TPP批判の深化のために
  強者の「自由」が質的に進化(上)
                            堀込 純一


TPP(環太平洋経済連携協定)への交渉参加が、野田政権によってなし崩し的に進められるにつれ、マスコミなどにより、その賛否も含め大いに論議が盛り上げられている。
 この論議ではしばしば、新自由主義勢力が推進するWTO(世界貿易機関)体制や、その下でのTPP拡大交渉などを、アプリオリに「自由貿易の発展」として捉えられ、決め付けられている。だが、果たして本当にそうなのであろうか。この「自由貿易の発展」なるものの実態を検討して、この「自由」が誰のための、何のための「自由」であるかを追及する。

<種々の意味をもつ自由概念の多義性>

「自由」という言葉を辞書でひも解いてみると、『明解国語辞典』(金田一京助監修 岩波書店)では、「@思い・(心)のまま、A束縛を受けない・こと(行為)。Bじゃまされることのない活動。Cわがまま。D〔法〕法律の範囲内で随意の行動をとりうること。E自分の意志を決定するに、他の束縛を受けないこと」―となっている。これだけでも、「自由」という言葉がいかに多義的であるかがわかる。もう少し大雑把に分類されていないかと、『広辞苑』(新村出編 岩波書店)をみると、「a心のままであること。思う通り。(古くは、ほしいままの意に用いた。) b(freedom;liberty)他からの拘束・束縛・強制・支配を受けないこと。『物体の自由落下』というように自然現象にも適用されるが、人間の場合には、行動の自由、選択の自由、必然性の認識にもとづいて自身および自然を支配する積極的な自由、意志の自由、倫理的自由などのように、人間をとりまく諸条件を統御することをも意味する。」とされている。
 自由の概念において、肯定的な意味と否定的な意味に分類するとすれば、bは肯定的な意味であるが、aの意味の中では、「こころのまま」というのは、中立的なものであろうが、『広辞苑』ではあまり追及していないが、「古くは、ほしいままの意」の系譜は否定的なものであろう。すなわち、それははっきりいって「わがまま」ということで、周りに迷惑がかかっても自分の思うとおりにするという意味である。日本の前近代では、自由という言葉は否定的な意味でしか使用されなかったからである。
 このように「自由」の概念を類型化することができるとするならば、WTOの自由貿易は果たしてどの意味をもつのであろうか。WTO体制下の「自由貿易地域」を意味するTPPのいう「自由貿易」論の「自由」は、一体いかなる自由なのであろうか。以下、GATTとの比較を通して検討してみることとする。

