社会崩壊の一側面(最終回)
    進行する今日の家族の崩壊


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今日の家族の淵源は、採集・狩猟時代の血縁共同体にある。それは、他の多くの動物種と同様の、縄張りの防衛、採集・狩猟、子孫の生産などのための共同体であった。この血縁共同体は、社会の構成部分ではなく、社会そのものであった。全体としての血縁共同体とその部分としての家族の境界は、萌芽的で緩やかだったにちがいない。
 なお、「血縁」ということで言えば、人類全体が、一人の母から生まれて増殖したのであるから、濃淡はあるにしろ「血縁」関係にあると言える。ここでは、「血縁共同体」をそうした生物学的意味においてではなく、社会システムの歴史的一形態として述べている。
 農業・牧畜時代になると、剰余生産物とその蓄積が可能となり、その私的領有への欲望が増大する。血縁共同体を指導する農業・牧畜の組織者が剰余生産物を占有するようになり、同時に、財産(農地・家畜や剰余生産物)の略奪を目的とする戦争が拡大する。こうした内部矛盾と対外戦争の拡大に対処する必要に促され、複数の血縁共同体(氏族)が連合し、国家・身分社会へと自己止揚してゆく。それに伴って、血縁的近親という意味での家族が、財産の私的領有主体として大きな意味を持つようになる。家族の中での財産の世代的継承を確かなものとするために、家族の直系男子による支配が確立されてゆく。
 この時代の家族は、国家の土地所有と身分制的支配の下で、農業・牧畜と子孫の生産にたずさわる小共同体として出発した。家族は、日本や西欧のように地主的土地所有が発達したところでは、「地縁」的関係を強めている。
 ブルジョア社会(工業時代)になると、農業・牧畜と子孫の生産のための小共同体である家族は、資本蓄積(機械制大工業の発展)のための労働力再生産システムへと急速かつ大規模に再編成されていくことになる。それは、農村から都市への人口の大移動であり、家族においては、生産・教育機能の剥奪、単なる生活単位への移行、核家族化を意味した。
 労働力再生産システムとしての家族は、夫の労働力を維持するための家事と新たな労働力を育てる育児とを役割とし、その役割を妻(=母)に専門的に分担させる仕組みを基本形態とするものだった。この労働力再生産システムとしての家族が、今日、崩壊しだしているのである。

  A

今日、家族の崩壊を社会問題化させている要因の一つは、ブルジョア社会の家族に組み込まれている夫の妻に対する経済的支配(性別役割分業)と親の子どもに対する経済的支配が、家族を構成する各人において高まる自由で豊かな関係性の実現欲求と両立せず、家族関係の形成・維持にとって桎梏に転化したことにある。
 物質的豊かさの実現(=社会的地位の上昇)が支配的欲求であった産業発展期の社会においては、資本蓄積(産業発展)のために、家族が労働力再生産の役割を果たすことが、社会の目的と個人の欲求の内に位置づけられていた。高次の欲求の萌芽も、その下に封じ込められてきたのだった。
しかし今日、人間(社会的諸関係および対象的自然との関係)の自由で豊かな発展への欲求が主要な欲求へと浮上し、夫の妻に対する支配・親の子に対する支配を突き崩しはじめている。その原動力は、家事・育児領域への緊縛からの解放を求める女性たちと、将来社会を先取りする子どもたちである。それは、家族が相互に欲求を尊重し調整するという点でも、欲求の実現に必要な時間的・経済的ゆとりという点でも、家族関係を維持する上で必要な水準を高くしている。
この高次の欲求は、新たな家族を形成する上でも、関係性の高い水準を問う。ブルジョア社会の家族に組み込まれている支配隷属関係は、家族を形成する際の桎梏となり、家族を形成することへの慎重な態度を広げる。そうした慎重な態度は、とりわけ女性の側において顕著に現れずにはいない。
人間(関係性)の自由で豊かな発展の欲求は、支配・隷属関係が組み込まれた家族においては、往々にしてブルジョア的に変形された形態(権利主張)をもって現れる。それは、家族相互の欲求の尊重と調整の破綻の結果か、その破綻の契機となるものである。それというのも、「権利」を保障するのは詰まるところ国家であり、「権利」をめぐる対立は、国家が裁定するものだからである。国家が介入しなければならない事態は、関係の破綻を意味する。親による幼児虐待への警察の介入は、その典型例である。
今日、家族の崩壊を社会問題化させているもう一つの要因は、相対的な過剰人口の増大と絶対的過剰人口の形成である。すなわち、家族を構成する経済的基盤を確立することが困難ないし不可能な人口部分が、不可逆的に増大しだしたことにある。
 資本主義が失業・半失業人口の存在をその存立条件としており、それ自身の内にそうした人口部分を生み出すメカニズムを有していたのであるから、失業や貧困は、ブルジョア社会において日常に属することであった。そうした失業・半失業人口は、産業発展(工業化)時代には、恐慌・不況の到来とともに周期的に増大したが、好況期の到来や新産業の勃興によって吸収された。それとともに、失業や貧困によって生じる社会問題は、繰り返し政治的に後景化した。
 しかし今や、資本主義が拠って立つ社会の土台が変化し、過剰人口が不可逆的に増大する時代に突入した。資本主義は、自己にとって絶対的に過剰な人口部分さえも形成する時代になった。
 すなわち、産業が成熟し、地球環境限界にも逢着したことによって、貨幣資本が過剰化しだした。この過剰貨幣資本は、人間(関係性)の自由で豊かな発展を創造する新たな社会活動領域には本質的に適合しないため、結局は投機マネーへと転化していく以外ない。資本は、労働者を雇用し人々に生存を保障することができなくなったのである。失業・半失業人口が不可逆的に膨張しだしたことの社会的影響は深刻である。ますます多くの人々が、家族を形成する経済的基盤を持てなくなっていくことは、その一つである。
 その結果、単身者の比率が増大する。子づくりをひかえる。家族の相互関係(夫の妻に対する・親の子に対する支配という旧来の家族秩序)に余裕がなくなり、対立が深刻化する。DVや幼児虐待が増える。母子世帯、父子世帯が増大する。

