道州制論議に寄せて―地方支配の歴史的変遷C
 「逆コース」の1950年代
                                     堀込 純一


V 次々と逆流する地方自治改革
 
 (一)大幅に変革された警察・教育制度

GHQは戦後日本の民主化において、地方自治とりわけ警察と教育の分野について一方ならぬ力を傾注した。

公安委員のリコール制
 内務省は、はじめ警察制度の改革について、抵抗してきたが、それもついに限界に達し、同省警保局は、やむなく改革案の作成にとりかかり、一九四七年十一月に新警察法案が衆議院に提出され、同年十二月に成立し、翌四八年三月から施行された。
 戦前日本の警察制度の特徴は、@天皇の警察であり、絶対無限の統治権をもつ天皇の意思を遂行すること、A「内務省警保局→首都警視庁・道府県警察部→警察署→駐在所・派出所」と体系化された中央集権制が人事と予算により保障されたこと、B個人の一般的な生活や行動のみならず、その個人の思想や信条など内面まで監視・干渉し統制する暴力装置であったこと―などにある。
 新警察法により、旧帝国警察制度は大きく変革される。新警察法はその目的を、前文で次のように述べている。すなわち、新憲法の精神に基づいて、「地方自治の真意」を推進するために、「国会は、秩序を維持し、法令の執行を強化し、個人と社会の責任の自覚を通じて人間の尊厳を最高度に確保し、個人の権利と自由を保護するために、国民に属する民主的権威の組織を確立する目的」をもって、警察法を制定したのだと。
 新警察法の主な特徴は、第一に、かつての警察組織の中央集権制を解体し、地方分権が徹底されたことである。
 新たな警察体制は、自治体警察と国家地方警察に大別される。自治体警察は、市および人口5000人以上の市街的町村を五名以上の警官で管轄する。この自治体警察を基盤として、この管轄以外の都道府県内地域は、国家地方警察の管轄とする。そして、この両者の関係は対等であり、いかなる点でも指揮監督関係にあるものではない。
 新警察法の施行の結果、全国に1605の自治体警察と118の国家地方警察が創設された。
 第二の特徴は、警察の行政管理(人事・予算・組織事項など)ならびに運営管理(職務活動事項)の民主化である。自治体警察の行政・運営管理は、独立的な市町村公安委員会の権限の下に置き、国家地方警察のそれは、都道府県公安委員会の権限の下に置いた。しかし、職務執行の実質的な民主化は、一九四八年七月の警察官職務執行法と新刑事訴訟法を待たねばならなかった。
 市町村公安委員三名は、市町村長によって議会の同意をもって任命される。同様に、都道府県公安委員三名も、都道府県知事によって議会の同意をもって任命された。だが、重要なことは、これら公安委員を住民が解職請求(リコール)することができるとされたことである。

一般行政から教育を独立化
 教育基本法は、憲法の付属法的地位を占めるとともに、他の教育法令を導き出す教育憲法でもある。
 教育基本法は、一九四七年三月三十一日に公布された。これは、一八九〇年の教育勅語に代わり、国民の名において民主主義教育の理念と目的を宣言し、教育を国民自らのものとする教育権利宣言であるといわれる。(教育勅語は、戦後憲法・教育基本法の制定により、憲法・法律違反とされ、一九四八年六月、衆参両院は教育勅語の失効ならびに排除を決議した)
 すなわち、戦前のような国家主義的な教育目的を実質的に否定し、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」(第一条)と、「国民のための教育」をかかげている。
 学校教育法も、教育基本法と同日に公布され、6・3制の義務教育が一九四七年度からスタートした。
 教育基本法、学校教育法とともに、教育民主化の三本柱とされる教育委員会法(地方教育行政に関わる法律)は、やや遅れて、一九四八年七月五日に公布された。
 教育基本法は、教育行政についても、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。/教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行なわれなければならない。」(第十条)と、規定している。
 ところで、戦前の地方教育行政制度は、次の三つの特徴をもっていた。第一は、総合行政的特質ともいわれるべきもので、教育行政が一般的行政のうちに統合されていた。第二に、中央集権的特質ともいわれるべきもので、地方教育行政が中央政府によって強力にかつ官僚主義的に統制されていた。第三に、天皇主権に基づいて、教育に関する法令は勅令か、文部省令でなされ、法律に基いたものでなく、天皇(=国家)のための教育であり、「国民のための教育」ではなかった。
 したがって、戦前の地方教育行政の誤りを是正した教育委員会法の特徴は、@地方教育行政の自主性の確保(一般行政からの独立)A地方分権化、B教育行政の民主化の徹底の三原則にある。
(1)地方教育行政の一般行政からの独立―これは、将来世代の育成という教育の特殊性から、子ども・生徒の学習権・学問権の保障、親・教師の教育権ならびに「教育の自由」の保障などのために必要な措置である。したがって、従来、都道府県及び同知事、市町村及び同長の「権限に属する教育、学術及び文化(教育という、以下同じ)に関する事務並びに将来法律又は政令により当該地方公共団体及び教育委員会の権限に属すべき教育事務を管理し、及び執行する。」(第4条1項)というように、「教育」分野の行政を一般行政から独立させた。
また、教育予算の編成(第56〜58条。毎会計年度、教育予算を見積り地方公共団体の長に送付する。首長がそれを減額する場合には、所定の手続をとらなければならない)・予算の執行(第59〜60条。教育予算が議決された時は、支出を出納長または収入役に命令する)などにも、教育委員会の相対的独立性の保持を規定する条目をみることができる。
(2)地方分権化―第55条の2項で、「法律に別段の定がある場合の外、文部大臣は、都道府県委員会及び地方委員会(市町村教育委員会のこと―引用者)に対し、都道府県委員会は、地方委員会に対して行政上及び運営上指揮監督をしてはならない。」というように、かつてのヒエラルヒー秩序を明確に否定している。
(3)教育行政の民主化―これは「国民のための教育」という目的に合致したものである。すなわち、教育委員は、「第3項に規定する委員(当該地方公共団体の議会の議員うちから、議会において選挙された一名の委員のこと―引用者)を除く委員は、日本国民たる都道府県又は市町村の住民が、これを選挙する。」(第7条の2項)という規定から明白に見られるように、住民が直接に選び、民意を反映するのである。このことは、第29条が定めるように、「委員の選挙権を有する者は、委員の解職の請求をすることができる。」というように、リコール権も保持していることでさらに明らかである。
 このような民主的な選出・解職方法は、この教育委員会法の目的を明記した第1条に合致するものである。すなわち、「この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行うために、教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする。」(下線は引用者)からである。
教育における直接民主主義の明記は、住民自治を拡大させる大きなテコとなるのである。

