道州制論議に寄せて――地方支配の歴史的変遷B
 基礎自治体優先の原則
 
                      堀込 純一

 U戦後自治体制の意義と限界

     (承前)

 (四)財政改革進むも依然強い中央統制

 戦後の自治体制の重大な欠陥は、国の事務の地方委任によるヒエラルヒー秩序の存続ととともに地方自治体の財政自主権の脆弱性である。
 確かに戦前の「地方自治体」の財政権と比較すれば、戦後のそれは格段と前進している。
 戦前の地方の財政権は、その自治権の弱さに見合って、極めて貧弱であった。すなわち、財政は国税第一主義であり、地方財政は国の税目に一定割合で上乗せして課税する付加税主義であった。しかも脆弱な地方財政においても、府県重視であって、市町村はさらに弱い立場に置かれた。したがって、市町村が課税権をもつ独立税は、極めて微細な雑税に限られていたのである。
 窮迫する地方財政が大きく変わるのは、総動員体制がますます強まる一九四〇年の税財政制度の大改正の時であった(この時の「税目大系」は、左図〔佐藤俊一著『戦後期の地方自治』P.89〕を参照)。この改正では、市町村民税が認められ、新に道府県還付税や道府県・市町村への配布税が設けられた。(《補論 還付税と配布税》を参照)
 しかし、この改正された地方税制度が完全実施された一九四三年度をみると、配布税を除く地方税総額は、道府県・市町村の国税付加税が六一%、道府県還付税が一〇%にまで達し、道府県独立税やそれへの市町村付加税および市町村独立税は合わせてもわずか二九%でしかなかった。戦時統制経済の下で、財政の中央集権化はより一層進んだのであった。

  〈財政需要の増大と超インフレで枠組改革へ〉

 ところで地方財政は、敗戦後の激しいインフレにより凄まじく窮迫する。そこで地方財政の改革が、まず一九四六年の第90回帝国議会での「地方税法及び地方分与税法の一部を改正する法律」の成立によって行なわれる。この時の改正内容は、@地租、家屋税及び営業税の三収益税の付加税標準率の増率、A市町村民税の大幅増税と最高賦課制限額の撤廃、B府県民税の新設、C府県に対する法定外独立税の設定権の付与、D配布税の増額と戦災地方団体への配布税の設置などである。
 しかし、この第一段階の改革は旧来の地方税制の枠組を前提としたもので、基本的にその枠内での対処策でしかなかった。
 破滅的なインフレに加えて、新たな地方財政の需要増大や頻発する災害復旧などのため、地方公共団体は、一二〇億円の公債を発行し、五五億円の中央政府貸付金を得て、ようやく年度を送ることが出来たのであった。地方税財政の大改革は、必然的に迫った。この第二段階の改革は、一九四七年から四九年にかけて進められた。
 まず一九四七年の地方税制の改革の主なものは、第一に、還付税制度の廃止と国税の地方委譲である。地租、家屋税及び営業税は、(配付税の算定基準に用いる必要性などから)今まで国税として賦課徴収し、これを還付税としてそのまま全額徴収した都道府県に還付していたが、これを都道府県の独立税とした。それとともに、市町村においてこれに付加税を課すことができるとした。同じように、鉱区税や遊興飲食税もまた、都道府県の独立税とし、市町村がこれに付加税を課することとした。
 第二に、地方分与税の改正である。第一で述べたように三収益税が地方税になり還付税制度が廃止されたため、実際には地方分与税制度(還付税と配付税から構成)は配付税制度に転換され、翌年一九四八年には名称も地方配付税と改称された。
 他にも、法定独立税目の拡張の拡張や、住民税の増税なども行なわれた。
 一九四八年七月七日、新しい地方税法が公布されることとなった。この法律の主な点は、
(1)前年一九四七年の改正の原則を推し進め、国税体系に対する地方税体系の分離独立をさらに徹底化する。
(2)地方財政制度の自主化を図り、財源の充実を期するために、下の税目の委譲、新設又は拡張が行なわれた。
 ア、国税から委譲されたもの………入場税、狩猟者税
 イ、新に法定されたもの………事業税および特別所得税(営業税の課税範囲を拡大し、その名称を事業税と改め、同時に特別所得税を設けた)、鉱産税、電気ガス税、酒消費税、木材取引税、使用人税、余裕住宅税
 ウ、税目の整理および賦課率の引上げが行なわれたもの………道府県民税、地租、家屋税、鉱区税、不動産取得税、市町村民税、接客人税、自転車税、舟税、金庫税
(3)地方財政の自主化を進めるために次の措置をとった。ア)監督官庁の許可制度を全廃し、地方公共団体が独自に財政を強化する場合、問題があれば地方税審議会の審査を受けることとした。イ)罰則を強化し、体刑または罰金刑を科しうることとした。従来は、過料のみ。
 新しい地方税法が公布された同じ日の七月七日、地方財政法も公布された。従来の地方税財政の改正は、税制を中心とするものであったが、この地方財政法は、長年の懸案であった国費・地方費の負担区分について、根本的な原則を樹立した点で極めて大きな意味をもっていた。地方公共団体が全額負担する税目や、国が全額負担する税目を明確化させる規定は、一歩前進である。しかし、国と地方公共団体の双方がともに負担する税目においては、依然として国が恣意的に負担割合を決め、地方に犠牲を強いる余地は充分にあるのである。以上のような国と地方公共団体との関係は、基本的に都道府県と市町村との関係においても存在する。
 ここでも上位者が下位者に犠牲をつぎつぎと押し付けることができ、ヒエラルヒーによる支配秩序の再生産が行なわれているのである。

