〔沖縄からの通信〕

 「中国」台頭というキーワード
         日本人はアジアの一員に成熟できるか

 沖縄の基地撤去闘争をめぐる情勢で、今、第一に踏まえなければならないことは、アメリカの戦略の激変とその裏側を成す中国の台頭である。
 「辺野古NO!」の闘いは、これまで常に日米関係の様相に注目しなければならなかった。政権交代で鳩山新政権がどう対米対処できるか、と注目されたのがその典型であった。が、ここに来て「中国」というキーワードが有無を言わせず入ってきた。
 米オバマ政権が今春、ブッシュ政権時の2006年日米ロードマップ合意を変更し、驚いた日本政府もこれに追随するしかなく、四月二七日の在日米軍再編・日米共同発表、野田首相が訪米しての五月一日の日米共同声明となった。その背景にあるのは、アメリカの現在の対中国戦略である。
 今の米戦略は簡単に言うと、「中国のミサイルが沖縄・日本の米軍基地を射程内に収めた」、「これらの基地は脆弱な軍事力となった」、「射程から遠いグアムにエアー・シー・バトルを戦える拠点を作る」である。この基調の中で、日米共同発表では、辺野古「移設」がますますアイマイになり、他方、普天間基地の「補修」という固定化の暴挙(今後八年間、日本が補修費を出す)が合意されている。
アメリカの歴史的後退、中国の人類史的な現代史への台頭の中で、沖縄の闘いは、「中国」というキーワードと付き合わざるを得なくなった。
 沖縄民謡に、「唐の世からヤマトの世、ヤマトの世からアメリカ世、アンシ変わたるわが沖縄」というくだりがあるが、それが歌われている間に「アメリカ世から、またヤマト世」に変わった。ちょうど四十年前に。沖縄人にとって「唐世(トーユー)」(唐以降の宋、元、明、清も区別なく中国のことをトーと呼ぶ)とは、「アメリカ」や「ヤマト」に対する反感とは逆に、親しみの感をもっている。学問、建築、農業、医学、政治制度などを中国に学び、冊封関係とはいえ、平等な交易を行なって、大が小を侵すことなく付き合ってきたからである。また沖縄人の中には、中国からの渡来人たちの子孫も多い。
 だからと言って、現代の沖縄人が中国に対し、古くからのよしみで、沖縄にはミサイルを打ち込まないでくれと頼んでも、通用はしないだろう。今や、かっての琉球は沖縄であり、日本の一県である。その日本は安保体制とアメリカの核の傘の下にあり、沖縄の軍事基地は中国をにらんでいる。事有れば中国に空爆の雨を降らすからである。
 四月十三日の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による人工衛星ロケット打ち上げに対して、日本政府は自衛隊と全マスメディアを動員し、「ミサイルを迎撃する」と騒ぎ立てた。沖縄県内の五ヵ所にPAC3を配備し、与那国には緊急部隊を配置した。やろうと思えば、いつでも戦端が開けることを実証するように演習をやってのけた。これは、対北朝鮮を表向きとしているが、その実、中国との戦争、ミサイル戦争の実動演習であることが明らかである。
 中国の台頭は、日米同盟の崩壊を必然づけている。アメリカ人は、この歴史の現実を理性的に認めながら、同時代の同じ人間として中国人と付き合うことができるだろう。(米国防総省の対中国戦争構想と、その上位にある米政府の対中外交の政治決定、この二つは区別して見ておく必要がある)。しかし日本人は、中国人に対して平等な人間観をもって付き合えるだろうか。米中が諸懸案で合意を進めれば、表向き歓迎するが、内心不満を高めるにちがいない。
 今はアメリカの核の傘に安全保障を委ねているから、日本の自主防衛論者たちの手足の自由を縛りえているが、この体制が崩壊すれば、日本のタカ派が再びアジア諸国との間で、抜き差しならない緊張関係をつくり出す可能性は十分にある。
 沖縄の再びの戦場化、今度はミサイル戦争の戦場化という危険。沖縄人の闘いは、アメリカの戦略の転換、「中国」という新しいキーワードの出現の前に、自己の生存という大問題に向き合わされている。
 ミサイル戦争を回避するためには、日米両政府の軍事政策に反対するだけでなく、日本の市民社会に対し、アジアの一員としてのその成熟を求めることが必要だ。アジア蔑視の「日本教」を克服する思想・言葉を日本人民が作っていくように、沖縄から提案することも考えねばならないだろう。(T)