<GATT体制下の自由貿易>

 第二次世界大戦後の一九四八年に発足したGATT(ガット 関税および貿易に関する一般協定)は、一九九三年にウルグアイ・ラウンド(多角的貿易)交渉が妥結した結果、WTO(世界貿易機関)に生まれ変わった。
 この組織転換によって、世界の貿易関係はどのような影響を受けたのであろうか。
そのまえにまず、GATT体制の基本的特徴をみてみる。第二次世界大戦のさ中、すでに米英は戦後秩序を構想し、その後アメリカはソ連圏に対抗しつつ、荒廃する世界経済を再建する中心的役割を担う。その際、第二次世界大戦を引き起した主要な経済的要因として、戦前の世界経済のブロック化、為替切り下げ競争、関税引上げ競争などによる国際貿易の縮小を教訓とした。
したがって、世界経済の再建には国際貿易の発展による経済の活性化が不可欠として、IMF(国債通貨基金)による為替安定化と為替制限の撤廃、IBRD(国際復興開発銀行。世界銀行のこと)による経済復興のための資金供与、そして、ITO(国際貿易機構)による自由貿易体制の確立を図った。
GATTの一般協定は、このITO構想のもとに検討されていた「国際貿易憲章」(一九四八年三月に採択され、ハバナ憲章となる)が発効するまでの暫定的な協定であった。ところがハバナ憲章は、現実とのギャップが大きく、アメリカを始めとしてほとんどの国で批准されなかった。このため、ITOの代わりにGATTが戦後世界の自由貿易体制を推進することとなった。
そこでの新たな貿易秩序は、以下の原則によって支えられている。
第一は、多国間あるいは多角的な調整の原則である。戦前に行なわれた二国間交渉は、どうしても強者の論理が支配し、列強間の戦争に至ったのを教訓として、国連に加わっている諸国が、妥協を重ねつつ、互に関税を引き下げ、世界経済の拡大を図っていく、というものである。したがって、多国間の調整を行なわなければならないので、手間隙がかかるというのは、前提なのである。
第二は、無差別の原則である。これには、最恵国待遇と内国民待遇がある。
前者の最恵国待遇とは、ある国に与えられる最も有利な待遇が第三国にも自動的に与えられる原則であり、特定の国に対する差別待遇を禁止することである(第1条)。
後者の内国民待遇とは、産業資本主義段階のイギリスがとった貿易原則であり、自国のヒト・企業・モノに与える自由を他国のヒト・企業・モノにも与えるというもので、差別をしないという原則である(第3条)。この内国民待遇の原則によると、たとえば、日本においては、アメリカもドイツも日本のルールにしたがい、アメリカにおいては、日本もドイツもアメリカのルールに従うというものである。したがって、この原則に沿う限り、各国の制度や文化や習慣や法律が異なっていようとも、なんらの貿易上の障害にはならない。
第三は、GATTには明確な規定はないが、相互主義(互恵主義)の原則である。これは、関税の相互的な引き下げによって、自由化の促進や、関税を例外的に引き上げる場合には代償措置を義務づけることによって、保護的な政策を牽制することを狙っている(代償措置がとられなければ、外国は対抗措置をとる)。
第四は、狭い意味での「自由貿易の原則」である。自由貿易の原理は、第一〜三の原則などとともに、狭い意味の「自由貿易の原則」すなわち、@輸入自由化の貫徹、あるいは数量制限の禁止、A関税の引き下げによって、貿易秩序が図られる。

 数多く例外規定で現実的な運営
しかし、アメリカのとびぬけた経済的軍事的力を背景に、しかもソ連圏と対抗しつつ展開された歴史的経緯によると、GATTの運営は現実主義的になされたし、なされねばならなかった。つまり、GATTのいくつもの原則にもかかわらず、少なからずの例外規定を持たざるを得なかったのである。(GATT一般協定では、もともと第12条「国際収支の擁護のための制限」や、人の生命健康・動植物保護や各国文化の保護などを規定した第20条「一般的例外」や、第21条「安全保障のための例外」などが明文規定されている。)
その第一は、無差別原則にかかわる例外である。最恵国待遇の例外としては、英連邦特恵、米比特恵など植民地主義時代からの特恵制度を認め、また、第24条では、関税同盟や自由貿易地域の形成を認めている。ただし条件として、「……締結の前にそれらの構成地域に存在していた該当の関税その他の通商規則よりそれぞれ高度なものであるか又は制限的なものであってはならない」(第24条)としている。
内国民待遇の例外としては、国内生産者のみに対する補助金の交付や、政府調達のさいの国産品優先が許されている。
第二に、概して、農産物については例外が多い。第11条で、「数量制限の一般的廃止」を明記しているが、他方、食糧その他の不可欠の産品輸出禁止や制限、国内で保護措置がとられている一次産品の輸入制限を例外として認めている。この結果、多くの国で「残存輸入制限」の形で数量制限を行なってきている。
また、第25条(ウェーバー条項)では、「その決定が、投票の三分の二の多数により承認されること及びその多数には半数をこえる締約国を含むことを条件とする」ことによって、締約国に課せられている義務の免除を求めることができる。五五年にアメリカがこの条項を利用して農産物の輸入制限を行なって以来、各国がこれに倣い、農産物貿易は事実上ガット原則から除外されてきた。
第三に、特筆すべき例外として、対等・平等を無差別に行なってきたガットが、第三世界諸国の厳しい批判に直面して、これを変更したことである。ガットの無差別主義は一見すると平等主義にみえるが、現実の格差の存在からすると第三世界諸国への配慮を欠いたもので、実際は不平等主義である。そのため一九六四年末の国連総会で国連貿易開発会議(UNCTAD)の設立が決定され、第三世界の向上に献身することとなった。ガットもまた、一九六五年に協定の第四部として三か条からなるガット新章(第四部 貿易及び開発―第36条 原則及び目的、第37条 約束 第38条 共同行動)を追加して、第三世界の経済開発の促進、生活水準の向上の必要などを認め、第三世界諸国の輸出所得を確保するため“先進締約国は後進締約国に対し互恵主義を期待しない”と約束した。
第四は、一九七〇〜八〇年代には、米欧などの保護主義がつよまり、とりわけ日米間の貿易摩擦が激化し、ガットの無差別原則に反する「輸出自主規制」が横行する。六〇年代の繊維から以降、鉄鋼、カラーテレビ、自動車などへ次々と拡大した。

