中途半端に終始する菅政権の復興基本方針
   住民自治発展を復興の原動力に
 
 政府の復興対策本部は七月二九日、東日本大震災の復興基本方針をようやく正式決定した。だがその内容は、復興推進主体についても、復興事業の中身についても、さらには財源についても、全て中途半端になっている。それは、支配階級内部の路線対立が深刻化していること、そのことが復興の足取りを重くしていることの端的な現われなのだ。以下、その基調についての簡単な批判を提起をしたい。

@ 復興の推進主体

 復興の中心的推進主体について、基本方針は、「復興を担う行政主体は住民に最も身近で、地域の特性を理解している市町村が基本」だとする。これは、地方行政を主役とする視点であり、二つの点から誤っている。
 一つは、市町村行政が住民から遊離していることである。それは市町村行政が、いぜんとして国家の末端機構であり、基本的に上を向いており、住民の側に立っていないからである。分権・自治の時代と言われても、これが市町村の多くの現実である。しかも、役場組織の被災だけでなく、昨今の市町村合併とそれに伴うリストラもあって、ますます現場を包摂できなくなっているからである。
二つは、住民自治の発展を復興の原動力をするという視点を欠いていることである。復興を切実に求めているのは、住民自身である。その切実さこそが、復興の原動力となるものである。住民の中にこそ、復興への知恵がある。その知恵こそが、復興の構想となるものである。だが基本方針は、住民自身によるその組織化を否定し、それを腐らせてしまいかねないものとなっている。
国家がやる復興事業において、被災地住民を包摂するポーズをできるだけ組み込むというのが、「市町村が基本」のココロなのだ。この中途半端な政治は、中央に対しては被災地住民の代表者の顔をしながら、そのじつ投機的な大資本の現地農漁業への参入に道を開こうとする村井宮城県知事の大声を許容しているものでもあり、現に被災漁業者に対する圧迫をもたらしている。
 
A 復興施策の中身

 東日本大震災・原発事故からの復興のポイントは、『人』に基軸が据えられねばならない。『産業』に基軸が据えられた戦後の復興などとは異なるところである。
その理由は、既に日本では、産業が成熟段階に到達し、市場が飽和し、物的豊かさの実現から人間(人と人、人と自然の関係性)の豊かさの実現へと人々(社会)の欲求の基軸が移行していること。東北の復興においてますます投機的とならざるを得ない企業の参入を軸とすれば、より少ない労働力しか必要とされず、自然が収奪し尽され、東京への人口流出を加速し、高齢化、過疎化、集落の消滅が確実に進行することにある。住民自治による・人間(関係性)の豊かさを実現するコミュニティーとそのネットワークを創造していくことで、人口移動の逆転の時代を切り開いていくことが問われているのである。
だが基本方針の復興施策は、『産業』が基軸で、『人』の課題が付加されるものになっている。
「東北全体を新たな食料供給基地として再生する」と。東京のための食料基地だ。また「法人が漁協に劣後しないで漁業権を取得できる特区制度を創設する」と。地域社会が丸ごと、そしてそこに住む一人ひとりも、特定の企業に縛り付けられ、付属物となり、東京に隷属する存在となる。崩壊前の福島原発の周辺地域社会と同じである。
東京への隷属、特定産業への隷属、企業への隷属を打破して、地産地消の経済構造を実現して初めて、人間の関係性の豊かさも実現することができるのだ。人々(特に若者)を惹きつける地域社会への道が開けるのだ。だが基本方針の産業政策にその方向は無い。そこで基本方針は、「外国人の受け入れ」で労働力人口の減少をカバーし、「政府開発援助(ODA)を活用して・・・被災地産品の海外販路拡大を図る」という、国際的隷属構造の活用・拡大に活路を求めることになる。
もっとも、『人』を基軸とした復興を目指す傾向の存在は、刻印されてはいる。「『地域包括ケア』の体制」「自然共生社会」「社会的包摂の実現と『新しい公共』の推進」などである。しかしそれらは、生活領域に限定され、しかも既存の産業(企業)の在り方に手を触れるものとはなっていない。付加的であり、その意味で中途半端なのだ。

B 財源問題

 事業規模は、集中復興期間の5年間で、国・地方合わせて少なくとも19兆円程度。今後10年間の規模は少なくとも23兆円、とした。これは福島原発災害の復興費を除いた試算である。
だが、原発崩壊による放射能被害が拡大している。基本方針は、放射能被害対策を福島県に限定しているきらいがあるが、稲わらの汚染が宮城・岩手に及んでいることが明らかになった。農・漁民をはじめ人々が固唾を呑んで被害の拡大を注視している状況にある。数字は、膨らまずにいないだろう。
 だが、復興財源が確定しない。原因は、大金持ちが、手持ちの過剰貨幣資本を少しでも多く投機マネーとしての運用にまわすために、増税を拒否し減税を要求してさえいるからに他ならない。かれらは、そのしわ寄せを大衆課税に求めるが、民衆は失業と貧困の淵に沈み出している。階級支配秩序を維持する見地から、民衆の政治的包摂にも苦慮しなければならない時代だ。復興財源の確定が中途半端になった所以である。
 復興財源、とくに復興国債の償還財源として、おもに消費税の税率アップを当てるとすることには民主党内の抵抗も強く、基本方針にそれを明記できなかった。(復興国債は、長期にわたって償還しないものとし、カネあまりの資本に買わせなければならない)。
 復興財源を明確にできないだけでなく、この基本方針じたいも閣議決定とすることができなかった。退陣の時期だけが話題となっている菅政権では、何事も中途半端となり、復興方針をはじめ中長期の政府方針を確定することができなくなっている。これは、国の復興支援の遅れという点では不幸な事態である。しかしブルジョア政府の無策・動揺は、新自由主義的「復興」路線に反対しつつ、住民自治・地方再生の復興路線を大きくしていく国民的闘いにとっては、有利な条件である。
 「3・11」以前の新自由主義的な施策や原発依存を反省し、新しい政治を求める声は、階級的立場を超えて大きくなっている。この支配層の分岐もふまえつつ、菅政権を早期に退陣させ、広範な政治的たたかいによって、現実を動かしていくことが問われている。