大阪・釜ヶ崎
 12・28〜1・7第42回釜ヶ崎越冬闘争を貫徹
  青年・学生の参加広がる

 第42回釜ヶ崎越冬闘争は十二月十八日、地区内「ふるさとの家」における「越冬闘争支援連帯集会」を皮切りとして、釜内外の心寄せる仲間たちの共働・連帯の行動によって成功裏に闘われた。
 今次第42回越冬実行委員会の基調報告は、以下のように宣言している。「我々は第42回越冬闘争にあたり一つの文言を書き加えねばならない。それは3・11が暴き出した福島第一原発の事故のもたらした悲惨さであり、またその下で営々と続けられてきた被曝労働を余儀なくされてきた最下層の仲間たちの存在でもあります。(中略)3年前の金融恐慌は新自由主義、グローバリズムの時代が抱えていた矛盾を一挙に爆発させ、全世界を巻き込み失業・貧困の連鎖をつくった。米国で売りに出されたサブプライムローン債権の証券化が何故もこうした恐慌に結びついたのか? 沖縄全島あげての米軍基地県外移設要求が何故も簡単に『日米合意』で裏切られたのか、原発事故を『想定外』と言いつのって利権のために被害を拡大させたのはなぜか? そして責任は誰にあるのか? なぜ野田総理は多くの反対を押し切ってTPP参加を進めるのか? こうした疑問には多くの『回答』がなされてきた。しかし最終回答は一点に集約される。資本家と奴らが手に入れた過剰資本・過剰貨幣をもってする投機とそれに連なる者たちの『利益』追求がもたらした災禍!これが真実である。」――と、今日の新自由主義がもたらす民衆への必然的犠牲をきっぱりと断罪している。
 そして、打ち続く非正規労働者の増大と貧困が進化する今日的状況に対しては、「我々は今こそはっきりと社会的就労の創出に一層の力を尽くすべきと断言する。それは長年にわたって景気の『調整』の役回りを課せられた釜ヶ崎労働者が資本にのみ身をゆだねることなく、ある時はそれを利用し、又ある時は公的就労でもってする貧困・野宿からの離脱でもある。具体的には目新しいことではない特掃(高齢者特別清掃事業)の拡大・飯の食える就労への拡大と、55歳以下の参加できる就労の創出である。」と簡潔に方向性を明示している。
 この基調のもと、12・28〜1・7の越冬闘争期間を、実行委に結集する団体・労働者・青年・学生たちが、それぞれの役割を担い、行動し、学んでいった。十二月二八日の三角公園での越冬突入集会に始まり、人民パトロール、医療パトロール、センターふとん敷き等が貫徹された。恒例の越冬期間中における催しも楽しく行なわれた。
 今回は、外国人留学生を含む全国からの学生の連帯参加も多く(延べ70名以上の参加)、学生諸君の関心の高さと行動力を示した。また、今次越冬闘争期間中における南港臨時宿泊所の労働者の利用者数は約490名。昨年より70名ほど少ない数となっている。
 一方、釜ヶ崎と市民をつなぐ市民団体「釜ヶ崎講座」も今年の越冬実に参加、支援連帯集会、突入集会、12・30越冬行動、1・3釜ツアー、1・4大阪市・府「お礼参り」行動へと繋げ、共に連帯していった。釜講座の仲間は各集会あいさつの中で、「1・28第16回講演のつどい」の宣伝と共に、2012年へ向けても釜ヶ崎より生活・就労を基軸とする問いかけを発信しながら行動していくことを訴えていった。
 今年もなお一層、大阪・釜ヶ崎の闘いは全国の下層未組織の労働者をはじめとする民衆の熱い闘いと合流して、諸運動の前進を促していくことであろう。(関西I通信員)


