道州制論議に寄せて――地方支配の歴史的変遷(一)
 総動員を担う道州制構想
                                 堀込 純一

  はじめに

 日本における道州制論議は、戦前から存在する。一九八〇年代後半から再燃した今回の道州制論議は、近年、新たな段階を迎えている。その最大の理由は、全国政党であり、国政を主要に担っている(担ってきた)民主党、自民党の支持率低下と不人気さによって、続々と地域政党が誕生し、道州制が一つの政治焦点になってきているからである。
 本稿では、次の二点に留意しつつ、検討することとした。まず第一は、過去の道州制論議の経緯をふまえ、歴史的教訓をつかみとることである。道州制論議に限らないが、近年のマスコミの政治ならびに選挙関連の報道は、きわめてセンセーショナルであり、興味本位だけであったり、目先の関心事にのみ狭められたりする傾向がとりわけ強いからである。
 第二は、住民自治を発展させる見地から地方自治の変革を展望することである。地方自治は、団体自治と住民自治が基本的要素といわれる。だが、「地方自治が自治である以上、住民の自主、自律性をその本質とするものであり、したがって、住民自治は、地方自治の本質的要素であるということができる。」(自治大学校篇『地方自治用語辞典』 ぎょうせい)のである。
 また、地方自治すなわち住民自治を発展させる見地からすると、補完性の原理は当然のことである。この原理は、「公的な責務は、一般に、市民に最も近い身近な当局(基礎自治体のこと―引用者)が優先的に遂行するものとする」(ヨーロッパ地方自治憲章第四条第三項)ことを基本として、それぞれのレベルの政府に事務や権限が配分されるべきだとする原理である。
 以下、歴史的経緯に沿って検討する。

