すべての原発を停止し廃炉に
原発は危険を承知で、核兵器製造のために建設・稼働されている
                         遠山 健次郎

(一) 脱原発に向け、菅政権は直ちに行動せよ!


 7月13日夕刻、菅首相は官邸で記者会見し、「将来は原発がなくてもやっていける社会を実現する」と述べ、長期的には原発のない社会を目指す考えを表明した。
 我が党は、菅政権が直ちに脱原発の政策を実施し、脱原発を推し進めるために、その後の政権を拘束する閣議決定等、必要な手立てを講じるよう要求する。
 以下に述べるように原発は、核兵器を製造・開発し、核武装を進めるための装置として建設・稼働されてきた。全ての原発の停止・廃炉にむけ、菅政権が直ちに行動するよう求める。

(二) 核軍拡のための53年「平和のための原子力」米提案


 1953年12月アメリカのアイゼンハワー大統領は、国連総会演説で「平和のための原子力」を提案した。この提案を契機に世界各地で原子力発電所が建設され、稼働することになった。しかしこの提案は、アメリカの核の優位を確立し、核兵器の製造・質的・量的拡大をはかる目的で発言されていることを見逃してはならない。
 1938年暮のウラン核分裂発見を契機に、アメリカ各地の大学や研究所では、核分裂に関連する研究が一斉に開始された。
 1939年秋、第二次世界大戦開始。原子爆弾の研究が、ドイツで行われているという情報がもたらさせる。危機感を背景にアメリカでは、原子爆弾の研究が始まり、1942年9月、本格的な国家軍事プロジェクト「マンハッタン計画」が遂行された。「マンハッタン計画」は極秘の計画で、会議にも全く計画の内容を知らせないまま、巨額の予算をつぎこみ、資源等を最優先で割り合てて実行された。ワシントン州ハンフォードに原子炉、テネシー州オークリッジにウラン濃縮施設、原子爆弾の設計組み立てにニューメキシコ州ロスアラモス研究所を建設し、核兵器の製造にあたった。この計画は、主にニューメキシコ州で行われたが、初期研究の多くが、ニューヨークに本拠を置くアメリカ陸軍工兵隊のマンハッタン工兵地区で行われたので、この名がある。
 1945年7月6日、アメリカは、プルトニウムを原料とする最初の原子爆弾を完成させ、砂漠の地アラモゴードで人類初の核実験を実施した。そして同年8月6日、高濃縮ウランを用いた原子爆弾リトルボーイを広島に投下した。次いで8月9日、プルトニウムを用いた原子爆弾ファットマンが長崎に投下された。
「マンハッタン計画」の司令官レスリーグローブズ中将らは、戦争が終局に近づくと強い圧力をかけ、原子爆弾投下の準備を急がせている。それは、ウラン型原子爆弾が爆発するのは百パーセント確実だが、プルトニウム型は、7月の実験では成功したものの、不発弾になる可能性が高かった。兵器としてより殺傷力のあるプルトニウム型を成功させ、その殺傷力の違いを知っておきたかったというのが、アメリカ政府や軍事産業のねらいだった。さらに原子爆弾未使用のまま戦争が終結した場合には、「マンハッタン計画」が厳しい調査にさらされ、責任を追及されることが懸念されていた。そして外交的には、ソ連軍が、対日戦に参加して南下する前に戦争を終結させ、ソ連の占領地域がアジアにも拡大して、ヨーロッパのみならず、アジアにソ連圏がおよぶことを恐れてのことだった。
 かくしてアメリカは、世界のどの国よりも早く核兵器を開発・所持して、実際に使用した。
