社会崩壊の一側面 その8

 教育(学校)システムの崩壊
                           深山和彦

@) 教育・学習は、人間社会の存立にとって、極めて重要な要素としてある。 
 人類以外の多くの生物種は、対象的自然との間の物質代謝のための主体的条件を、その身体的形態として、生まれながらに保持している。「学習」の成果は、基本的にその身体的形態として蓄積される。たしかにある種の高等動物は、親や集団からの「教育」を必要とするし、それを世代的に継承する。ただそこでの教育も、身体的特徴の活用というレベルを大きく超えるものではない。
 これに対して人類の場合は、対象的自然との間の物質代謝を、基本的に労働手段をもってする。対象的自然の変化に適応するのに身体の形態変化をもってするのではなく、労働手段の形態変化をもってする。人類は、環境の変化や欲求の発展に対応して、この労働手段(およびをそれを活用するための技術やシステム)を代々発展させてきた。このため人間は、自己にとって外在的に発展するこの領域について教育・学習しなければならず、そのことを自己の生存のための不可欠な条件としてきたのである。
とはいっても採集・狩猟時代の人類の物質代謝活動においては、他の生物種と同様、人間・労働手段・労働対象(本質的には対象的自然)の三要素の内、対象的自然の地位が支配的であり、労働手段と人間の地位は従属的であった。
農・牧業が広がり、私有財産制度と階級が生まれ、国家が形成される時代になると、人間の物質代謝活動において労働手段が支配的意味を持つようになる。この時代になると教育・学習活動は、狭い意味での物質代謝活動の領域を大きく超え、国家の運営や宗教活動など分業の発達にともない多様化しつつ、独自に発展するようになる。文字の発明がこれを支えた。
農・牧業の時代には教育・学習が独自に制度化されるようになるが、それは基本的に支配階級(身分)の世界においてであった。そこでは、宗教組織が大きな役割を果たした。民衆の教育・学習は依然、家族や地域共同体の日常的な生産・生活の中で行われていた。
資本主義に牽引された機械制大工業の発展時代になって、労働手段の支配的地位は確固たるものとなる。労働手段(資本)が、人間と対象的自然の上に君臨する。この時代の教育・学習制度は、年少世代を対象とした国民皆教育の学校制度によって特徴付けられる。
 ブルジョア革命は、それまでの伝統的社会を、資本主義が牽引する工業発展の時代に適合するように再編成した。学校制度は、その一環を構成するものであり、家庭と並ぶ労働力再生産システムの柱となった。
 すなわち学校は、家族や地域(主として農民・農村社会)からその子どもたちを引き離し、工場労働に必要な知識と規律を身につけさせ、資本に提供するシステムの役割を果たした。また、国民国家の構成員としての自覚(愛国心)を民衆に植えつける役割を果たした。同時に学校は、国家および資本が必要とするエリート官僚を選抜する役割を果たした。学校制度は、機械制大工業の発展期において、その機能を遺憾なく果たしたのだった。
 しかし今日、ブルジョア社会の教育が根底から崩壊し出しているのである。
A) 今日進行する教育の崩壊は、根底的である。
第一に、ブルジョア社会の目的(それは教育の目的でもある)が、人々の欲求と乖離し対立するようになってしまったことである。
ある社会における教育は、その目的が人々の欲求と基本的に一致する場合にのみ、大多数の人々に受け入れられ、社会的に意味ある役割を果たす。ブルジョア社会の教育目的の本質をなす「富国強兵・殖産興業」「経済成長」は、労働者民衆が物質的豊かさの実現を求めていた時代には、社会的統合力を有していた。だからその時代の教育は、労働者民衆の力を引き出し、社会(人々)の目的(欲求)の実現に寄与したのである。