T戦前の道州制構想と東京都制

  (1)近代日本の地方政治制度

 一八六八年に徳川幕府を倒した維新政府は、一方で、一君万民論や王土王民思想など天皇制イデオロギーを鼓吹して国民教化を図りつつ、他方では、権力の統一を急ぎ、中央集権体制を一気に推し進める。その現われは、地方制度においては、廃藩置県(一八七一年〈明治四年〉)と大区小区制(一八七二年〈明治五年〉)などとなる(区の規模は、標準的には旧来の「四五丁モシクハ七八村ヲ組ミ合スベシ」とされた。そして、大区は小区の数倍程度)。
 この超中央集権制は、旧来の「封建自治」をも一掃した新たな行政制度であり、その役員は官選であった。
 しかし、維新政府の強権的な中央集権体制の構築には、下からの抵抗がつづき、「農民騒擾」や自由民権運動が全国的に広がる。また、開明的な地方官は、人民の抵抗運動を慰撫するために、啓蒙的な役割を果たすものとして、地方民会を組織する。
 結局、維新政府は、これらの動きを無視することができず、「旧慣尊重」といって部分的に妥協し、一八七八年(明治十一年)七月、地方三新法を成立させる。三新法とは、@「郡区町村編制法」―大区小区制を廃止し、かつての郡町村制を復活させ、町村は行政区画であると同時に「自治団体」とされた。A「府県会規則」―公選となった府県議会は、地租納入額によって選挙権・被選挙権が制限された。また、議事権限は、地方費で支弁すべき経費の予算およびその徴収方法に限定された。官選である知事・県令は、議案発議権を独占し、議決事項の施行認可権をもっていた。また、彼らと議会の対立事項については、内務卿の指揮によって施行権を留保した。B「地方税規則」―従来の混乱した府県税・民費などの諸税を地方税として府県税に統合し、前述ニ法の活動を財政面から裏打ちするものであった。
 だが、この頃は自由民権運動の最盛期であり、維新政府は内部対立もあって(明治十四年の政変)、ついに一八九〇年(明治二十三年)に国会を開設すると、という詔書を発せざるを得なくなる。
 戦前の地方政治制度の基本的枠組は、一八八八〜九〇年頃に形成された。
 大日本帝国憲法(以下、明治憲法)が発布される年の前年、一八八八年(明治二十一年)四月、市制・町村制が公布された。
 市町村は当初から法人格をもつ地方団体とされたが、法に明記されたのは一九一一年(明治四十四年)の市制・町村制の改正によってである。
 市町村長は、市町村会で選挙され、市町村を統括し代表した。しかし、市町村長は国の普通地方官庁である知事の指揮監督の下で、国政事務を執行した。市町村長の担当した事務は、議決機関への議案の提出と決議事項の執行、公共の財産および施設の管理、会計の監督、税・使用料・手数料などの賦課徴収などであり、その上に国政事務の執行であった。  
 市町村には議決機関として、市会・町会・村会が設置された。そこでは、歳出入予算の議定、決算の認定、財産の処分管理などの議決権限をもった。
 しかし、市町村会のメンバーは普通選挙で選ばれたのではなく、制限選挙であった。しかも市会は、納税額の多寡により一票の価値が異なる三級選挙制であった。町村会は、同じく二級選挙制であった。このため、市町村会は「地方名望家」によって支配された。
 また、市には、副議決機関として市参事会があった(構成は、市長、および市会で選ばれた者)。市参事会は、市会から委任されたもの、あるいは市会不成立ないし市長に招集する時間的余裕がない場合、市会に代って議決権限をもった。
 一八九〇年(明治二十三年)、府県制・郡制が制定される。
 郡には課税権もなく、また府県知事や内務大臣の強力な監督下に置かれており、自治体としては不完全であった。郡長は官選で、府知事・県令の下で町村を監督した。
 郡会は、その三分の二の議員が各町村会から選出され、残りの三分の一は地価一万円以上の土地を所有する大地主の互選で選ばれた。このような選出方法は、一八九九(明治三十二年)に廃止され、直接国税三円以上を納める者を選挙権者とし、同じく五円以上を納める者を被選挙権者とする方法に改正された。
 しかし、日露戦争以降、しばしば郡制廃止が政友会などにより突きつけられ、一九二三年(大正十二年)に、郡制は廃止となり、純然たる行政区画になった。一九二六年には、地方財政緊縮―地方行政整備となり、郡長以下の官吏も廃止となり、郡は単なる地理的名称となった。
 府県制は、府県が知事によって統括され、代表されることを規定した。だが、府県知事はそもそも地方官制に基づき、国の普通地方官庁であり、天皇に任命された官吏である(知事は市町村への指揮監督権ももった)。団体としての府県は、その仕事の大部分が普通地方官庁である知事の執行委任された国政事務であり、種々の事業や公の施設の設置など独自の事務は極めて限定されている。府県会は、歳出入予算の議定権限をなどをもったが国政委任事務への費用負担の同意を主な役割とした(国政委任事務の執行に必要な経費は、府県も分担しなければならない)。
 戦前の地方政治制度は、とても地方自治制度とはいえず、極めて制限された非民主的な民会がある程度で、強いて言えば「不完全な自治」であった。そのことは、地方政治制度の目的が、「政府ノ事務ヲ地方ニ分任シ、又人民ヲシテ之ニ参与セシメ、以テ政府ノ繁雑ヲ省キ、併セテ人民ノ本務ヲ尽クサントスルニ在リ」(一八八八年の市制・町村制の法案理由)ということに鮮明に示されている。すなわち、当時の地方政治制度は「国家統御の実」を挙げるためのものであったのである。