 戦後トルーマン政権は、核を巡る機密を保持することによって、核の独占体制維持を画策する。つまり核開発の体制は、アメリカによる核の独占で始まっている。しかし、東西冷戦の深刻化とともに、ソ連の核開発が進み、1949年には、核実験を開始している。それは、広島・長崎に原子爆弾が投下されてから、4年後のことだった。そして、52年、アメリカが水爆実験を実施すると、翌年にはソ連も水爆実験を実施した。アメリカによる核の独占体制が崩壊した。
 こうした情勢を背景に1953年、アイゼンハワー大統領は、国連の演説で「アトムズ・フォー・ピース=平和のための原子力」政策を提案した。しかしそれは、1953年8月、ソ連が水爆実験に成功した事を受け、ソ連の核開発を牽制するために行われた。国連での演説によってアメリカは、ソ連の核開発を浮き立たせ、ソ連を守勢に追い込むことに、一時的であったにせよ成功した。原子力の平和利用は、平和とは名ばかりで、アメリカの核の優位を確保するために掲げられた。
 そればかりではない。前に述べたようにアメリカは、当初自国だけで核兵器を保持し、補充して、核兵器の開発を続けてきた。そして、大量の核兵器を保持している。しかし、核兵器の開発を続けるには、莫大な資金を必要とした。資金不足からプラントの操業を一度停止すれば、再開は容易ではない。そこでアメリカは、低濃縮ウランを安く提供し、原発を売り込むことによって資金を獲得し、技術を発展させてプラントの維持・自国の核兵器政策を安定させようと画策した。原子力発電所の建設と維持は、核兵器を製造・開発して、質的・量的に拡大し、戦争政策遂行・覇権を維持するための手段であった。
 ともあれ「平和のための原子力」政策によって、発電用原子炉の技術が民間に払い下げられ、民間電気メーカーが原発を建造・電力会社が原発を所有する道が開かれた。戦後、カーナビ等軍事技術や宇宙技術が民生用に転用されることが多々ある。原発は、その代表的例であり、軍事技術を払い下げて利潤を得、兵器の開発を行うシステムが作り上げられている。原子力の平和利用は名ばかりであり、原子力発電所は戦争と直結していたのである。
 さらに原子力発電の危険性は、稼働させることによって、核兵器の材料を生産することができるという事実であった。ウラン238が中性子を吸収するとウラン239に変化する。そしてウラン239は、二度のベータ崩壊線を出して、プルトニウム239が原子炉内で生まれる。そのプルトニウムを使用できれば、核兵器を所持することが可能になる。つまり、原子力発電所は核兵器の開発を可能にする施設だということが出来る。だからこそ核兵器を、アメリカが独占し、列強以外が核武装することを阻止するために、「平和のための原子力」を国連で提案してわずか4年後の1957年、国連専門機関として国際原子力機関(IAEA)が設置されている。アメリカなどが原発の開発を援助する一方で、IAEAは、核の軍事転用をチェックし阻止する機関として、活動した。これは、原発が核兵器製造の手段であることを物語っている。
 1987年、西ドイツで財界ぐるみのスキャンダルが発覚した。核廃棄物から取り出したウランやプルトニウムを原発に使用せず、核兵器の材料として取引していたという事件だった。ウランやプルトニウムは、密かにパキスタンやリビア等に運び込まれ、核開発のために使われていた。原発は、けして平和産業ではなく、核兵器開発に結び付いている事を象徴する出来事だった。

