国家の機能不全(下)

      愛国主義によるイデオロギー的国民統合の劣化
                             深山和彦
 

  <グローバル資本主義と愛国主義>

 かつて愛国主義は、ブルジョア国家(国民国家)の樹立を牽引し、国内市場の形成と国際的な市場(植民地)拡張を推進するのに寄与した。それらは、他民族抑圧の拡大を伴うものであったが、資本制的生産の発展を導いた。愛国主義は、ブルジョア国家を政治的に支える最も核心をなすイデオロギー的制度的な社会統合装置なのである。
 しかし今日、愛国主義は、超大国アメリカを主柱とする国際反革命同盟体制と対立し、世界市場の統一性を破壊しかねない要因、世界市場において残存する諸障壁の解消を妨げる要因へと転化している。それらは、世界をまたに駆けて肥大化する巨大投機マネーにとっても、また産業の成熟(市場の飽和)の上でやっていかねばならない多国籍化した産業資本にとっても、基本的にマイナス要因になっている。とはいえ資本は、国民国家を基盤としているため、他国資本との競争においても、人民に対する政治支配においても、愛国主義を利用せざるを得ない。のがれられぬジレンマにはまり込んでいるのである。
 
  <愛国主義の高まりの内実>

 今日、世界的に愛国主義の高まりが見られる。ただし先進国と新興国・発展途上国では、その内実が異なる。
 先進国の場合は、その背景に、社会の崩壊がある。過剰人口(絶対的・相対的)の急増、自己中心主義的価値観の蔓延、人々の絆の消失である。その中で中間層が、没落へ危機感・恐怖を募らせ、「テロリスト」「外国(人)」を標的にした排外主義的連帯へと大挙漂流しているのである。
 アメリカは、第二次帝国主義世界大戦の戦勝を媒介に他の帝国主義諸国を一定支配・統制して国際反革命同盟体制の主柱の地位を獲得した。アメリカは、制約されない権力行使の自由を、国際社会においてかなりの程度において保持しているのである。そのことが、前述の愛国主義への今日的制約を、アメリカにおいては特別弱いものにしているのである。われわれは、ブッシュ政権時代の単独行動主義的武力行使(アフガン・イラク侵略)を後押しした愛国主義フィーバーに、それを見ることができる。
 しかし、超大国アメリカといえども自己中心的な愛国主義的行動には政治的限度がある。限度を超えれば世界的規模で愛国主義の高まりを促迫し、国際反革命同盟体制とグローバル資本主義というアメリカ資本がそこから最大の利益を引き出しているシステムを崩壊させてしまうからである。
 EUにおける愛国主義の高まりは、アメリカとは若干異なる仕方で現れてきている。
 すなわち、EUにおける愛国主義は、アメリカの覇権に対する抵抗という形態で表出しないではないが、主に「外国人」移住労働者に対する敵意の形を取って噴出してきていることである。
 その背景の一つは、超大国アメリカの世界覇権の下に在るという現実である。二つは、欧州諸国ブルジョアジーの同盟という側面をもつEUという現実である。この現実の圧力の為に、愛国主義がいじめの連鎖という形をとってより弱いものへと向かい、「外国人」移住労働者に対する排外主義となって凝縮し噴出するのである。
 日本の場合は、超大国アメリカへの従属がEUよりもはるかに強い。また近隣の諸国・人民に対して侵略の過去を清算し切っていない。このため愛国主義は、アメリカの覇権に対する抵抗としてはほとんど表出せず、アメリカの東アジア分断統治策に誘導される形で、近隣の諸国・人民に対する開き直り的排外主義として噴出しだしているのである。
 これに対して新興国・発展途上国において高まる愛国主義は、自国産業資本が牽引する愛国主義であり、没落する中間層によって特徴付けられる先進国のそれとは異なるものである。その背景は、先進国の産業資本が世界史的な産業の成熟(横断的な先進国市場の飽和)によって発展途上国へと大挙進出したことを契機に、新興国・発展途上国が波状的に急激な産業発展期へと突入したことにある。
 米・欧・日の愛国主義は、社会を破壊し、歴史の歯車を逆回転させる方向に作用するものである。また新興国・発展途上国の愛国主義は、先進国のそれと同じく他民族抑圧の契機でありつつも、当該国の産業の発展を牽引する前進的役割を果たしている。
 
  <愛国主義の根底的劣化>

 今日、先進国の愛国主義は、資本制的生産の発展を政治的に牽引する役割を果たし終え、グローバルに発達した資本主義システムの障害へと転化している。とはいえ、そのことは、先進国の愛国主義が政治的に無力化するとか、ましてや反資本主義の武器に転化したといったことを意味しない。資本は、結局はグローバルに拡張された権益を守るのに、結局は愛国主義でイデオロギー的に武装した自国の国家に依拠する以外ないからである。
 だが、先進国における愛国主義は、もっと根底的なところで、劣化の過程にはまりこんでいるのである。
 すなわち時代の趨勢は、「産業の成熟」「地球環境限界への逢着」「人間(関係性)の豊かさへの欲求の増大」によって規定されている。時代は、資本主義の歴史的役割が終わり、国家が廃絶され死滅する方向に向かっている。そこに愛国主義の存続の余地はないのである。
 ただこの人間の時代への三つの契機の台頭は、ブルジョア社会においては「社会の崩壊」をもたらす。それが、没落する中間層のなどの間で、愛国主義への逆流を副産物として生み出しているのである。愛国主義の逆流は、あくまでも大きな歴史的趨勢の副産物にすぎないのである。
 とはいえ副産物だからといって、これを軽視してよいということではない。没落する中間層を中心としたこの流れが下層の労働者を広く捉えだせば、それは事件となる。その分かれ目は、労働者民衆の側が崩壊する既存の社会代わって、人々の新しい生存の在り方を切り拓く新しい社会システムを、人間の時代を開く三つの契機に依拠して闘いとることができるか否かにある。また、人間の時代を開くことのできる政治勢力を登場させることができるか否かにあるのである。
 人間(関係性)の豊かさへの欲求の実現は、全ての人々の相互的・協同的な事業としてのみ可能であり、国籍や民族の違いをこえた連帯の発展である。この高次の欲求は、愛国主義を歴史の遺物として博物館送りとせずにはいないのである。
 尚、他民族抑圧の歴史の清算という課題が、人間の時代を開く三つの契機という基盤の上で改めて浮上するに違いない。この課題はこれまで、自決権や賠償などとして「権利・義務」というブルジョア社会の価値観の基盤の上でのみ扱われ、あるいは労働者階級の国際連帯をもって帝国主義的支配階級と対決する「政治」の見地から扱われてきた。だが今日それは、「権利・義務」や「政治」による対処を包含つつも、人間(関係性)の豊かさの実現という社会革命の内に組み込まれ位置づけなおされる。それは、人類の世界史的な総決算事業となるだろう。(了)