道州制論議に寄せて――地方支配の歴史的変遷A
  住民自治への橋頭保確保
                          堀込 純一


  日本帝国主義は、一九四五年八月一四日にポツダム宣言を受諾すると回答し、連合国に無条件降伏した。
 ポツダム宣言は、軍国主義の除去、日本軍の武装解除と復員、戦争犯罪人の厳罰などとともに、「言論・宗教・思想の自由」や「基本的人権の尊重」を掲げていた。
 日本支配層は、戦後の混乱の中でも、天皇制を維持し、政治党派の影響から人民を隔離するために、(明治憲法発布前に地方政治制度を確立した山県有朋の例に習い)新憲法の施行前に地方制度の改革を済ませておこうと考えていた。

 U 戦後自治体制の意義と限界
 
 (一)普通直接選挙による知事公選

 敗戦直後の第一次地方制度改革は、代表的には知事公選である。
 知事公選問題が戦後の民主化闘争において重要な政治問題となったのは、明治憲法下では、中央政府による地方支配において、知事がきわめて重要な役割を果たしていたからである。当時、知事は、一方で、府県という「自治体」(執行機関)の長であるとともに、他方で、国の普通地方官庁であり、天皇に任命される官吏でもあった。
 知事はこのような二重的性格を有するところから、国の官吏として内務大臣の一般的監督の下で、内務省の事務を請け負うだけでなく、国の普通地方官庁として各省の地方行政事務を総括し、一元的に執行し、さらには管轄下の市町村を監督するという役割をもっていた。
 したがって、中央政府(内務大臣)―知事―市町村長というヒエラルヒーの結節点である知事が、官吏のままで存続するのか、それとも公吏に変わるのか―というのは、当時においては、大問題なのであった。
 当初、知事公選は時期尚早と考えていた内務省は、GHQ(連合国軍総司令部)の迅速な憲法改正の動きに推され、また、澎湃と起こる食糧危機突破の人民闘争に対して、官僚知事では対処できないと考え、「知事公選論」に傾いていった。しかし、内務省の考えていた知事公選論は、従来から市町村長選で行なわれてきた市町村議会での選出、すなわち間接公選であった。
 ところでGHQのマッカーサー司令官は、すでに一九四五年十月四日、当時の東久邇内閣の国務大臣であった近衛文麿に、憲法改正を示唆した。そして、一九四六年二月十三日には、「総司令部草案」(いわゆるマッカーサー憲法草案)が、ホイットニー民生局長から当時の吉田外相・松本国務相に手交された。そこでは、知事も含めた地方公共団体の長などの選出方法が、「直接普通選挙ニ依リ選挙セラルヘシ」と規定されていた。
 幣原政府は内部での強い反対もあったが、一九四六年二月二十二日、天皇の同意を得て、基本的にGHQの草案に従う形をとり、三月六日の「憲法改正草案要綱」では、「第八章 地方自治(Local Self-government) 第八十八〜第九十一」の中で知事公選を含む規定を行なった。四月五日、市町村長とともに知事の直接公選が行なわれた。この知事選挙で、社会党は、北海道・長野・徳島・福岡の4道県で勝利した。地方自治を前進させる民衆の闘いは、内務省の思惑をも踏み越えていったのである。
 帝国議会で憲法改正が進行する最中の一九四六年九月二十七日、東京都制の一部を改正する法律、府県制の一部を改正する法律、市制の一部を改正する法律、町村制の一部を改正する法律が公布された。これが、戦後の第一次地方制度改革である。
 この四つの法律の主な特徴は、のちの地方自治法に結実するような諸改革がなされているが、しかし、都長官及び道府県知事の身分を官吏として維持する点だけは頑強に堅持されていた。
 嵐のような民主化運動の前進とGHQの占領政策を前に、内務省は知事の直接普通選挙による選出に妥協する。しかし、選出された知事をあくまでも官吏とし、地方官官制を盾に、地方支配の拠点を確保したのである。(明治憲法の下では、天皇とその政府に忠実に奉仕する国の公務員を官吏といい、市町村及びこれらの組合に置かれた職員を官吏とは対照的に公吏と言った)
 だが、GHQは満足しないで、市町村自治権の拡大・議会の権限の拡張・中央官庁の監督権の整理などについて、さらにより徹底した改正を行うことを求めた。これに応えて、政府は九月二十八日、内務大臣の諮問に応じて地方行政に関する事項を調査審議するために、一九四六年十月に地方制度調査会を設置した。
 