 被災現地支援の経験ふまえ
     1・28釜ヶ崎講座「東日本大震災と失業問題」

 一月二八日、大阪・釜ヶ崎の西成市民館の講堂において、釜ヶ崎講座「第16回講演のつどい」が「東日本大震災と失業問題」のテーマで開かれ、約40名が参加した。
 大阪では、昨年十二月十七日に「ホームレス自立支援法と困窮者対策を考えるシンポジウム」集会が持たれており、全国的には野宿者の実数は減少するも、新たな形での生活困窮者が増大し、野宿者支援法の延長問題と合わせて、運動主体側の新たな課題となっている。
 こうした課題に呼応しつつ、釜ヶ崎講座は生活と就労を釜ヶ崎から考え、実践していく観点から、今回、東日本大震災に焦点を当て、こんにち社会運動の中心課題である反失業につなげていく試みとして「講演のつどい」を企画した。
 講師には、被災地の仙台より、被災者支援に携わってきた「共生地域創造財団」の事務局長・`島一匡(はいじま・かずまさ)さん、スタッフの河浪剛さん。そして大阪からの現地支援報告としては、釜講座代表で歯科医師の渡邉さん、釜ヶ崎日雇労組書記長の佐々木さんが、それぞれの体験をもとにした報告を行なった。
 `島さんは冒頭、現地の被災地支援のスライドを紹介し、寸断された道路、入り組んだ地理、点在する集落等の困難な条件下、今も、とりわけ地域住民の見守りに力点をおいて活動している現状を述べた。河浪さんも、取り残されている地域・人々を最優先に支援していることを述べ、「過疎化・高齢化」の地域環境の中、スタッフのチームワークを発揮しつつ取り組んでいることを強調した。また講師二人の共通した言葉としては、被災地の人々にとりわけ女性に失業者が多いこと、「復興」に対する住民の期待度が薄いことがあげられた。
休憩をはさんで後半は、大阪からの被災地支援報告に移った。
まず歯科医師の渡邉さんが、宮城・女川地区の被災地写真をスライドで映写し、津波による壊滅的状況が披見された。渡邉さんは「ホームレス支援全国ネット」の動的連携のもと、また全国に散在する心ある医師群の連携もあり、そして何よりも現地で強く医師の不在を行政に訴え続けた人の存在力が効を奏して医療活動が確立でき、今後も継続されることを報告した。
釜日労の佐々木さんは、半年におよぶ現地支援活動をふりかえり、「『復興』とは根本のところ、自ら考えていくこと、共生・共働の仕組みづくりを地域に合わせて追求していくことだ。原発のない安心できる生活環境を、仕事づくりをつうじて形成していくこと。時間はかかるがやるしかない」と述べた。
最後に釜日労委員長の山中さんが、「3・11の福島原発事故一周年には、われわれもバス勝利号で現地集会に参加したい。『大阪・原発の是非を問う市民条例署名』も組織的にがんばった。また、釜の仲間が何人、福島原発に行き、いかなる労働実態にあるかは、はっきりとつかんではいないが、継続した我々の闘いのなかで明らかにし、仲間を守っていく」と述べた。
今回の講演のつどいは、釜地区内の会場で開催されたこともあり、釜日労をはじめ西成地域の多くの人々の参加があった。また「釜ツアー」参加の青年の参加もあった。釜講座は今後もさらに行動力を高めながら、釜ヶ崎と市民との橋渡しの役割を果たしていくだろう。(関西A通信員)


