国家の機能不全(中)
                          深山 和彦


  社会的支えを失う国家

 国家はいかに強大であろうと、社会の側からの内発的な支えがなければ、それは機能しない。今日進行している社会の崩壊は、国家にとってみれば、そうした社会の側からの支えの喪失を意味する。
 国家にとって、社会の大多数を為す労働者階級の就労と生活が安定していることが重要である。しかしそれが、危機に瀕してきているのである。
 まず資本にとっての絶対的過剰人口が形成され、失業者群が傾向的に膨張しだしている。資本が社会の大多数を占める「無産者」を雇い、そうすることで民衆の生存を保障するシステムが、作動しなくなってきたということである。また労働者階級の就業部分においても、労働者使い捨てシステムと労働力の再生産が困難な賃金水準とが、一般化している。資本は、雇用労働者をも掌握できなくなってきているということである。
 国家にとって、社会の一般的価値観が安定していることも、重要である。しかしこれが、極めて混迷しだしているのである。
 それは、資本主義がその歴史的役割を果たし終え、社会の目標や価値観(「経済成長」や「権利」)が色褪せ、社会に害を及ぼすようになりはじめたためである。また、ブルジョア社会に代わる新たな社会の目標や価値観が、「相互扶助社会」「地産地消社会」「ネットワーク社会」「定常社会」等々として芽生え出しており、このことも社会の目標喪失と価値観の混迷に拍車をかけている。
 国家にとって、企業・学校・家族などの社会システムが安定していることも、重要である。しかしこれも、前章で見たように資本主義の歴史的役割の終焉と人々の欲求の高次化によって、崩れ出しているのである。
 人々が個に解体された社会。人々が目標を喪し、価値観の混迷に陥っている社会。人々が仕事に就けず、生存できない社会。社会がこうした中では、人々は反乱し始め、生存のために新しい社会システムの構築に向かう以外ない。
 今日の国家は、端的に言えば、社会的支えを失った・社会の上に浮いているだけの存在になりつつあるということである。国家の統治は、極めて不安定化せざるを得ない。国家は労働者民衆に対して、あるいは社会的差別などの内部矛盾の利用・扇動や監視・弾圧に、あるいは懐柔・包摂というやり方に頼ろうとする。だがいずれも、またそれらのどのような組み合わせも、目的を果たせず逆効果となる。時には、極端に走って支配秩序の破綻を加速してしまう。社会崩壊時代の国家は、このようにならざるを得ない。
 