 (二)二大支柱の警察と教育の逆進

 朝鮮戦争の勃発は、日本の再軍備をもたらした。戦争勃発直後の一九五〇年七月八日、GHQ最高司令官マッカーサーは、吉田茂首相に宛てた書簡で、警察予備隊75000人の創設を指令した。在日米軍の朝鮮戦争への投入により、日本での軍事力の空白を埋めるために、反共日本の再軍備が必要というのである。
 一九五二年七月、保安庁法が公布され、警察予備隊は保安隊と海上警察隊に改組された。 
 一九五四年三月、MSA協定(日米相互防衛援助協定)の調印により再軍備は本格化し、同年六月、防衛庁設置法・自衛隊法が成立し、翌七月、保安隊が改組され、陸・海・空の自衛隊が発足する。
 なし崩し的に再軍備が進められるとともに、政治全般が「逆コース」を進む。
 一九五一年五月一日、罷免されたマッカーサーの後任リッジウェイ中将は、日本国憲法四周年を迎えるにあたって、日本の独立に備えるためと称して、占領管理の緩和の方針を明らかにするとともに、GHQの指示に基づいて制定されたこれまでの法令の再審査の権限を日本政府に与える、との声明を発表した。これを受けて、政府は非公式の首相の諮問機関として「政令諮問委員会」を設置し、公職追放の解除をさらに進めるとともにその裏腹に公務員労組などのレッドパージを行ない、独占資本、労働、教育、行政機構など占領下法制(ポツダム政令)の検討にかかる。
 この逆コースの流れの中で、一九五二年に、地方自治法の改定が行なわれる。
 その基本的内容は、@地方自治法施行後、地方自治のよって立つ基盤が未だ脆弱であることを踏まえ、その自主性をいよいよ強化すること、A講和後の新たな事態に対処し、また国民の負担を少しでも軽減するために、地方公共団体の組織及び運営の簡素化、能率化を図り、地方自治の不経済・非能率という不信を除去すること―に主な狙いが置かれたとされる。
 だが、それは「簡素化・能率化」を口実に、その一面的な偏重のもとに、@の言い分とは逆に、地方自治改革を逆進させるものであった。このことは、東京都の「特別区長公選制の廃止」(詳しくは後述)に端的にあらわれている。
 地方自治法の改定は、一九五四年にも行なわれている。この時の主な改定は、@市となるべき人口要件の引上げ(三万が五万に引上げ)、A財産区の規定の整備(町村合併に伴う地方公共団体の財産の分散消滅を避け、管理を維持する措置)、B新警察法の改悪、C助役と教育長との兼職しうる期間の延長などである。

自治体警察の全面廃止
 戦後の地方自治改革の二大支柱といわれたものの一つは、警察改革であった(もう一つは、教育改革)。
 警察制度の地方分権を徹底した新警察法は、画期的なものであった。しかし、小規模自治体には大きな財政負担となった。これを口実として、政府や保守主義者たちは、警察制度の中央集権化という「逆コース」を次々と打ち出した。警察制度の分権化では、日本の治安は維持できないと、支配階級は強い危機感をもっていたのである。
 すでに一九五一年の新警察法の一部改定では、町村は住民投票により、自治体警察を任意に廃止できることとなった。この結果、町村警察の廃止が続々と決定され、一九四七年の発足当初において、1605(うち町村は1386)を数えた自治体警察はまたたく間に402(うち町村は127)に激減した。そして、一九五四年六月の全面改悪(自治体警察の解体・都道府県警察への一本化、中央組織としての警察庁の設置)により、最後まで存置を希望した五大市も含めて、自治体警察はすべて無くなる。

教育委員公選制廃止
 地方自治法の改悪は、一九五五年の第22国会でも提案された。しかしそれは、主に地方議会の権能を縮小し、議会活動を制限する狙いを持っていたため地方議会側の強力な反対に直面した。全国都道府県議会議長会、全国市議会議長会、全国町村議会議町会などの結果、第22国会での地方自治法改悪は、審議未了となった。
 一九五六年六月、従来の公選制教育委員会の廃止とそれに代わる「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が制定された。その主な内容は、@教育委員の公選制を廃止して、首長による任命制(議会の同意が必要)に代えること(教育行政の一般行政からの独立の廃止)、A教育長の任命は、都道府県にあっては文部大臣の、四町村にあっては都道府県教育委員会の承認を必要とし、文部省に教育委員会に対する指導権をもたせた(地方分の廃止とヒエラルヒーの復活)。B教育委員会がみずからの予算要求書を地方議会に提出できる原案送付権を廃止したこと、C教員に対する勤務評定の実施権を明記したこと、などである。
 これにより、教育行政の地方分権化・民意の直接の反映(直接民主主義)がなくなり、官僚統制が復活した。(つづく)