 〈ドッジ予算による地方へのしわ寄せ〉

 地方税財政の改革にもかかわらず、戦後の猛烈なインフレは収束しなかった。ときあたかも、米ソを軸とした冷戦構造は一層深まり、一九四八年十月、アメリカ政府は正式に対日占領政策の修正を決定し、日本の非軍事化・民主化からアジアにおける反共防波堤として日本を位置づける政策へ転換した。
 これに基づき経済政策では、経費節減・徴税強化・信用膨張の制限などの超引締め政策・強力なデフレ政策を中心とする「経済安定九原則」が決定され、それを具体化するものとして、ドッジ・ラインが推進された。それは、主に@一九四九年度予算の編成を超均衡予算とし、Aインフレの主因である復興金融金庫の新規貸し出しを停止し、Bアメリカの対日援助見返り資金特別会計を設置し、C1ドル=360円の為替レート設定する―などに特徴的である。
 「経済安定九原則」―ドッジ・ラインに基づき、日本政府に対して徹底的な緊縮政策・超デフレ政策の一九四九年度予算編成が突きつけられた。
 この方針により、国庫財政の徹底的な削減が行なわれ、そのしわ寄せが地方財政に寄せられた。それは、前年度に比較して、地方配付税の配付率が33・14%から一挙に16・29%に半減させられ、地方債の発行額も三分の一程度に減額させられるという強硬手段がとられたことだけでも明らかである(六・三制実施に伴う校舎整備費一八〇億円は全額削除された)。それだけでなく、地方財政計画においても、地方公共団体が、教育や警察などで財政需要が増大しているにもかかわらず、このような現実を無視視して財政計画上の歳出は大幅に削減された。