  支配階級の末期的路線対立

 今日、支配階級は、深刻な路線対立・内部抗争にはまり込んできている。
 ブルジョア社会が耐久消費財産業の発展に牽引された時代には、支配階級は、ケインズ主義的財政支出(アメリカの軍需、西欧の福祉、日本の公共事業)でこれを支え、利益誘導型統治システムをそれなりに安定的に機能させることができた。資本家たちの間で分ける利潤の総額が増大した時代であり、大多数の労働者も賃上げによって物的豊かさを享受した時代だった。その意味では、支配階級の結束という点でも、階級支配秩序の維持という点でも、国家の機能不全をもたらす要素は無かったのだった。
 しかし、資本主義が歴史的役割を終え、社会が崩壊しはじめたことによって、事態は一変する。
 まず支配階級内部に末期的路線対立が現れてくる。
 最初に登場したのが、国際投機マネーの略奪運動をあからさまに擁護し、社会が崩壊しようと構わないという新自由主義・市場原理主義の「第一極」路線であり、要するに資本主義護持派である。
 資本は、略奪という形態であれその「自己増殖」運動に行き詰まれば、資本でなくなる。それ故、この路線は、歴史的役割を終えた資本が延命のために推し進める路線なのである。だがこの路線は、実体経済における貨幣資本の過剰化とその投機マネーへの転化を促進し、社会の崩壊を加速する。それでも構わないという路線なのだ。もちろん社会が崩壊するのを放置するという訳ではない。人民に対する監視を強め、その反抗を国家暴力によって押さえ込もうとする。社会的差別を煽り人民を分断し互いに対立させることで、支配を維持しようとする。
 この路線は、七〇年代末・八〇年代初頭にサッチャー・レーガンによって旗揚げされ、世界に伝播していった。欧・日をはじめとした他の諸国では、新自由主義・市場原理主義の前に「アメリカ一辺倒」という政治的特徴がつく。それは、欧州大陸諸国や日本では、産業資本の力が依然強く、投機マネー経済の発展が遅れていたこともあって、超大国アメリカの圧力に促されてアメリカ式の新自由主義・市場原理主義を導入するという関係が創られたからである。
 このような新自由主義・市場原理主義路線に対して、支配秩序を維持する見地から、民衆の社会的包摂を重視する「第二極」路線が現れる。この路線は、社会の崩壊(労資関係の破綻を含む)を是とせず、ブルジョア階級の広範な部分(産業資本・特に相対的に小規模な資本)の利益を擁護する。ただこの路線は、資本主義の「発展」がマネーゲーム資本主義の方向にしかない現実の中では、市場原理主義的改革と民衆の社会的包摂との間で動揺するマッチ・ポンプ路線にならざるを得ない。
 この路線は、九〇年代の欧州において、典型的に登場した。それは、国際政治においては、超大国アメリカと一定距離をおく傾向として立ち現れる。実際、当時の欧州は、EUという形での欧州統合が進行しており、アメリカと一定距離を置くことの出来る主体的環境を作り出していた。
 日本の場合は、2002年に誕生した小泉自民党主導政権が、アメリカ一辺倒・市場原理主義路線を推進し、戦後の利益誘導型統治システムを解体した。日本はこれによって、投機マネーの国際競争場裏に投げ込まれ、現代的な格差・貧困問題が浮上するなど社会の崩壊が現実化する。小泉政権は早々に身を引くが、それを引き継いだ自民党主導政権は、ことごとく短命に終わらざるを得なかった。
 そうした中で、2008年に世界金融恐慌に直撃されたこともあって、2009年には「東アジア共同体」「国民の生活が第一」というアメリカから一定距離を置き民衆の包摂を重視する路線をかかげた鳩山政権が誕生することになる。だがこの政権は、アメリカの圧力、官僚および財界の抵抗に直面して短命に終わり、アメリカ・官僚・財界に擦り寄る政権へと交代する。日本の場合は、支配階級の路線対立・内部抗争が国家の機能不全化をもたらす点において、最も際立っている。
 今日の支配階級は、危殆に瀕する資本の自己増殖をマネーゲームで推進するのか、社会の崩壊を押し止めることに力を注ぐのか、この二つの道の間で股裂きになっている。これが、国家の機能不全化をもたらす一つの大きな要因になっているのである。
 今後、社会の崩壊の中から新たな社会システムが発展し、労働者民衆の闘いが高まり、政治的「第三極」が形成されるならば、今日の支配階級の路線対立と内部抗争は、支配の危機に転化せずにはいない。世界金融恐慌(これに日本の場合、東日本大震災・福島原発事故が加わる)は、そのような時代への転回をもたらさずにいない。
 
