東京3・24
さようなら原発1000万人アクションに六千人
 再稼働阻止し一千万署名は続く

 野田政権が大飯原発3・4号機の一点突破で再稼動全面化をもくろむ情勢下の三月二四日、東京の日比谷野外音楽堂では、「再稼動を許すな!」を掲げて、「さようなら原発1000万人アクション3・24」集会・パレードが行なわれた。主催は、昨年来、脱原発一千万人署名運動をすすめている同アクション実行委員会。
 集会には、小雨にも関わらず、野音超満員の約6000人が参加した。一千万人署名呼びかけ人からは鎌田慧さん、澤地久枝さん、落合恵子さんが、賛同人からは辛淑玉さんが発言した。
 鎌田さんは、「このかん原発は原爆と同じ、という認識は広がった。原爆投下を再び許さない、と同様にフクシマ原発事故を二度と許してはならない。そのためには一千万署名の成功が必要だ。今現在は550万筆。さらに一人10筆集めよう」と訴えた。(この集会は当初、署名集約集会として予定されていたが、署名は続行される)。
福島現地からは、大内良勝さん(3・11県民大会実行委員会)が発言し、郡山市での県民大会の成功を、全国からの結集のお礼とともに報告した。新潟からは、小島誠さん(新潟県平和運動センター)が発言し、「三月二六日には柏崎刈羽原発6号機が停止し、東電の全原発が停止する。フクシマの徹底検証なくして再稼動はありえない」と訴えた。
実行委員団体からは原水禁議長の川野浩一さんが発言。最後に、署名に寄せられた全国各地からのお便りが、何通も朗読された。原発立地点からは遠い各地でも、地道に署名が進められていることが実感できた。
この「1000万人アクション」による東京での次の予定は、代々木公園での「7・16」集会。八月に政府がエネルギー基本計画を決め直すことを踏まえつつ、十万人参加の大合流をめざす。
なお同日三月二四日には、稼動最期の原発になろうとしている北海道電力泊原発3号機が立地する岩内町において、「泊原発1・2号機の再稼動を許さない北海道集会」が開かれている。「1000万人アクション北海道」の主催で1500人が参加。
また翌三月二五日には、緊急集会として「大飯原発3・4号機再稼動に慎重な判断を求める市民集会」が、福井市で開かれている。原発反対福井県民会議の主催で700人が参加。
次々と津々浦々で闘いが続いている。稼動ゼロから原発ゼロへ、政治の転換をかちとろう。(東京W通信員)
 

釜バス『勝利号』遠征記
             福島−宮城−国会

   日雇労組3・11郡山に合流

 三月九日の夜、シュラフ、毛布、炊き出し用具を積み込み、約30名の仲間を乗せたバス『勝利号』は、大阪・釜ヶ崎を出発した。
 目的地は、昨年3・11東日本大震災の被災地であり、わけても原発事故の地元福島の郡山市で行なわれる3・10〜11の反原発闘争への参加である。そして宮城県におけるガレキ撤去作業、石巻−女川などの被災地巡り、さらには東京に戻って、議員会館での「ホームレス自立支援法」の延長を求める3・14院内集会への参加が目的である。
 初めて『勝利号』が、東北の地に登場した。3・10〜11の郡山市での反原発闘争は大成功であった。とりわけ「3・11原発いらない!福島県民大集会」は、地元はじまって以来という1万6千名が全国から結集した。会場で合流した山谷、寿、笹島の仲間たちと共に日雇全協の隊列で参加し、「被曝労働をさせるな!」「使い殺しを許さない!」「原発やめろ!」の声をひびかせた。
 また当日は大阪でも、残ったメンバーが呼びかけて、「さよなら原発3・11関西1万人行動」にも約30名の釜ヶ崎の仲間が結集して闘い抜いた。
 『勝利号』は北上し3・12には、仙台市若林区の荒浜地区の田んぼでの、ガレキ撤去作業を行なった。
 この仙台東部道路の東側、荒浜地区は、仙台市内では一番震災の被害を受けた所で、今も復興は遅れている。田畑の車輌などの大きなガレキは片付けられているが、細かいものは人力で拾い集めるしかなく、先に作業していた三十名ほどの若い人たちと合流し、作業を行なった。
 翌3・13は被災地を巡った。当日、車のトラブルが起きて時間がなくなり、石巻−女川までしか行けなかったが、津波の被害の大きさを実際に目で見て実感するとともに、ガレキは撤去され、きれいにはなったが、その先に一歩も進んでいない所がほとんどという現実を見て、政府の動きの遅さに怒りすら覚えた。
 3・14、いよいよ戦旅(いくさたび)の最終日、十日の夜からお世話になっている修道院をきれいに掃除し、昼夜の弁当をつくり、シスターたちと記念写真を取り、東京に向けて出発する。
 ちなみに、仙台市青葉区にあるこの修道院は、敷地内の農地が放射線量が高いため、洗浄しなければ使えない状態になっているとのこと。
 途中のサービスエリアで、ヒッチハイク中の大学生を乗せ、彼も一緒に国会へ。第二議員会館前で座り込みをしている新宿連絡会の仲間と合流し、院内集会に参加した。
 2002年に戦い取った野宿者支援法(「ホームレス自立支援法」)の延長を何としても実現しなければならない。そうした決意を込めた集会として闘い抜かれた。
 今回の「戦旅」の意義は大きい。さらに反原発闘争を前進させねばならない。復興事業と失業対策を結合させていかねばならない。そして何よりも野宿者支援法の延長を実現せねばならない。
 三月二七日、大阪市議会は、原発住民投票条例案を共産党だけの賛成で否決した。こうした暴挙を許さず、さらに闘いを強めよう。第43回釜ヶ崎メーデーに向け、さらに闘いは続く。(釜ヶ崎S)