しかし、今日の人々の欲求の重心は、産業の成熟、地球環境限界への逢着という到達地平の上に立って、物質的豊かさの実現から人間(関係性)の豊かさの実現へと移行してきている。この高次の欲求は、支配・隷属、競争、格差、環境破壊などの対立的諸関係を土台のところから変革することを目指すものである。それは、精神労働と筋肉労働をはじめとした分業の各分節への人間の隷属や剰余労働の搾取を廃止し、相互扶助社会の実現を目指すものである。この増大する欲求は、国家の強化(覇権の拡張)と資本の拡大再生産に奉仕するというブルジョア社会の教育の目的を根底から否定するものである。
ブルジョア社会の目的は、人々の欲求のこの変化・高次の欲求の増大によって、社会的統合力を喪失してしまっている。それは、歴史的役割を終え、時代遅れになったのだ。しかしブルジョア階級は、人々の高次の欲求を社会の中心的目的へと高め、教育の在り方の中に貫くことができない。今日の教育崩壊の最大の根拠はここにある。
第二に、ブルジョア社会の価値観(それは教育内容に組み込まれる価値観でもある)が人々の欲求と乖離し対立するようになってしまったことである。
社会が成り立つためには、生起する諸問題が、社会的に了解されている価値観に基づいて処理されることも必要である。それには、価値観の体系が社会的に定まっていることが不可欠である。価値観の体系が混迷した社会においては、教育も混迷せずにはいない。
ブルジョア社会の価値観教育は、「権利」を尊重する態度、および、「権利」主張の「行き過ぎ」を戒める態度、この二側面からなる態度を培う教育だと言える。ブルジョア社会では、「権利」がブルジョアの地位と財産を保障する大義名分であり、「権利」が労働者民衆の生存とささやかな自由を確保する防波堤である。「権利」は人々が、自己の利益をその侵害から守る際、あるいは自己の利益を拡張する際、闘いに正当性を与える旗印である。「権利」をめぐる闘争と妥協を介して、ブルジョア社会の秩序が再生産されてきた。
ブルジョア社会の権利の体系は、分業体系の各分節への人々の固定に基盤を置き、その固定を安定化させる上部構造として機能してきた。人を分業に固定する際、農業・牧畜社会は、身分制度という経済外的強制に拠ったが、ブルジョア社会は、労働手段の私的所有(私有財産権)をテコとした経済的強制に依拠する。
もちろん、資本主義と市場経済が支配的かつ前進的な役割を果たしていた時代においても、社会的対立の全てを「権利」の見地から裁ける訳ではなかった。宗教的価値観(道徳)が、これを補完していた。
このような権利体系は、資本主義が産業発展を牽引していた限りで、激化した社会的諸矛盾を社会の内に包摂する際の価値基準として機能してきた。しかし、産業が成熟し、資本主義の下では社会が成り立たない時代となり、人々の関係性の崩壊が進行するとともに、「権利」は社会を成り立たせる価値基準から社会の崩壊を促進する価値基準へと転化しだしているのである。
ブルジョア社会の価値観のかかる危機において、出番と「期待」される宗教も、かえって社会を混迷させる要因となってしまっている。そうした中で、分業への隷属からの解放欲求とそれをを土台とする人間(関係性)の自由で豊かな発展への欲求が、私有財産権を要とする権利体系に代わる相互扶助の価値観を生み出そうとしているのである。
世の中の価値観は、歴史的な大混迷期に入っている。それが、既存の教育を混迷させているのである。
第三に、ブルジョア階級が就業を保障できなくなったことである。
教育は、社会的貢献の道(就業)が開かれていて初めて能動的に受容される。だが人々の就業は、ますます困難になっていく。現代は、資本の中位の増殖欲求に比して相対的に過剰な人口が増大するだけでなく、資本の増殖欲求にとって絶対的に過剰な人口さえも形成され膨張していく時代である。こうした中では、ますます多くの人々が、学習意欲を喪失させられていく。学習意欲を喪失した人々を前にしては、教育はただ佇む以外ない。
B) 教育崩壊の集中的現われが、学校(学級)崩壊である。