 (二)住民自治を前進させる画期的意義

 日本国憲法(以下、戦後憲法と略)は、一九四六年十一月三日に公布され、翌年の五月三日から施行された。
 戦後憲法は、@明治憲法の天皇主権を否定し、「主権在民」の原則(政府原案ではあいまいにされていた)、A戦争放棄・軍備不保持の原則、B基本的人権を保障し、生存権や労働基本権などの社会権を明確に規定するなどの特徴をもっていた。
 地方自治の原則が、戦後憲法でいかに重視されたかは、明治憲法と戦後憲法の章立てを比較するだけでも明らかである。すなわち、両者の章立ては非常に類似したものであるが、明治憲法になくて、戦後憲法に新に設けられた章には、「第二章 戦争の放棄」、「第十章 最高法規」とともに、「第八章 地方自治」が存在したのである。
 地方制度調査会は、設置後のわずか二ヵ月後の一九四六年十二月に答申を行ない、これを受けて政府内でも調整した上で、内務省の「地方自治法案」が翌年三月に閣議決定される。地方自治法は、戦後憲法の理念に基づいて、一九四七年四月十七日に公布され、戦後憲法と同日の五月三日に施行された。
 戦後の第二次地方制度改革は、戦後憲法に基づいた地方自治法の制定である。それは、一九四六年九月二十七日に公布された4法律の改革面を取り入れたものである。
 地方自治法の画期的意義を改めて整理すると、第一の特徴は、住民の権利を大幅に拡充し、直接民主主義を発展させたことである(国政は、対照的に間接民主主義が基調)。
 具体的には、地方自治体の議員や長を直接普通選挙で選ぶ権利を有しただけでなく、住民による直接請求として、条例の制定・改廃の請求(第十二條、第七十四條)、監査の請求(第十二條、第七十五條)、議会の解散請求(第十三條、第七十六條)、議会の議員の解職請求(第十三條、第八十條)、普通地方公共団体の長の解職請求(第十三條、第八十一條)、副知事・助役・出納長・選挙管理委員・監査委員の解職請求(第十三條、第八十六條)である。
 これは、地方自治の本質である住民自治を確実に前進させるものであった。
 第二の特徴は、都道府県が市町村とともに普通地方公共団体となり、「完全自治体」となったことである。都道府県知事は、直接普通選挙で選出され、官吏としての身分は、廃止された(ただし、地方公務員法の公布は一九五〇年十二月十三日で、施行は翌五一年の二月十三日)。
 第三は、地方自治体は、国政とは異なり、普通地方公共団体の長と議会の二元代表制をとり、旧来よりも議会権限の拡充をはかったことである。戦時中は、府県においてはもちろんのこと、市町村でも執行権の優位の傾向が見られたが、これが是正された。また、普通地方公共団体の議会は、同団体の長の行政について検査する権限を有し、積極的に「行政」に参画しうることとなった。
 