  代議制民主主義の機能不全

 ブルジョア国家は、全てではないが基本的に代議制民主主義を統治システムとしている。
 代議制民主主義は、国家の一定の構成部分(主として立法府)を何年かに一度の国民の選挙によって選出するシステムである。この代議制民主主義は、統治がブルジョア階級によって為されている事実を覆い隠し、それが国民によって選出された政府によって為されているのだとする欺瞞を可能にしている。
 だが国家機構の大部分を構成する軍隊と官僚機構は、代議制民主主義によって形成される政治意志とは相対的に独自な・社会を統治するための実務機構である。この実務機構は、ブルジョア階級と深く結びついている。代議制民主主義によって形成される政治意志は、この実務機構が協力する政治的範囲内でしか貫徹しえない。
 それにブルジョア社会は、国家との関係で極めて自律的である。その根幹を為すシステムは、資本主義的企業と市場である。代議制民主主義をはじめとした国家機構は、政治的統治というその専門的役割を果たす上で、この経済システムの維持・発展を基本にする以外ないのである。
 そしてもちろんブルジョア階級および個別資本は、何年かに一度の選挙についても、自己の利益を代表する候補者が多数となるように画策する。選挙制度、世論工作、選挙資金、企業組織の動員、警察力などの国家機構の利用、等々によって。
 このような代議制民主主義の役割にも、歴史的に変遷がある。
 ブルジョア国家は、それが誕生して間もない不安的な時期には、地主階級の巻き返しに対抗する必要から「人権」や「自由・平等・博愛」の大義の旗の下に下層民衆を取り込みつつも、選挙権に財産上の制限を科して議会から下層民衆を排除していた。
 しかしブルジョア国家は、産業資本に牽引されて機械制大工業が興り、労働者階級の数と結束と反抗が増大する中で、男性だけを対象にした普通選挙権を、そして女性参政権を導入していく。それは、労働者階級・人民の闘いの成果であったが、同時に、機械制大工業の発展(国際的搾取・収奪体系の発達でもある)を背景に政治的安定の仕組みを作り出そうとする国家の側からの社会統合策でもあった。ブルジョア国家は、代議制民主主義の内に労働者階級・人民を包摂するだけでなく、産業の発展(物質的豊かさの実現)を基盤に所得再分配機能(累進所得税や福祉予算の拡大)を強化することでその政治的包摂をうち固めていく。代議制民主主義は、この国家による所得再分配において重要な役割を果たした。
 近年、代議制民主主義がこうした役割を果たせなくなってきている。
 その理由の第一は、これからの支配的資本である投機マネーが、他の階級・階層や同じ階級の人々に対してさえも、それらとの協働・協力関係の側面をもたず、ひたすら略奪の対象としていることにある。
 投機マネーは、ブルジョア階級全体の団結にも、また他の階級・階層を政治的に取り込むことにも、関心がない。だから、議会で議論し、妥協し、多数をまとめることに消極的である。このような投機マネーが支配的資本になって政治に大きな影響を及ぼしている。これでは、代議制民主主義がその役割を果たせなくなるのも、当然であるだろう。
 その理由の第二は、支配階級が、解決不能・拡大一途の内部路線対立に陥っていることである。
 資本主義は、投機マネー資本主義を発展させる道を歩む以外ない。しかしそれは、社会を崩壊させ、階級支配を危うくする道でもある。このジレンマは、解決不能・拡大一途であり、支配階級内部に末期的な路線対立を生みだしている。
 即ち、一方の側に投機マネーの略奪運動の自由を拡大する「第一極」路線が立ち、他方の側に社会の崩壊によって生存の危機に陥る民衆を社会的に包摂し、支配の破たんを回避しようとする「第二極」路線が立つ。この二つの路線の間で支配階級(政党・官僚・資本)が分裂し、また右往左往しながら、全体として混迷の淵に沈没していく。
 この混迷が、議会の混迷をもたらしているのである。
 その理由の第三は、支配階級が利益誘導型統治システムの崩壊以降、民衆の政治動向を制御できなくなってきていることである。議会制民主主義は、民衆を政治的に包摂する機能を果たすどころか、民衆が国家の運営をかく乱し困難に陥れる仕組みへと転化してしまっているのである。
 民衆は、国家から排除されている存在(「代議制」はその象徴)であるから、社会の崩壊と生存の危機が深まる中で、その打開を求めて支配階級の路線対立に選挙と通じて介入する以外ない。そしてはげしく流動し介入する。政党の方は、その取り込みに必死となる。概して、投機マネー資本主義を推進する「改革」派は、所得再分配システムをやり玉に挙げ、社会的差別の扇動を厭わない。支配の安定を追求する「包摂」派は、財政赤字の増大を厭わない。これらは、民衆のはげしい流動と介入に突き上げられて、支配階級の二つの傾向を過度に増幅させ、国家の運営を危うくする。支配階級の間でポピュリズム(大衆迎合主義)批判が起こる。
 こうした事態は、労働者民衆が代議制民主主義をテコに、自立した政治勢力として登場する道を広げている。またこうした事態の中で、支配階級が議会制民主主義を実質的に停止することも、ありうることである。
 その理由の第四は、官僚支配の露呈と衰弱である。
 代議制民主主義がその役割を果たせていたのは、またそのような外観を保持しえていたのは、その背後にある官僚システムがそれなりに機能していたからでもある。しかし、耐久消費財産業の発展時代が終焉し、役割を終えたケインズ主義的財政出動・利益誘導型統治システム(政・官・財の癒着)の解体が求められる中で、基軸的役割を果たしてきた官僚システムが明るみに引き出され批判されるようになる。
 しかしそれは、国家権力の主要な部分が官僚にあることを明らかにし、官僚による民衆支配(統合)を弱め、官僚を末期的路線闘争の渦中に投げ込み、そうすることで官僚システムを弱化させた。だがそのような官僚システムの弱化は、それを土台とする代議制民主主義の機能不全化も意味する。
 官僚支配の衰弱は、住民自治とそのネットワークの形成を促すだろう。それは、代議制民主主義の欺瞞を突き破り、住民自身の合意形成システムとして登場するに違いない。
 



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