TPP批判の深化のために
  多国籍企業の利益のための自由(下)
                                    堀込 純一


  <一括受諾の原則とWTO規定の優位性>

 WTOの自由貿易の特徴は、貿易対象がサービス貿易や知的所有権などに拡大したことだけでなく、「一括受諾の原則」や「各国国内法に対するWTO規定の優位性の原則」に著しく現われている。

選択的自由の消失
 「一括受諾の原則」には、WTOの画一主義がみられるとともに、弱い立場の者が選択できるというGATT時代の部分的自由がなくなっている。
たとえば、GATTの東京ラウンド(1973〜79年)では、合意された諸協定の受諾は締約国の自由に委ねられた。そのため、締約国は受諾可能な協定のみを受け入れるという自由を得た。
このような「選択的自由」については、公正か否かは一概には断定できない。ケースバイケースである。たとえば、受諾できる能力があるにもかかわらず、損得計算でわざと受諾しないのは明らかに「競争条件」の不平等であり、不公平である。しかし、受諾能力がないのにもかかわらず、同じスタートラインにたたされるような競争もまた不公平である。したがって、この場合はスタートラインに差異をもうけるのは当然のことである。
だが、新たなWTOは、こうした諸条件の違いを無視し、すべてを「一括受諾の原則」に従わせたのである。すなわち、WTO協定(世界貿易機関を設立するマラケシュ協定)の第2条の2は、「附属書1、附属書2及び附属書3に含まれている協定及び関係文書(以下「多角的貿易協定」という)は、この協定の不可分の一部を成し、すべての加盟国を拘束する。」としている。
これは画一主義であり、正しい意味での選択的自由の余地を排除するものである。
現実に、南側の諸国のほとんどは何を始めるのにも資金が不足し、明らかに同じスタートラインでの競争が不利でも、全体的総合的に判断し、事業資金獲得のためにあえてWTOに加盟するのがしばしばである。つまり、「先進国」は南側諸国の弱みに付け込んで、資金や技術などさまざまな「誘蛾灯」をもって、画一主義のWTOに勧誘するのである。こうした現状こそ、変革すべきである。