 (三)自治の前進を阻む旧来からの仕組み

 歴史上画期的な変革をみせた新たな地方自治体制は、しかし、その実際を見ると、その画期性を半減させるほどの欠陥を他面ではもっていた。
 それは、とりわけ中央―地方関係、地方の財政自主権の根本的弱さなどに見る事ができる。しかしここでは、紙幅の関係で後者の問題は次回に譲るとして、前者の問題を検討することとする。
 地方自治法の第百四十八條は、「都道府県知事は、当該都道府県の事務及び部内の行政事務並びに従来法令により及び将来法律又は政令によりその権限に属する他の地方公共団体その他公共団体の事務を管理し及びこれを執行する。……」と規定している。ちなみに「当該都道府県の事務」とは、いわゆる「固有事務」であり、「部内の行政事務」(法令に明文されていない国の事務)と「従来法令により及び将来法律又は政令によりその権限に属する……事務」は、「委任事務」である。
 地方自治法の実現によっても、旧来の中央政府による地方支配の根幹は、全く変わっていないのである。「その後、連合軍総司令部の指示により、事務配分についての地方自治法の第一回目の改正が行われた(一九四七年十二月十二日の??公布―引用者)。それによって、都道府県知事が『部内の行政事務』として包括委任されてきたいわゆる『機関委任事務』が、別段の定めのないかぎり、都道府県の事務に切り替えられ、同法二条にそれまでの『固有事務』『委任事務』と並べて新に『行政事務』が加えられた。/さらに翌二三年(一九四八年のこと―引用者)には、その第二条で、『国の処理すべき事務』(八項目をあげている―引用者)を限定的に列挙する反面、『地方公共団体の処理すべき事務』すなわち『固有事務が広範にわたって具体的に掲げられた(二十一項目をあげている―引用者)』」(坂田期雄著 現代地方自治全集1『地方自治制度の沿革』1977年 ぎょうせい)のである。
 一見すると、これにより地方への事務委譲が大幅に進められたかのように見える。しかし、実際は異なる。というのは、同条の文中に「但し、法令に特別の定があるときは、この限りでない。」という一節が挿入され、「法令の規定によって自由にこれらの事務(二十一項目の事務―引用者)を国の事務とすることができるようにしてこの規定(第二條三項―引用者)を骨抜き」(杉村章三郎著『行政法学概要』有斐閣 1951年)としたからである。
 こうして、中央政府は、一方で法令に明記されていない国の事務を「機関委任事務」としつつ、他方で国(各省)の地方出先機関設置を次々と行なって、地方分権に対抗したのであった。
 さらにまた、注意しなければならないのは、基礎自治体優先の原則が全くと言ってよいほど無視されたことである。
 地方自治法は、その第一條で、「……普通地方公共団体は、都道府県及び市町村とする。……」と規定している。これは確かに、都道府県が戦前とは異なり、「完全自治体」となった事を示すものである。しかし、他面では、地方自治法に基礎自治体を「中間政府」(都道府県自治体)よりも優先すると、明記していないが故に、従来同様のヒエラルヒーが当然のことのように温存されたのである。
 
 また前述したように、戦後の地方自治法は「機関委任事務」を広範に温存させたので、都道府県も市町村も、自治体という側面と国の事務の下請け機関という側面をもち、前者においてヒエラルヒーはなくとも、後者の面では依然として強固なヒエラルヒーの秩序を形成しているのであった。
 このことは、地方自治法の第百五十条で、「普通地方公共団体の長が国の機関として処理する行政事務については、普通地方公共団体の長は、都道府県にあっては主務大臣、市町村にあっては都道府県知事及び主務大臣の指揮監督を受ける。」と、明記していることで明らかである。この秩序は、法律に明記されているだけでなく、地方制度調査会の答申(一九四七年二月十七日付け)でも、「府県と市町村との関係をどうするか」という諮問に対して、「道府県と市町村との関係は、現在の通り、道府県を上級自治団体とすること。」と、当然のように結論付けられている。
 
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 地方自治法の制定準備がなされていた頃、同時にGHQによる内務省改組の作業もすすんでいた。すなわち、一九四七年四月三〇日、「内務省分権化の覚書」が民生局のホィットニー局長から日本政府に手交された。それは、「内務省は日本の政府組織における中央集権的統制の中心であるので、同省の改組案を六月一日以前に総司令部に提出せよ」という内容であった。
 内務省は、内務省改組案を「内政省」として閣議決定に持ち込んだ。しかしそれは、単に省の名前を変えただけの改組案であり、民生局のケーディス大佐の怒りを買い、その後は日米協同で内務省解体案をつくることとなった。案は一九四七年六月二五日にまとまる。その主な内容は、@内務省地方局を地方自治委員会とする、A警保局を公安庁に変える、B国土局と戦災復興院を合わせて建設院を新設する―というものであった。(なお、地方自治委員会はその後、全国選挙管理委員会と地方財政委員会に分けられる)
 同年十二月三十一日、日本の官僚組織の中で、内務省が唯一解体された(つづく)