができたにすぎない。従って、区会はその議決する範囲が極めて少ない。C単一制である都財政の統一をみださないために、区には課税権も起債権もない。

【一九四六年の都制改正時の区】
 一九四五年の敗戦に伴い、地方制度の改革が進み、東京都の区もまた改革がなされる。一九四六年九月二十七日に公布された「東京都制の一部を改正する法律」によると、新たな区は、従来の区とは全く異なったものに生まれ変わった。
 まず第一に、区の権限が非常に大きくなり、これにともない区の事務に要する経費にあてるために、今まで全く認められていなかった区税の課税や、公債を発行するなど財政権限が与えられた。第二に、区議会議員の定数が、他の市と同じ程度に増えた。区会は、区長に対して不信任の議決をすることができ、国の法令や都の条例で区の事務と決められたものにつき、区の実情に応じたものにするための「条例」(いわば「区の法律」)を制定でき、また、従来よりはるかに幅の広い予算を決定することができるなど権限が大きく拡大した。第三に、区長は従来、上から任命された官吏であったのが、住民によって選挙される公吏に改められた。第四に、区民は、区長を選任できるだけでなく、区条例の制定・改廃請求権、区の事務の監査請求権、区会の解散請求権、区長・監査委員・区会議員・区会議員選挙管理委員の解職請求権をもつなど、直接民主主義の拠点を拡大した。

【一九四七年地方自治法制定時の区】
 地方自治法は、その第1条で「地方公共団体は、普通地方公共団体及び特別地方公共団体とする。/普通地方公共団体は、都道府県及び市町村とする。/特別地方公共団体は、特別市、特別区、地方公共団体の組合及び財産区とする。」と定めた。東京都の「都」は、道府県と同等に並べられて、「普通地方公共団体」となった。しかし、東京都の「区」は、「特別地方公共団体」の一種である「特別区」と定められ、「普通地方公共団体」の資格はない。このため、東京都はかつての東京市の事務も保持し、都は府県のレベルであるとともに、二十二区(三十五区は整理統合され、一九四七年三月十五日から二十二区となる。さらに同年八月一日、板橋区から練馬区が独立し、二十三区となる)の域内では依然、市の役割(基礎自治体)も兼ねた。
 これに対して、区は新に「特別区」と呼ばれる特別地方公共団体(第281条)となり、形式上、さらに権限は拡大した。すなわち、「法律で特別区の事務と定められたものはもちろん、他の法律などで都が行なう事務と定められていない限りは、普通の市が行なう事務を特別区ができることになった。」(東京都編集『都政十年史』1955年 P.632)のである。これは、地方自治法の第283条の「政令で特別の定をするものを除く外、第2篇中市に関する規定は、特別区にこれを適用する。」としていることに基づく。
 しかし、地方自治法の都と特別区に関係する規定は、きわめて大雑把でしかも矛盾に満ちたものである。すなわち、一方で、特別区を特別地方公共団体と規定しながら、他方では、その権限を拡大して、「……市に関する規定は、特別区にこれを適用する。」としているのである。だが、実質上、市と同様の自治体となったとはいえ、現実には、それに見合った事務・人事・財政の権能が充分に都から特別区に移管されていない(特別区の性格については、都政通信社発行『特別区』1957年 P.201〜205  を参照)。このため、これ以降、区長協議会などによる自治権拡充運動が発展する。そして、都と特別区の間で、「都区調整問題」と称せられて、事務配分をめぐり延々と交渉がつづけられている。
 第一回都区調整問題は、初代公選区長が選出された直後の一九四七年五月から始まる。「特別区協議会」を立ち上げた二十二の特別区の区長たちは、地方自治法の施行(一九四七年五月三日)のわずか13日後に、「自治権拡充に関する具申書」を手交する。
 この背景には次のような現実があった。すなわち「区政の現実は、都職員の区配属制度は相変わらず存続し、実際の仕事も相変わらず都が市(大東京市)の立場で処理するなどほとんど変わらないばかりか、区をふくむ市町村の義務となった小中学校の設置管理権の移譲は行われず、委任事務として区が行っていた都税の賦課徴収や福祉事務・公衆衛生事務などは次々と都に引き揚げ吸収されていった」(公益法人 特別協議会編『東京23区自治権拡充運動と「首都行政制度の構想」』日本評論社 2010年 P.24)からである。