東京・山谷
 1・9日雇全協反失業総決起集会
   被爆労働者との連帯を

 快晴の一月九日、東京・山谷の玉姫公園において、「佐藤さん・山岡さん虐殺糾弾!日雇全協反失業総決起集会」が約200名の結集で開催された。
 集会は、1984年・85年に暴力団に虐殺された2同志への黙祷で、その無念の思いを再確認することから開始された。
 そして、まず山谷の仲間から基調報告として、リーマンショック以降の格差の拡大が新自由主義・市場経済の本当の姿であり、それが一握りの資本家による99%の労働者人民への強収奪をもたらし、のみならずその生命さえも脅かすに至っていること、それに連動して野宿者への社会的排除が恒常化している現状が報告された。
 さらに、3・11東日本大震災と福島原発事故が明らかにしたこととして、原発および被災地の被曝労働に重層的下請け構造のもと寄せ場労働者、失業者・野宿者が動員されていることを厳しく糾弾し、これらと闘うこの集会の意義を参加者全員で確認した。
 つづいて争議団連絡会の仲間からは、昨年の政治課題、わけても労働者派遣法改正が民主党の公約であったにもかかわらず、その一部改正すら自民党との取り引きで何ら前進していないばかりか、その後法案提出じたいも危ぶまれる事態となっていること、そうした事態をふまえて、三月には全国争議団交流集会を開催し、闘う争議団の一層の団結をめざそうとの提起が行なわれた。
 今回の集会を特徴的に表現したのは、福島から駆けつけてくれた「被曝労働者プロジェクト」の仲間の問題提起であろう。その発言の中で、「福島第一の原発現場では毎日、数千人の下層労働者が働いており、それは下層の仲間の命を食い物にする、原発をつうじた金融資本支配の実態であり、脱原発の闘いは、こうした仲間と連帯した全労働者の課題である」と述べ、「被曝労働者と連帯した闘いの構築を!」と訴えた。
 然りである。2012年の脱原発の運動は、より広くより多くの創意と工夫を図らねばならないが、その一翼に確固とした労働者勢力の脱原発闘争を位置づけ構築していかねばならない。なぜなら、08年以降の世界金融恐慌は「格差社会」という言葉で実は、階級対立の非和解性の実相を明らかにしたのであり、原発事故は新自由主義グローバリズムのもとでの経済成長神話を崩壊させ、労働者の生命・権利を守る闘いが、必然的に旧来の古い社会の仕組みと衝突せざるをえないからである。
 集会では連帯・支援発言として、「沖縄を踏み台にするな!新宿ど真ん中デモ」からは普天間基地を巡る情勢が、また「差別排外主義と闘う連絡会」からは「在特会」らの排外主義攻撃の現状が報告され、最後に福島現地のイワキ自由労組からは、3・11現地大集会の行動提起が行なわれた。
 つづいて「全国日雇労働組合協議会」各支部の当該発言として、最初に釜ヶ崎日雇労働組合の山中委員長が登壇した。同委員長は今しがたまで第42回釜ヶ崎越冬闘争を闘い抜き、わずかの休息の後、われわれ釜の仲間の数十名と共に集会に駆けつけている。
 彼はその発言で、野宿者への排除が強まっている中、今年八月で期限が切れる「ホームレス自立支援法」の延長を強く訴えた。この野宿者支援法に関しての様々な意見がある中で、あえてこの問題に正面から向き合って発言し、その成立の歴史的背景として「野宿者の社会的排除と意図的隠蔽を打ち破り、その存在を国に認めさせ、その責任を明らかにさせた」こと、これをまずしっかりと確認すべきと訴えた。さらにそのうえで、強まっている野宿者排除に対する闘いが、野宿しなくても生きていける仕組みづくりではないのか?と提起し、公的就労の場を創出することが緊急の課題だと提案した。
 そしてまた、戦後最高の207万人に及ぶ生活保護受給者数の現状に触れて、稼動年齢層受給者への就労指導がいかに強化されようとも、その「出口」たる就労が民間の労働市場ではほぼ不可能な現状であること、そのうえ就労努力が保護申請の条件へと「転倒」している現状をバクロしつつ、ここでも公的・社会的就労の場を作るべきと強く訴えた。
 こうした釜ヶ崎からの発言は、長い闘いの歴史、わけても1990〜2000年代と継承された反失業闘争とその成果である高齢者特別清掃事業・緊急夜間臨時宿泊所・釜ヶ崎NPO設立、これらを教訓化した発言であり、今後の日雇全協の発展に不可欠な課題提起とも言えるものである。
 集会ではさらに、名古屋・笹島、横浜・寿の各支部の決意表明を受け、最後は、恒例の「ワッショイ」デモで山谷を一周し、2012年の闘いの幕開けを告げたのであった。(釜ヶ崎M)