(三) 核武装を目標に原子力を進めてきた日本政府

 日本原燃は、1993年4月、青森県に六ケ所再処理工場の建設を開始し、2005年操業開始を目差した。また、1991年には組み立て完了、1994年臨界に達した「もんじゅ」が建造されている。「もんじゅ」は国産技術で基礎研究から積み上げ、開発された、日本初の発電用高速増殖炉と言われている。
 しかし、これらの施設は重大な問題を抱えている。
 再処理工場は、原子炉内の最も危険な廃棄物を取り出し、プルトニウムとウランを抽出して新しい燃料に作り直すために、周辺住民自身が被爆する可能性が高い。さらに高濃度廃棄物の爆発を防ぐためガラス固化する際、高熱によって蒸発した「死の灰」が煙突から排出される危険性が指摘されている。固化した物質をつめるステンレス容器キャニスターに穴があき、廃棄物がもれ出すこともあるという。再処理工場は、これらの課題を解決することなしに建造されている。
 高速増殖炉は、プルトニウムの量を増やした炉の中にウラン238を入れ、高純度のプルトニウムを大量に生産する装置として建設された。しかし、プルトニウムは、ごくわずかが、一か所に集まるだけで臨界反応を起こし、原爆にかわってしまう。また、冷却材にナトリウムを使用するため、ナトリウムが漏れ出して火災を起こしたり、水と接触して大事故を起こしたりする可能性が指摘されている。
 大惨事が予想されているにも関わらず、再処理工場や高速増殖炉が建設されている。しかもそれらは、たび重なる故障や事故によってほとんど稼働してはいない。
 六ケ所再処理工場や高速増殖炉「もんじゅ」は、プルトニウムとウランを取り出し、高純度のプルトニウムを大量に生産する意図のもとに建造され、危険をおかしても稼働しようと目論まれている。
 1954年3月1日、ビキニ水爆実験でマグロ漁船第五福竜丸が被災した翌日、原子炉建造費に2億3500万円を充てるとの修正案が提出された。この予算提出の首謀者は、中曽根康弘だった。日本の「原子力平和利用」は、読売新聞の社主で衆議院議員の正力松太郎が着手し、道筋を付けた。それを引き継いだ中曽根は、1953年アメリカからセミナーに招かれ、原子力に関する情報を収集して帰国した。彼は、防衛庁長官時代の1970年当時、非公式に防衛庁技官らに核武装について研究させている。また、「原子力平和利用」を通じて、核の自由選択権を残すねらいを持っていたとも言われている。
 さらに2010年10月、佐藤栄作内閣が核保有の可能性を検討していたことが、報道で明らかになった。NHKによれば、1969年外務省高官が西ドイツ外務省の関係者を箱根に招き、核保有の可能性を探る会合を行っている。また、佐藤内閣は、専門家の意見を集めた上で、内閣情報調査室に核兵器製造能力について、極秘に報告書を作成していた。
 1979年、ソ連によるアフガニスタン侵攻が起こると、「核武装し、抑止力を持つべき」との主張が行われている。
 そして2002年、安倍晋三官房長官は「日本も小型であれば原子爆弾を保有することに問題はない」と発言をした。批判に対して彼は、「核保有は最小限小型で戦術的なものであれば、必ずしも憲法上禁じられていないとする政府見解を紹介した」と反論した。
 このように政府は、長年に渡って核武装を願い準備を進めてきている。菅政府は、「武器輸出三原則見直し」を見送ったものの、「武器の国際共同開発をめぐる大きな変化に対応する方策を検討する」として戦争への道を突き進んでいる。
 高速増殖炉や再処理工場、そして原子力発電所はそのために建造され、強引に稼働されている。核兵器製造のために、住民の生命の安全を無視して高純度のプルトニウム(軍用プルトニウム)生産を優先させているのだ。
 「改憲手続法」に基づき憲法審査会の始動・改憲策動が進められ、総務省が政令を強引に施行した。そして、参院憲法審査会の委員数と議事運営案が本会議で議決され、改憲の動きが強まっている。憲法九条改悪・核武装実現をねらった動きが、経団連の発言を追い風に強まっている。核武装を許さなかったのは、民衆の闘いと憲法九条、そしてアメリカがそれを許さなかったことが理由だった。

(四)六ケ所再処理工場にうごめく死の商人

 日本では、最初の原子炉を購入するにあたり、イギリス製の黒鉛炉が、発電しながら軍事用のプルトニウムが生産できると評価して購入している。原発は、明らかに核武装を前提に導入された。
 日本はその後、三菱重工・日立・東芝などがアメリカとの連携を進めたため、アメリカの二大原発メーカー。ウェスチングハウス(WH)とゼネラル・エレクトリック(GE)との連携を強めた。WHは海軍と契約して兵器用の軽水炉・加圧水型原子炉(PWR)を開発、GEは、源潜用原子炉の開発にも加わり、沸騰水型原子炉(BWR)を選択した。世界市場では、(PWR)が優位に立ち、日本では、関西電力・北海道・四国・九州の各電力会社がこれを選択している。東京電力や東北・北陸・中部・中国の電力会社は(BWR)を選び、日本は世界第三位の原発大国になった。
 軍事技術の転用である原発は、軍事産業が主力になっている。日本でも、かつて零戦を生産し、現在はF15イーグル、FSX等戦闘機などを製造している三菱重工を筆頭に、軍事産業が係わっている。高速増殖炉「もんじゅ」や六ケ所再処理工場立ち上げに関わった幹事会社も三菱重工業だった。三菱重工は、自衛隊の海外派遣を実現するために背後で政治家をあやつっている。この事実からも原発が核兵器製造のために導入されたことは明らかである。
 しかも前述の、抽出したウランやプルトニウムを核兵器開発のために密かに横流しした西ドイツスキャンダル事件に関わった外国企業が六ケ所再処理工場建設に直結していたという事実がある。このことからも原発が死の商人によって扱われ、核兵器開発のために建設・稼働していることが証明されている。
 「平和のための原子力」はまやかしであり、原発は戦争のために危険を承知で建設されている。我々は、この事実を許さない。すべての原発を停止し廃炉にするため、ともに闘おう。(了)