さまざまな例外規定は、大国のご都合主義として実施されたものもあれば、弱い者の立場から理のある公正な要求に部分的に応えたものもある。
しかし、かつてのアメリカ、ドイツ、日本など後発資本主義国が、自国の工業化のために関税政策を利用したのと同じように、今日の「発展途上国」や新興国が関税政策を利用したとしても、何ら不公正なことではない。それをもって保護主義だ!といって、非難することは誤りである。現に、GATT一般協定も、関税そのものを禁止したり否定したりているわけではない。

<新自由主義の台頭で国際貿易体制も転換>

一九七〇〜八〇年代初頭にかけた二度にわたる石油ショックは、世界資本主義を大きく動揺させ、長期の同時不況をもたらした。とくに南米では金融危機に巻き込まれたり、デフォルトに陥ったりする国々が一九八〇年代に続出した。影響は帝国主義国にも及び、長期同時不況をもたらした。
これらは世界の貿易体制にも新たな矛盾を噴出させた。それは大雑把に言うと、次の三点にまとめることができる。第一は、帝国主義同士の貿易摩擦の激化であり、米欧などにおける保護主義の台頭である。第二は、先進国での産業構造の変化(製造業の比重の低下と金融・保険・不動産を始めとするサービス産業の比重の高まり)と金融部門を先頭とするグローバリゼーションにより、国境を越えたサービス産業が各国の国内規制と衝突するようになる。第三は、景気後退の下で世界の農産物市場は縮小するが、ECやアメリカでは国内補助金に支えられて農産物は過剰となり、その処置に輸出補助金付での農産物輸出競争が激烈となり、また財政負担を重くするなど深刻な問題となった。
これら諸問題を解決するものとして、GATTのウルグアイラウンド交渉が、一九八六年九月から開始される。同交渉は何回も延長され、ようやく一九九四年に妥結される。
この過程で、貿易赤字のつづくアメリカは、自己に有利な金融、国際輸送、農産物などの自由化を強力に推進する。同じころ、IMFは南米諸国の再建のための融資で課した条件に、@為替の変動相場制への移行、A公営企業の民営化、B公務員の削減、C補助金の削減などをあげている。IMFは新自由主義の尖兵であった。
WTO体制は、GATT体制とは大きく変わった。GATTが国際組織としての法人格をもたなかったのに対して、WTOは法人格をもった国際組織として設立された。最高の意思決定機関は、少なくとも二年に1回開催される全加盟国の閣僚会議であり、その下に、全加盟国代表からなる一般理事会・紛争解決機関・貿易政策検討機関が置かれた。
また、GATTでは何回も行なわれた多角的貿易交渉の対象は、もっぱら商品貿易に限られていたが、WTOではこの対象範囲が拡大した。それは、従来の商品貿易のみならず、サービス貿易(国際輸送、観光、金融、小売り、さらには弁護士・会計士業などの活動)や知的所有権の貿易的側面にも拡大した。そして、実質的にGATT時代には交渉が極めて困難であった繊維衣服部門や農業部門にも拡大された。
また、貿易紛争に関わる解決機能がシステム的に強化された(詳しくは、理論誌9号掲載の拙稿を参照)。
変化はこれだけではなく、「一括受諾の原則」や「各国国内法に対するWTO規定の優位性の原則」が設けられ、WTO体制を枠組付けた。これらは、弱い立場の国々にとっては、GATT時代よりは自由が減り、むしろ不自由が拡大し、自立的主体としての存在を弱めるものである。まさにここにおける自由は、政治的経済的に強い者のみが享受できる「自由」への変質が強まっているのである。
                              (つづく)