原発いらない!3・11福島県民大集会に1万6000人
原発廃絶を高らかに宣言

 東日本大震災・福島原発事故1周年の三月十一日、政府・電力各社が原発再稼働の攻撃を強めるなか、福島県郡山市の開成山野球場において、「原発はいらない!3・11福島県民大集会」が同集会実行委員会の主催で開催された。
雨模様の寒い一日にもかかわらず、福島県民を中心に全国各地から約16000人が結集し、原発はいらない闘いを大きく前進させた。それは「原発再稼働の先頭に立つ」などぬけぬけと表明した野田反動政権への強烈な一撃となった。
集会は、オープニングコンサートに続いて、実行委員長・竹中柳一さん(福島県平和フーラム代表)による、「この集会が大きな変革の始まりとなることを」との強い決意表明で始まった。
 次いで登壇した呼びかけ人代表あいさつでは、福島大学の清水修二副学長が、「子どもの姿が見えず、人口が減り続け、故郷に戻る人も減っている。放射能という敵に支配されてしまった。原発に依存しない社会を作ることが求められている。しかし、再稼働の動きが強められ、これに対し脱原発の闘いが各地で行われている。3・11が脱原発の決意を固める集会になることを願っている」と本集会の意義を鮮明に述べた。
 連帯のあいさつに入ると、ノーベル文学賞作家・大江健三郎さんは、「原発事故を絶対に起こさせないことができるのかと問われれば、間違いなくできる。この国の原発全てを廃止すればいい。放射線の影響を受けるとことは絶対にない」と原発の停止、廃炉への固い決意を表明した。
 県民の訴えに入ると、「もう飯館で農業をやろうにもできない。避難地域では何もすることができない。農民は、農業が仕事。どうやって生きればいいのか。高放射線量のまま村民を放っていたのは誰か。」と、菅野哲さんの怒りが球場にこだました。
 そして、富岡高校からの転向を余儀なくされた2年生・鈴木美穂さんは、「色々なイベントに招待されたが、配慮や優しさがかえって辛かった。頑張れの言葉も嫌いだ」と複雑な心境を語った。そして「原発がなければ、津波や倒壊による被害者を助けに行けたのに。」と語った。
 次いで登壇した浪江町の橘柳子さんは、第二次大戦終結後の記憶を辿り、「いつの時代でも国策で苦しみ悲しむのは、罪のない民衆だ。子どもたちに、なぜ原発に反対して来なかったのかと言われないためにも、反対を示すこと。地震は止められないが原発は止められる」と振り絞るように話した。
集会は、震災発生の14時46分に黙祷をささげた後、最後に、「全ての心ある人々に呼びかけます。福島の犠牲を断じて無駄にしないために、ともに『原発はいらない!』の声を大きく挙げましょう。」などを訴える「集会宣言」を満場の拍手で確認した。
 集会後、参加者は「原発はいらない」の掛け声も高らかに、市内を二手に分かれてデモ行進し、脱原発の実現と再稼働を絶対に許さない決意を示した。(本社取材O)

 3・11郡山に参加して@
     職場からも脱原発

 三月十一日の郡山集会に労働組合で参加しました。いろんな労組の人たちと全労協のバスで行きました。
 昨年の3・11を境に変わったものの大きさを意識しない日は無かったので、前日は妙に気分が落ち着かず、大晦日のようでした。
 同乗者で線量計を持参している人がいました。郡山では、毎時0・6マイクロシーベルトと驚く値を示していました(東京の十二倍くらいか)。樹木の植え込みでは更に高くて、1マイクロシーベルトを超えていました。この異常な放射線量の中で、郡山の市民は生活することを強いられている事に対し、驚愕と憤激を感じました。
 今回郡山で1万6千人もの人々が、追悼集会に参加しましたが、原発事故がなければ、これだけ集まらなかったのは明白です。今回の福島第一原発の事故を契機にして、全国の原発を止めにしなければ、もうその機会は無いと思われるので、粘り強く闘うしかないと肝に銘じています。
 周りは無関心な人間が多くいます。安保闘争の盛り上がりとは比較にならないほど、運動自体が停滞していますが、もちろん反原発の人も職場にはいますし、また無関心な層にも働きかけねば、と考えております。(首都圏・労組員)