   B

高次の欲求の増大は、産業革命に伴う人口爆発を終わらせる。
 産業革命は、食料をはじめとした生活物資の生産の飛躍的増大とその価格の低廉化、医療の発達や衛生環境の向上による乳幼児死亡率の大幅な減少などにより、人口の爆発的増大をもたらした。この人口爆発は、すでに「先進国」では終了し、産業革命(工業化)の周辺化と共に地球規模で周辺化過程に入っている。人類的には、まだ人口増大過程にあるが、早晩それも終焉することが予想されている。
 その基底的要因は、人々の欲求の高次化である。
 人々の主要な欲求は、産業が成熟し、物質的豊かさが実現され、それらが地球環境を崩壊させかねないレベルにさえも到達する中で、「モノ」の豊さの実現から「人間」の豊かさの実現へと移行した。「人間」の豊かさの実現とは、社会的諸関係および対象的自然との関係の総体の豊かさの実現である。
この欲求移行は、子孫育成の領域において、端的に現れることになる。家族内の性別役割分業による子育てから、分業を固定しない協働関係の中での子育てへの欲求移行。子どもに立身出世=高収入を期待・要求する子育てから、子どもが自己の関係性を豊かに発展させることを促す子育てへの欲求移行。国家と資本が要求する子育て数から、関係性の豊かな発展に適した子育て数への欲求移行である。こうした子育ては、子どもを大切に育てる時代、親の豊かな発展の一環としての子育ての時代を開く。またこうした子育ては、対象的自然との関係で人類の数を適度のレベルに保つ時代をもたらす。それらは、社会の役割、社会の在り方の転換をも必然的に問う。
しかし、現実の「先進国」社会では、家族の崩壊が人口定常化への軟着陸を妨げ、過度の人口減少を引き起こしている。
 国家は、人口減少が国力の衰退をもたらすとの見地から危機感を募らせている。家族の崩壊を促進している失業・半失業人口と貧困層の増大に対しては、資本に雇用増・正規雇用化や賃金引き上げをお願いする、子ども手当てを支給するなどの対策をとる。家族の崩壊を促進している性別役割分業に対しては、資本に労働時間の短縮や男性への育児休業保障、女性差別的労働諸条件廃止をお願いするなどの対策をとる。国家が財政難に落ち込むなかで、ほとんど資本頼みの対策になっているが、資本の方は、家族を崩壊させる要因を強める方向にしか自己の延命がないという状況にある。
 「先進国」は、人口減少問題の打開策として、「外国人」労働者を自国社会の底辺に組み敷く形で導入する。だがそれは、国内の排外主義を助長し、政治的不安定を招き、それ自体が限界に突き当たる。
資本主義の下で、この問題の根本的解決はない。資本主義の下で、産業成熟諸国・地域が拡大するにしたがって、過度の人口減少という問題は、人類的課題への浮上してゆくことになるだろう。

  〔付論〕 今日の社会の崩壊と人間

 かつての社会の崩壊は、戦争や生活物資の欠乏などによって生じた。その際には、人間は、自己の物質的存在が危機に陥ったのであり、そうした状態からの脱出のために闘った。そこにおける社会関係の変革は、物質的生産力を発展させる方向でなされた。
しかし今日の社会の崩壊は、それとは異なったものである。すなわちそれは、主として、物質的豊かさの実現を背景にして高まる人間(関係性)の自由で豊かな発展の欲求が、支配と隷属、貧困と失業によって特徴付けられる既存の体制を揺るがすことによって生じてきているのである。あるいは逆に、そうした高次の欲求が、既存の体制に押し潰されることによって生じてきているのである。後者の場合は、物質的生活の破綻ではなく、関係性の崩壊による精神の危機として現出する。それは、今日うつ病などの精神疾患が増大している背景の一つであるだろう。
今日の社会の崩壊に対して、どう闘うか。それは、人間(関係性)の豊かな発展への欲求に依拠して社会(関係)の再建を推進すること、あわせて、高次の欲求を押し潰している既存の体制の廃絶を目指して政治運動を発展させることである。それらは、一人ひとりにとって、豊かな関係性を実現する闘いとなるのである。〔了〕