 逆風下で短命に終わるシャウプ勧告

 ところで、前述の「経済安定九原則」の一つの重要な柱は、徴税強化であるが、ドッジはこの件についてはほとんどすべてシャウプらに任せることとした。
 コロンビア大学の財政学者であるC.S.シャウプを団長とする税制調査団は、一九四九年八月と一九五〇年九月に来日している。シャウプ勧告(同調査団のマッカーサーに対する報告書)の目的は、戦後の混乱の下で、「経済安定九原則」―ドッジ・ラインを補完して日本経済を安定化させるとともに、税収が低下している現状をふまえて、租税制度全体を整合的に体系化し、安定的な税制を日本に定着化させることであった。
 勧告の地方自治および地方財政に関する基本的な考え方は、「地方自治ということは、占領軍及び日本政府の究極目的の一つとして宣言されている事実であり」、「日本における問題は、依然として国の支配を減じ、地方団体の独立を増すことである」という点に、如実に示されている。
 シャウプ勧告で、とりわけ留意すべきは、地方税の拡充(基礎的自治体である市町村優先の原則)、平衡交付金の創設(地方自治体間の財政格差の解消)、国庫補助金の整理(財政手段を通しての中央による地方支配をなくす)などであり、画期的な改革であった。
 シャウプ勧告の内容を1949年度予算と比較すると、全体的な概要でみると、国税収入は590億円減となり、逆に地方税は400億円増となる。合計すれば、全体として190億円の減税である。
 その上で地方財源を1949年度予算とシャウプ勧告に基づく推計との比較でみると、@地方税が1500億円から1900億円に急増し、地方財源全体に占める構成比は、40%から45%に拡大している。これは、地方税源とくに市町村税源の拡充を示している。A地方財政調整交付金としての平衡交付金は、従来の地方配付税580億円から一挙に二倍以上の1200億円に急増し、構成比も15%から28%へと二倍近く拡大している。これは、地方の行政水準を中央政府が恣意的に決めるのでなく、地方行政の最低水準を中央政府が尊重しなければならないという形となっている。B国庫補助金(普通補助金と公共事業費補助金)が850億円から450億円へと大幅に削減され、構成比もまた23%から11%へと半分以下と激減している。これは、余りにも強い中央統制を排除し、地方分権を拡大するためである。C地方債が180億円から350億円に増額されている。これは従来の地方債発行の制限をはずし、インフレ対策としての必要額とされている。D寄付金が400億円から100億円に減額されている。これは、従来、地方財源の不足を強制割り当ての寄付金などに頼っていた状況を変えて、地方税財政の民主化・近代化を推し進めるためである。
 このような地方自治発展のための地方財源の抜本的強化を図ったシャウプ勧告について、
革新主義者たちからは大いに評価された。しかし、現実にはさまざまな要因により、ブレーキをかけられたり、無視されたりするなどして、実際の「改革」は、勧告よりも大幅に後退したものであった。
 第一に、保守主義者たちの画策により、一九五〇年度予算はシャウプ勧告の想定から後退する。シャウプ勧告は一九五〇年度の予算で、地方予算を地方税の増加(400億円)・地方債の増加(170億円)・国庫支出金の増加(220億円)・災害費全額国庫負担による地方負担の減少(200億円)で、計990億円の地方財政増大を勧告しているのであるが、政府は実際には677億円に値切り、勧告よりも313億円も不足したのである。
  第二は、地方自治を強化し、地方財政を健全化するために導入したはずの地方財政平衡交付金制度が歪曲され本来の目的を実現できないようにされたことである。
 この平衡交付金制度の特徴は、以下の点にあった。@総額の決定方法は、国税にリンクする方法をとらないで、各地方団体について算定した財源不足額の積上げ方式がとられたことにある。Aその配分方式において、配付税制度がその半分を課税力に反比例し、他の半分を財政需要に正比例するという財政力と財政需要を並列的に勘案して比例配分する方式をとったのに対し、平衡交付金制度では、各地方団体について算定した財政需要額が財政収入額を超える額(すなわち財源不足額)を補填(ほてん)する方式をとったことである。
 これにより、理論上、各地方公共団体は景気変動があっても、各地方公共団体の独自財源と共に常に財政需要に即応した財源が確保されるはずであった。
 しかし、現実の政治過程では、平衡交付金制度はその効用が必ずしも十全に発揮できたとはいえなかったのである。その最大の理由は、平衡交付金の総額が客観的に公平に保証されなかったためである。つまり、総額決定をめぐり、国庫当局と地方団体の争いは激烈を極めたが、その力関係からして、地方団体側の不利は明らかであった。
 その背景には、国会議員レベルはもちろんのこと、地方公共団体側でも、地方自治を追求する勢力はいまだ弱かったこと、GHQの対日占領方針が転換し、地方自治の発展を強力に支持した民政局もGHQ内で孤立していたことなどがある。
 平衡交付金制度は、その総額決定のレベルですでに抑制され、その実施後、わずか四年で現在の地方交付税制度に改変されたのであった。(つづく)

《補論 還付税と配付税》
 一九四〇年には、国・地方を通ずる税財政制度が大改正されたが、その時、地方分与税が創設された。この地方分与税は、国が国税として徴収した税のうち一定部分を地方公共団体に交付するものであり、「還付税」と「配付税」から構成される。
 このうち還付税は、「同年(一九四〇年のこと―引用者)の税制改正によって国税から地方税へ移譲された地租、家屋税及び営業税の三税について、課税の均衡を全国的に保持する見地及び配付税の算定基準に用いる必要性から、それらの一部を国税として徴収し、その全額を徴収地の道府県に還付するというものであり、技術的な制度としての側面が強く、財政調整制度とは性格上異なっている。」(『地方自治百科大事典』 ぎょうせい)といわれる。
 これに対して、配付税は日本初の本格的な地方財政調整制度である。地方配付税の主な内容は、以下のようなものである。第一に、配付税の総額は所得税、法人税、入場税および遊興飲食税の一定割合(遊興飲食税は一九四七年から、入場税は一九四八年から地方税に移譲されたため、配付税の総額への繰入れ対象から除外された)の額とされ、これを特別会計に繰入れて管理した。
 第二は、各地方公共団体への配付基準は、総額を道府県分と市町村分に分け、各々二分の一の額を前々年度の地租、家屋税、営業税の課税力に逆比例して交付し、残余の二分の一は、財政需要(主に割り増し人口)に正比例して交付した。
 なお、シャウプ使節団が指摘した配付税の欠陥は、@配付税総額が、地方財政に必要な所要額を満たす制度になっていないこと、A配分基準において、各地方公共団体の財政力と財政需要に対する考えが徹底しておらず、必要額と配分額にギャップが存在していること、などである。



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