 3・11郡山に参加してA
    地域市民の意気上がる

 わたしは、地域の仲間たちと福島県民大集会に参加した。脱原発の地域グループの呼びかけで、子どもなどの参加を認めず中高年だけの参加による企画で、予定の人員は早々にいっぱいとなった。ここには地域市民運動関係者ばかりでなく、地域ユニオンや諸政党関係者なども共に参加した。
 バスでの行動は、地域の各取り組みを交流するには大変好都合で、県民集会参加の意義が一つとなり、皆の気合いが大変に上がった。
 郡山市は、「浜通り」の福島第一原発からは離れた「中通り」に位置するが、会場の球場周辺では、仲間が持っていった線量計によると、毎時0・6〜1・3マイクロシーベルトという大変高い放射線量を計上した。我われが、若年者の参加を認めなかったのは正しい措置といえた。しかしながら、この福島県に住む人びとにとっては、この事態が常態化しているということを我われも思い描かねば、連帯も、対策もないということである。
 集会では、発言した原発周辺の被災者、農民も漁民も、高校生も皆、一周年の追悼というより、東電・国に対する怒りの表明に満ちていた。
 参加の仲間と話題になったのは、大江健三郎さんが、ドイツは倫理で原発廃止を決めたという発言であった。ここでいう倫理とは、国家が取るべき最高理念、ドイツ観念論が念頭にあるのだろうか。民主主義者の大江さんとしては当然のことだろう。彼のような人々も含めて、幅広く脱原発の闘いを進めなければならない。(首都圏・市民)


3・11東京大行進・国会「人間の鎖」に一万四千
    脱原発で国会包囲

 首都圏から多くの人々が郡山に向ったが、3・11の都内での行動も非常に参加者は多かった。この日、午後2時には日比谷公会堂裏に続々と人びとが集まり、「追悼と脱原発の誓いを新たに3・11東京大行進」が1万数千名で行なわれた。東電本社への抗議を含め、そのデモ行進は夜の国会包囲に接続していった。主催は、首都圏反原発連合。
 また隣の日比谷公園の噴水広場では、追悼コンサートなどの「ピース・オン・アース」が市民団体等によって開かれていた。このイベントは、脱原発がメインではないが、数万人が参加した。
 午後四時からは、「3・11原発ゼロへ!国会囲もうヒューマンチェーン」が社会文化会館前集合で始まり、国会包囲へ向った。主催は、再稼動反対!全国アクション。
 ところが警察は、国会周回道路の内側歩道での包囲行動を法的根拠なく認めず、外側歩道へ人びとを追いやった。外側では、交差点で分断される。抗議の声が続くなか、この不当規制を知らないまま次々と参加者がやってくる。
 この警察に責任がある混乱と、東京大行進のデモ隊の合流が(人数が多くて)遅れたことによって、包囲パフォーマンスは予定より一時間ほど遅れの六時頃に行なわれた。1万数千人によって国会が完全包囲された。
 なお東京では、日共系はこの日、「震災復興・なくせ原発」を掲げて、井の頭公園で8千人の集会を開いた。

 全国各地で3・11行動が
 
全国各地で3・11の行動は展開された。大阪では、「さよなら原発関西1万人行動」が三会場に分かれて開催され、約7千人が参加した。中之島公会堂では午前中から集会がもたれ、「福島原発事故が奪ったもの」、「原発銀座の若狭から」と題して福島、福井からの報告が行なわれた。女神像前広場と剣先公園でも集会が開かれ、関電本社などへデモ行進を行なった。また、日共系は扇町公園で8千人であった。
前日には京都で、超党派的に「バイバイ原発3・10きょうと」が円山公園で行なわれ、5千人以上の盛況であった。
福岡市の3・11では、平和フォーラム系は別集会となったが、市民運動と日共系によって5千人を集めた。被爆地のヒロシマで2千人、ナガサキで1千人が、再び被曝を許さずと行動した。甲府市で、「さよなら原発・なくそう核兵器」を掲げ、超党派的に500人というのも注目される。
古い要素も残ってはいるが、脱原発の運動の広がりは、各地での共同行動の様相を変えつつあるともいえる。新しい参加者が格段と増えているからである。(A)