アメリカ・スタンダードへの画一化
このような画一主義は、「各国国内法に対するWTO規定の優位性の原則」ではさらに一層理不尽なものとなる。
従来のGATT体制の下では、モノの貿易に関する諸規定については、国内法と合致する最大限において実施する、とされてきた。すなわち、国内法とGATT諸規定が矛盾する場合には、国内法が優先するということであった。
しかし、WTO体制の下では、「加盟国は、自国の法令及び行政上の手続を附属書の協定に定める義務に適合したものとすることを確保する。」(WTO協定の第16条の4)というように、国内法を優先させることはできない。それだけでなく、WTO諸協定に反する国内法は、後述するように、矛盾のないよう修正しなければならないのである。
このような画一主義は、具体的には@各国の基準をWTOの国際基準にあわせること、A貿易の障害となる国内法規制や政策の改変、B貿易自由化に資する国内法の新設―にグループ分けできるであろう。
たしかに、@の国際基準への整合化(ハーモナイゼーション)は、工業製品についてはすでに東京ラウンドから行なわれてきている。
そして、「この国際整合化によって、現在、各国の食品安全基準に上限が設けられています。例えば日本ではDDTの残留する食品は一切禁止されてきました。しかしWTOのSPS協定(衛生植物検疫に関する協定)が、コーデックス食品規格委員会(国連食糧農業機関およびWTOの合同食品規格委員会)という国連機関の定める食品基準を『最高限度』とするよう各国に要求しているため、日本政府はそれにしたがい、食品への一定量のDDT残留を容認する形に基準を緩和したのです。」(『徹底討論WTO』市民フォーラム2001編・発行)といわれる。
これまで各国は、人体に対する安全性を確保するために、添加物や農薬など食品の安全性を脅かす物質を規制してきた。しかし、その基準が国ごとに違うと、貿易上、大変不都合であるということで、WTOで統一基準の形成となり(1995年〜)、各国の基準がこのWTO基準に従わされたのである。つまり、WTO基準以上に厳しかった国の場合は、より緩和したWTO基準にまで下げなければならなくなったのである。もともと人体の安全基準として各国ごとに決められた食品安全基準が、貿易業者の利益のために劣悪化されることが国際的には合法とされたのである。まさに転倒である。
そして、もしもこのWTO基準ではなく、かつての国内基準を維持し続けた場合には、WTOに提訴される可能性も生じるのである。提訴されて国内基準を維持する「科学的根拠」が証明されない場合、その国はその国内基準を変えるか、提訴国に損害賠償するか、あるいは制裁を受けるかのいずれかの道を選ばなくてはならなくなる。
この場合は、食品基準であるが、新自由主義が進行すればするほど、「環境」や「労働」など他の分野にも広がり、「自由貿易」の名の下に、「低位平準化」という画一主義が横行し、まことに不自由な事態が世界的に拡大することとなるのである。
Aの場合は、国内基準だけでなく、国内法や自治体条例もまた、WTOの定めるルールに従って、撤廃あるいは修正されることを意味する。
たとえば、かつてのアメリカやドイツなど後発資本主義国が、経済発展の初期には外国投資に厳しい制約をかけていたのが、WTO体制の下では「投資の自由化」ということで、外国からの投資にさまざまな制約や条件を課すことは、「自由化に逆行する」ものとして、撤廃されるべきとされている。現実にWTO体制下で許容されている二国間投資協定の多くや、北米自由貿易協定などでは、外国投資に対する多くの規制が禁止されている。(外国からの投資にかける規制には、受入国の労働者を一定割合で雇用すること、部品調達の一部を国内で行なうように義務付けること、生産物の一部を輸出に振り向けるように義務付けること、もうけの全てを海外に送金することを禁止することなどがある)
これらは米欧日などの多国籍企業の活発な活動を制約する国内規制を撤廃あるいは修正させて、多国籍企業の利潤拡大を狙うものである。
Bは、主には工業化を目指す南側諸国に影響を与えるもので、新たな国内法の整備するようWTOが義務付けているものである。新たな国内法とは、たとえば独占禁止法の新設などのように「競争政策」を整備することや、「知的財産権」を保護するルールの整備などである。これらは、私的所有をさらに発展させ、資本の自由な活動を法的に保障するように、南側の諸国や「社会主義」から転換した諸国に求めているのである。
TTP論議では、日本への影響が強いものとして、農業、郵便事業の簡易保険、医療・社会保障などがあげられている。WTO体制下では、モノやサービスの貿易にとどまらず、「投資の自由化」が強められているのは前述したが、これに付加され政府調達協定というものがある。WTOへの加盟に当たって一括受諾の対象とはならなかったものとして「複数国間協定」があるが(日本も含め70カ国ぐらいが参加した)、政府調達協定もその一つである。この協定に参加した加盟国は、関連の国内法を改正し、外国企業も一定規模以上の政府調達に入札できるようにしなければならない。この政府調達には、政府業務で使用する物品の購入とか、公共事業などがある。この延長上に、「小さな政府」を狙って各国の社会保障や公営事業をアメリカン・スタンダードに変えようという政策的狙いがあっても少しも不思議はないのである。