(2) 総力戦体制の構築を狙う道州制構想

  @ 田中義一内閣の州庁設置案

 戦前の道州制論議の嚆矢(こうし)とも言うべきは、田中義一内閣時代(一九二七年四月二〇日〜二九年七月二日)の「州庁設置案」であろう。
 政党政治の先鞭をつけた政友会は、原敬や高橋是清の後を襲うと見られた横田千之助の病死により、かつての護憲三派運動での敵の一つであった陸軍から田中義一大将を招き、総裁に据えた(一九二五年四月)。
 当時の情勢は、第一次世界大戦で「戦争景気」に沸いたが、戦後は逆に深刻な生産過剰・「金融恐慌」や不況に陥っていた。
 田中内閣の外交路線は、従来の欧米との協調を図る「幣原外交」に対して、武力をもっての対中国強硬外交(山東出兵)であり、内は共産党や労農運動など社会運動を弾圧しつつ、「産業立国」を目指すものであった。
 田中義一政友会総裁は、一九二五年(大正十四年)一一月一九日、和歌山市で行なった講演の中で、次のように政治方針を述べている。「従来の如く小手先の政治は断じて避くべきであるが之が為新に産業立国の根本政策を標榜し立ったのである。而して国防の根本的に国民化し経済産業教育等一切を此意義胚胎せしめ、之に依り国家総動員の意義を徹底せしめ、中央集権の弊風を打破して地方分権とし全ての事柄皆市町村を基礎たらしむる事を期するのである」(「軍事より政治へ」―『田中義一関係文書』)とした。
 田中のいう「産業立国」とは、大戦後の経済の低迷や政治の不安定さという情勢の中で、国家の危機を克服し、総力戦の時代に対応する国家の形成を実現するために、産業の充実・発展を国家の指導の下で強力に推進し、これに諸業界の国民が一致協力することである。
 そして、「産業立国」政策の具体的方法として、積極財政政策をとり経済活動を国家指導の下に活発に進め、それに国民を動員する国家総動員体制をつくることである。
 こうして、総力戦時代の「経済戦」を国家機構の末端で担う地方団体の創出のために、田中は地方分権を推進する。政友会もまた当時、地方分権を党の政綱の一つに掲げ、盛んに知事公選論や地租・営業収益税の地方移譲などを唱えていた。
  田中内閣は各種の審議会や調査会を設けたが、田中自身最も意気込みが強かったのは、行政制度審議会であったといわれる。そこでの審議項目は、多くが「地方分権」の問題であり、第4回幹事会では最終的に、@「自治権ノ拡充」、A「州庁設置ニ関スル件」、B「地方自治ノ経済化ニ関スル件」の三項目に整理された。
 同審議会の討論によると、州庁設置案は、“府県公共団体の区域と国の行政区画との合一を止め、数府県を包容する行政区画として州を設ける”こととし、北海道(戦後の一九四六年に至るまで、他の府県のような「不完全自治権」さえももたず、国の直轄であった)を除く各府県の区域を6州に分け、各州に州庁を設置し、親任官の州長官を置くこととした。他方、“府県は、純粋の地方自治体とし、その固有事務については、完全な自治を認め、その執行機関の長は公選とした。府県自治の制度は、大体、市町村の例によるもとされた。
 同審議会は、府県の自治権拡充に対応して、中央政府の地方支配のために州庁という行政機関を設置するとしたのである。つまり、地方分権のために新たな中央集権の制度を設けるというのである。
 だが、行政制度審議会の構想は、成案もみることなく実現されることはなかった。そして、田中内閣は関東軍による張作霖爆殺事件の処理と処分に一貫性を欠いて、田中首相が昭和天皇に叱責されて総辞職した。