 22区長たちは、都知事に対して「早く市と同じだけの仕事と、それに見合う財源を都から区に移してもらいたい」と要求したのである。これに対して都は、「都の区部は、二十二の独立した市が集まったものではなく、昔から一体となって発展してきたものであり、今後もそうなのであるから、こうした関係を充分研究した上で仕事のわりふりをきめよう」(『都政十年史』 P.633)と、都区の間で話し合いが行なわれた。この結果、仕事の割り振り・税金のこと・職員の人事問題など区の要求を中心に交渉され、都は区に対して、「その要求の全部はいれられないが、学校・図書館・公園・街路灯や、小売市場・浴場などの事務を区に移すほか、土木・民生事業など多くの事務を、区長に委任して仕事をしてもらう」(同前)ことになった。
 第二回都区調整問題では、一九四九年八月、シャウプ勧告が行なわれ、その市町村優先主義の精神に則って、都の事務を区に移管し、区の財政を市と同じように自主的なものにしてほしいという要求が区側から鋭く出された。
 一九五〇年二月二日、話合いがなかなか進まない都区会談で、都知事が「区は基礎的地方公共団体ではない」との見解を示し、会談は暗礁に乗り上げる。そこで、地方自治庁が動き、都・区・第三者からなる調整協議会の設置が勧告される。しかし、三者での討議でも結局解決できなく、事務と財源について中立委員が裁定を下した(一九五〇年八月二日)。「その内容は図書館・公園・児童遊園等の多くが区営となったほか、いろいろの土木事業や民生事業などを区の仕事とすることに決定をみた。/また、区に勤務する都の職員も、職員組合が了承すれば、その身分を区の職員に切替えることとし、最後に、区の財源としては住民税・自転車税・荷車税・犬税等を区税として区が行う事業の経費にあて、余った金は、財源に不足する区に対する交付金や、都が全区民のために行なっている仕事(たとえば警察・消防など)の経費として都に納付するということに決定した」(同前 P.634)といわれる。
 特別区側は、この裁定を四者全員合同会(区長、議長、自治権拡充委員長、財政委員長で構成)で了承する。
 しかし、都側は、一九五〇年度の区側財政需要の見積にあたり、「都区が十分に話合い、無理のないように」という中立委員の裁定の確認事項を無視して、一方的に総額23億6800余万円の財源超過額の提示を行なう。これは、8・2裁定で事務増が予想される中で、逆に前年度さえも下回る需要額の算定である。
 特別区側は、これに対して憤然として都案を返上し、再び中立委員の裁定を仰ぐ形となり、九月二日に不満ながらも折衷案で政治決着せざるを得なくなる。こうして、民生事業、衛生事業、清掃事業、保健所などの区移管問題は、翌年に持ち越す。
 一九五一年四月、第三回都区調整問題がまたまた持ち上がる。このとき、住民税の中の法人分住民税の徴収方法が変わったので、都はこれを契機に法人分住民税を今までのように区税にしないで都税にしたいと区側に申し入れた。これにはもちろん区側は真っ向から反対する。同年六月、都・区代表が話し合いをもつ。ここで区側は、民生事業と清掃事業の全部を区に移すこと、区に必要な経費は区税だけでは賄いきれないから、不足分を補う財源を区側に与えよと要求する。これに対して、都側は、“民生・清掃などの仕事は、法律の建前や都区の一体的関係からいって、区に移すことは適当でない。区の必要とする経費は区税で充分であるばかりでなく、逆に余るはずだから、その分を都に戻すべきだ”と応える。両者はともに譲らず解決しないので、再び前の中立委員に仲裁を頼む。しかし、今回はは拒否された。そこで都議会が斡旋の労をとる。この結果、新たに診療所・ミシン貸付事業などを区に移し、また、区の事業費を幾分でも増額するということでとりあえず「解決」する。だが、都区調整問題は依然として解決しないで、その後、延々と継続する。

  〈都区制における逆コース〉

 都区制の「逆コース」は、一九五二年の地方自治法の改悪から始まる。
 この時の改定理由は、前回述べたように、地方自治体の「自主性強化」と自治体の組織と運営の「簡素化、能率化」であった。具体的には、@戦前の数を基準にして、議員定数を縮減すること、A議会の会数を、年間六回以上の定例会と臨時会であったものを年間一回の通常会と臨時会に減らすこと、B都制では局制を、府県では部制をとっているが、この部局の数をへらすこと、C東京都の区長公選制を廃止するなど、都の権限を強化すること―などである。