  <農業の特殊性無視した自由化

かつてのガットの多角的貿易交渉において、農業分野は、各国の農業生産の諸条件の違いから、交渉の舞台に押し上げることさえ困難であった。あまりにも生産諸条件が違うために、関税なしに取引することなどできなかったのである。
 それが、新自由主義の攻勢が強まったウルグアイ・ラウンドで、農産物も工業製品並みに自由化の対象になった。このことは、WTOの農業協定でも明らかである。たしかにその前文では、「食糧安全保障、環境保護の必要その他の非貿易的関心事項に配慮しつつ」とか、「開発途上国に対する特別のかつ異なる待遇が交渉の不可欠な要素であるという合意に配慮しつつ」とか、「後発開発途上国及び食糧純輸入国開発途上国に及ぼし得る悪影響に考慮を払いつつ」とかいって、農業自由化を進めるとしている。しかし、それはあくまでも「考慮すべき」レベルでしかなく、農業貿易の改革目標は、「ウルグアイ・ラウンドの中間検討会合において合意した長期目標が公正で市場指向型の農業貿易体制を確立する」ことに変わりはない。眼目は、市場経済の徹底化である。
 しかし、ウルグアイ・ラウンドまでは、何故に農業分野では交渉ができなかったのか、何故WTOのドーハ・開発・アジェンダ交渉が、インドを始めとする南側諸国とアメリカなど「先進国」との間の対立でデッドロックに乗り上げているのか―それらの理由を深く検討すべきである。
 そもそも農業と工業とでは、原理的違いがあり、同じ土俵の上で競争すべきものでないことは明らかである。
両者の究極的かつ原理的違いは、生産する上での労働の違いにある。工業生産の場合は、過去の労働である労働対象と労働手段をもって、労働者(生きた労働)が工業製品を生産する。しかし、農業の場合、農民あるいは農業労働者が行なう労働は、二次的あるいは補助的なものであり、農業生産物に結果する活動の根幹は、種子や動物などの生命活動にある。したがって、農産物は、種子や動物などの生命活動に人間労働が付加される形で、できあがるのである。
農産物の豊凶は、まず第一に自然の動向にあるのであり、この点は人間の力ではどうにもならないのであり、人為的な生産諸条件の改革は限界がある。これに対して、工業生産では、生物の生命活動に依存しておらず、農業生産のような意味で自然条件に制約されているわけではない。
このような原理的違いは、他の種種の違いをもたらす。たとえば、農業労働は、時間的空間的にたえず不連続であるが、これに反して工業労働では、ブルジョア的分業が進展しているかぎりでは、一般的に、同一場所で、同一の分業労働を、一定のスピードで、毎日毎日、単調にこなすのである。
また、製品完成の回数が農業生産と工業生産では比較にならないほど異なる。農業生産では、普通一般には、年に1〜2回、多くても3〜4回ぐらいであるが、工業生産の場合には、何千、何万の回数となる。これは、根本的には、自然法則に強く規制される農業生産と、ほとんど規制されない工業生産の違いに基づく。
以上から、農業に工業と同様の生産性を求めることは、そもそも不可能である。これを無視して、両者を同等に論じ、工業的農法を強化すれば、農業基盤である自然を破壊することは必然である。農業基盤の破壊は、世界的な飢餓を促進するだけである。
また、自然的条件の違いが農業生産に大きな影響を与えていることも、常識である。一例をあげると、降水量の多いアジア・モンスーン地帯では、コメ生産に向いている。この地帯は世界の農地面積の14%であるのにもかかわらず、世界人口の54%をも養っているのである。一粒の小麦が45倍に増えるのに対して、一粒のコメは125倍も増えるからである。だが、逆に日本産の小麦は、この自然条件によって、乾燥地帯で作る豪州産や米国産の小麦に比べて、品質的に劣るといわれる。
また、輸出競争は、生産コストを抑えると称して、どうしても大量生産に走る。これは日本のように零細農が多く、経営面積が小さい所では決定的に不利である。これに対して、アメリカの耕地面積は平均で約200100ヘクタール、オーストラリアに至っては、300ヘクタールである。日本は現状で平均1.9ヘクタールの経営規模であり、これを野田政権は20〜30ヘクタールにして、対抗するという。だが、それが仮に実現したとしても平等な競争条件とはとても言えない。

日本の自給率向上は国際責務
また、TPPなどに参加することによって、さらに一層日本の自給率を低下させ、日本農業を荒廃させることは、国際貢献に逆行するものでもある。「先進国」で自給率が40%前後などというのは、日本ぐらいのものである。それは工業製品の加工貿易に余りにも偏重し、そこで得たカネで世界の食糧を買いまくるというのは、世界の飢餓地帯を一層苦しめることである。今や、日本の農業自給率を発展させることは、日本人民のセーフティーネットを形成するだけでなく、日々の食糧にも事欠く海外の人民への国際貢献でもある。
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貿易とは元来、お互い同士の過不足を補い合うべきものである。それが、相手の経済事情を考慮することもなく、輸出を押し付けるなどということは、まさに輸出のための輸出である。それは、とても友好的な貿易関係とはいえない。(了)