  A 昭和研究会の政治機構改新大綱

 近衛文麿内閣の時代(一九三四年六月四日〜三九年一月四日、一九四〇年七月二二日〜四一年一〇月一六日)は、中国侵略が拡大された時期であった。この近衛内閣のブレーン集団である昭和研究会は、国家総動員法が公布されて二年後の一九四〇年(昭和十五年)に、「政治機構改新大綱」を著(あらわ)した。
 この大綱は、議会制度改革とともに行政組織改革をかかげ、後者では、「内閣及各省機構改革」、「外地行政機構改革」、「地方制度改革」、「官吏制度改革」を展開するなど、全面的な改革を構想している。
 大綱は、「自由放任主義の経済体制と、数百人の合議体たる議会を中心とする議会政治の体制が、前世紀の立憲国家の姿であったのに対し、現代国家はむしろ、協同体的計画経済乃至(ないし)統制経済体制と、国民大衆の基礎にたつ集中的執政形態を要請しつつある」として、議会制度よりも、能動的な内閣制度を重視する。
 この結果、議会と内閣の関係は、「内閣組織者が必ず議会より出づることを予想するところの議院内閣制は、……必ずしも我が国情に最もよく適合せるものとは言ひ得ない」とする。
 政治の中心となる内閣制度の改革は、国務大臣と行政長官を分離し、少数の閣僚制(内閣総理大臣のほかには、内政・外政・経済・交通・陸軍・海軍の各大臣に縮小)として機動性をもたせる。そして、「内閣総理大臣直属の諸部局の整備強化を図る」こととして、@内閣総務局の設置、A企画局の設置、B情報局の設置を行なう。
 「各省機構改革」では、@「行政各部の組織を機能的に統一再編成すること」、A「時務の要求に応じ整備強化」すること、B「現業事務と一般行政事務との司掌機関を分割して、別個の組織とすること」、C「内地行政と外地行政との連携を確保すること」をあげるとともに、D「地方に委ねても支障なき事項は成るべく之を地方に移管すること」としている。
 内閣制度や各省制度の改革と結びついた地方制度の改革は、次のようなものである。
 府県制を廃止して、全国を地域的・経済的・社会的に共通要素を持つ数府県で道を設け、ここに道庁を置く。具体的には、北海道庁(区域は北海道。以下同じ)、東北道(東北6県)、東海道庁(東京、神奈川、群馬、茨城、栃木、埼玉、千葉、山梨、長野、新潟の1府9県)、中部道庁(岐阜、静岡、愛知、三重、滋賀、富山、石川、福井の8県)、近畿道庁(京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山、香川、徳島、高知の2府6県)、中国道庁(島根、鳥取、岡山、広島、山口、愛媛の6県)、九州道庁(九州7県と沖縄の計8県)、樺太道庁(樺太〈現サハリン〉)であり、これらの道が第一次行政区画とする。「但し東京及び大阪は都制を施(し)き、道と同格にする」としている。
 道庁は、中央政府と「地方自治体」との中間機関としてその管内の国家事務の執行、地方計画の樹立を行なうのである。府県は廃止し、数郡を合した小さな県を新設して、道庁と町村との中間機関として堅固とに支庁を設置することとした。
 なお、基礎自治体としては、「数ケ町村を合併して一町村とし、地方自治行政に堪(た)へ得る地域及び経済力を保有せしめ、名実共に兼備せる政治的経済的隣保協同の自治団体たらしめる。」ことが考えられていた。
 だが、昭和研究会の構想もまた、近衛内閣の崩壊で日の目を見なくなる。