 Cの措置を、さらに特徴づけると、第一は、住民による区長の直接選出の廃止である。改定原案では、この点については、「第二百八十一条の二 特別区の区長は、……年齢満二十五年以上のものの中から都知事が特別区の同意を得てこれを選任する。」であった。それが妥協の修正案として、「……特別区の議会が都知事の同意を得てこれを選任する。」となった。
 第二は、都ならびに都知事の権限を強めたことである。このことは、第二百八十二条で、「都は、……(特別区の事務に要する)経費の財源について、政令の定めるところにより、特別区の意見を聴いて、条例で、都と特別区及び特別区相互の間の調整上必要な措置を講じなければならない。/都知事は、……特別区の事務の処理について必要な助言又は勧告をすることができる。」と明記したことで明らかである。
 第三は、特別区の事務の対象が、列挙され法定されたことである。このことは、特別区の事務範囲が制限的に位置づけされたことを意味する。一九四七年地方自治法では、「都の区は、これを特別区という。/特別区は、その公共事務及び法律若しくは政令又は都の条例により特別区に属する事務並びに従来法令又は都の条例により都の区に属する事務を処理する。」(第281条)と、事務に関して包括的に規定されていた。
 それが、改悪された地方自治法では、「第281条 都の区は、これを特別区という。/特別区は左に掲げる行政事務で、国又は都に属しないものを、法律又はこれに基づく政令の定めるところにより処理する。……」と、一から十まで、さまざまな施設管理などに関する事例を列挙している。
 これは、特別区が次々と特別区の事務を拡大し、自治体的性格を充実することに歯止めをかけ、都の部分的構成団体として、特別区を都の統制下に抑え込もうとする狙いをもったものである。
 都と特別区に関する条項にみられる地方自治法の改悪は、都の特別区である二十三区が、「都」の内部的構成団体へと再び位置づけを格下げされたことを意味する。
 しかし、一度、自治体としての権能を経験した二十三区が、簡単に内部的構成団体に甘んじるはずがない。都区間の紛争は、その後もますます拡大するのであった。
 その一つが、以前から継続している都区間ならびに特別区間の財政上の調整問題である。この都区財政調整の必要性は、@特別区間の格差是正、A大都市としての一体性の確保(旧東京市の地域)にある。財政調整制度は一九四七年に特別区が成立して以来、配付税方式(1947〜49年度)、納付金方式(1950〜52年度)、平衡交付金方式(1953〜64年度)、交付金の基本額方式(1965年度〜)へと変遷し、都区間、特別区間の紛争が引き続くのである。(詳しい内容は、特別区協議会発行『都区財政調整制度のしくみと沿革』1983年 を参照)
 もう一つが、区長公選の廃止の問題であり、これは違憲論争に発展する。すなわち、憲法九三条二項が「地方公共団体の長は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙する」と規定しているため、特別区は憲法保障の自治体としての「地方公共団体」に含まるか否かの論争である。
 一九六二年二月二六日の東京地裁の判決は、渋谷区議会での区長候補選挙をめぐって議員の間で増収賄があったという刑事事件に対して、“特別区も憲法上の「地方公共団体」に当るので区長公選廃止は違憲(事件については、議員の選挙公務が成り立たず無罪)”とした。だが、この裁判は最高裁まで引き伸ばされ、結局、一九六三年三月二七日の最高裁判決は、合憲として地裁判決のやり直しを命じた。すなわち、“特別区は、「憲法九三条二項の地方公共団体と認めることはできない」”としたのである。
 しかし、皮肉なことにこの判決ができる頃は、東京都は巨大都市の行き詰まりに直面し、区への事務移管が喫緊の問題となっていたのである。そして、一九六四年の地方自治法改正で、特別区には、福祉事務所の設置と生活保護・障害者福祉、市街地再開発、建築基準行政、道路の管理などが、次々と、新たに区での仕事とされるようになったのである。
 また他方では、区長選任問題では、区長公選の運動が、練馬区、中野区、品川区、大田区、北区などへと波及し、ついに一九七四年(昭和四十九年)の地方自治法改正によって、区民による区長の公選制が復活された。  (つづく)