  B太平洋戦争下で東京都制を実施

 日本帝国主義は、中国侵略の拡大で、中国人民の抵抗闘争に深く引きずり込まれた。盧溝橋事件(一九三六年)以降、政府は国内の政治的統一および経済に対する国家統制の必要に迫られ、府県間の連絡と調整のために、府県間の事務上の連絡会議を開く傾向がますます強まった。内務省は、一九四〇(昭和十五年)五月、大臣訓令をもって、北海道を除く全国を8地区に分かち、地方連絡会議を開催させ、各地方ごとに府県間の連絡・調整を行なわせた。
 しかし、一九四一年一二月八日、ついに日米開戦に突入し太平洋戦争に至るに及んで、「国力を集中的に発揮する為には各省の地方行政全てにつき之を綜合し相互に脈絡あらしむることの必要が痛感せられるに至ったので、昭和十八年(一九四三年―引用者)七月地方行政協議会の制度が創設せられ」(金丸三郎著「地方総監府及地方行政事務局に就いて」―『自治研究』21巻―11号 1945年11月)た。北海道を含めた全国を9地方に分けた、それぞれの地方行政協議会の会長は、大臣級の人物が任命され、委員は当該地方の知事のほか、当該地方に管轄権をもつ財務局長(大蔵省)、営林局長(農林省)、鉱山監督局長(商工省)、逓信局長(逓信省)、鉄道局長(鉄道省)などであった。そして、会長は「内閣総理大臣ノ監督ノ下ニ於テ会務ヲ総理」し、かつ「必要アルトキハ庁府県長官ノ所掌事項ニ関シテハ当該長官ニ対シ必要ナル指示」を、「其ノ他ノ官衙ノ長ノ所掌事項ニ関シテハ当該大臣ニ対シ其ノ官衙ノ長ニ必要ナル指示ヲ為スベキコトヲ求ムルコトヲ得」とした。
 地方協議会が設置されたときに同時に、東京都制も施行された。
 「東京都制」法の骨子は、次のようなものである。@東京府及び東京市を廃し、東京府の区域を以て東京都を設置すること、A都の首長(都長官)は官吏を以て之に充てること、B都に都議会及び都参事会を置くこと(おおむね府県会及び府県参事会に準ずる)、C都庁の職員は幹部級を官吏とし、その他必要なる範囲において吏員を置くこと、D都の財政は単一制とすること、都税の種目及び賦課の限度は府県税及び市税を合せたるものに依ること、E都の下級行政組織は原則として区とするも、現在の東京市以外の地域における市町村は差当たりおおむね従来の如く之を存続せしむることを得ること、F区の自治権については、概ね現制に準じ必要なる整備を加えること、G都は内務大臣において之を監督し、区及び市町村は第一次において都長官、第二次において内務大臣之を監督すること―などである。
 首都東京については、一般の府県や市と異なる制度が必要であるという観点から、「東京都制案」や「特別市制案」は数多く公表されてきた。一八九六年(明治二十九年)に都制案が議会に提案されて以降、一九三三(昭和八年)までに、二十三回も提案されてきた。
 諸案の主要な論争点は、(1)行政区域を府域にするか市域にするか、(2)首長の性格を官選とするか公選とするか―である。いずれも、二重行政の弊害を除去するというが、根本的な違いは、官治主義の立場か、「自治主義」の立場か―にあった。しかし、長年の係争点は、「戦争体制の確立」という名分により、官治主義の勝利となった。
 戦局はいよいよ押し詰まり「本土決戦」が予想されるようになり、一九四五年六月、地方総監府が設置されるようになった。それは、全国の8総監府を軍管区と合致した区域とし、地方総監は「非常急変ノ場合ニ出兵ヲ請フコトヲ得」るものとした。また地方総監は、管内に関係ある地方官衙の長を指揮監督することができ、総監のスタッフも強化された。しかし、だからといって府県制度が廃止されたわけではなく、「府県を地方行政の本位として之を統括する機能を主眼」(前掲金丸論文)としたものと言われる。
 地方総監府が設置された理由は、地方ごとの「本土決戦」では、区域の規模が府県レベルでは余りに狭いこと、また従来の行政事務が中央に集中しており、事態の変化に柔軟かつ敏活に対処できないからである。
 また、「戦局の変化に応じ陸海軍と緊密なる連携を保持して常に作戦と行政の一体化を確保し、各地方毎(ごと)に機に臨み変に応じて適切なる措置を講ずることが絶対の必要であり、之が為には府県のみならず須要なる一切の地方特別官衙を傘下に糾合して之を統率する強力なる中枢的行政指揮機関を各地区毎に確立することを必要とし、殊に緊急の事態が発生した場合に於ては、中央各省に代って管下の各地方官庁を指揮統率して行政の運営に支障なからしめ、本土が仮令(たとえ)分断せらる如き事態に立至ることがあっても、官民を率いて各地方毎に戦争を遂行し得る」(同前)ためである。
 地方総監府設置の真の狙いは、中央政府が崩壊しても地方ごとに戦争を継続する体制を構築するところにあった。(つづく)