 原因の第一は、産業の成熟と物質的豊かさを前提とする社会環境の中で生まれた子ども世代の登場である。この世代の欲求(目標)は、当然、産業の発展・物的豊かさの実現ではない。この世代においては、人間(関係性)の豊かさの実現欲求が強まっている。また産業成熟時代の資本主義の態様である投機マネー資本主義の影響によって、極端な自己中心主義に陥る傾向もある。このような子ども世代が、国家や資本への服従態度を植えつけるための学校システムと相容れず、適応障害を起すのは必然である。
 原因の第二は、工場労働に必要な最低限の知識を身につけさせるための国民皆教育部分が、エリート(管理者・研究者)選抜教育システムの内に吸収・再編・統合され、この選抜システムが肥大化され、しかもそのシステムが強制的なものとして在るということである。これは、大部分の子どもたちに、とりわけ絶対的ないし相対的な過剰人口部分に組み込まれる子どもたちに、過大な時間的空費と精神的屈辱をもたらし、彼ら・彼女らの社会的自立を阻害するものとなってしまっている。このこともまた、子どもたちにとって、学校を耐え難いものにしているのである。
原因の第三は、こうした学校生活がますます長期間になっていることである。人は人生の最初の段階で、生産諸活動等の実生活から遊離した教育・学習に長期間拘束されることによって、これからの時代に求められる自己(社会的諸関係および対象的自然との関係)の豊かさを創造していく思想的構えと協働労働能力の獲得を妨げられてしまうのである。こうした中では、学校が隔離された世界だということにも助長されて、いじめが横行する。
 ブルジョア社会の学校制度の特徴として、以上に加えて触れておくべきは、その対象が年少・青年世代に限定されていること、中高年世代に対する教育・学習保障を欠いていることである。そのため年少・青年世代に、学習への過大な社会的重圧がかかる。他方、中・高年世代は、教育・学習の条件から疎外され、自己(関係性)の自由で豊かな発展の道を閉ざされている。それどころかブルジョア社会では、産業・社会構造が変動するや、縮小される職域から新たな職域へと移動する際に大きな困難に突き当たり、失業=死の淵に転落することになるのである。
 総じてブルジョア社会の教育・学習システムの柱である学校制度は、機能麻痺と崩壊の過程を辿っているのだ。
最近は、「生きる力」をつけさせる教育、「地域に開かれた学校」が模索されている。しかし、そのような模索は、学校が国家(および資本)の統制下にある限り、スローガン倒れとならざるをえない。また肝心の地域社会や家族が、人と人、人と自然の豊かな関係を育むどころか、関係の崩壊に陥っているのでは、学校は、地域社会や家族と教育責任を分かち合うことができないし、「生きる力」をつけさせる教育力をそれらから汲み取ることもできない。
最近は、「生涯教育」システム作りも模索されるようになってきた。中高年層の間での高次の欲求の高まりが、その背景にあるだろう。とはいえそのような模索は、利潤を目的とする社会から人間(関係性)の豊かさの実現を目的にする社会への社会の在り方の大転換の一環として構想されない限り、多くの場合、社会に貢献する実践活動にリンクしたシステムとはなりえず、体裁を取り繕うレベルのものに止まることになる。
C)これからの社会の教育は、労働手段(資本)のための教育から人間(関係性の豊かさの実現)のための教育へと変わらねばならない。
まずは教育・学習の内容の転換である。これまでの教育・学習の内容は、国家と資本(産業)のために人間を使い捨てる社会の仕組みに適合させられてきた。人は、若年時代の教育課程で特定の分業部分(=社会階層)に振り分けられ、特定の分業部分と運命をともにする人生を強制されてきたのである。だがこれからの教育・学習の内容は、人間の自由で豊かな発展を目的としたそれへと転換されねばならない。
それは、基礎的なコミュニケーション能力の形成に始まり、物質的生産や生活の体験と結合した教育・学習を重視し、社会的に自立した後も、特定の分業に緊縛されないで自由に自己(関係性)を発展させる教育・学習をその分野への就労を含めて保障することである。労働時間の大幅な短縮が不可欠である。これは、若年期における教育・学習の過重な負担を大幅に軽減し、また高齢期の社会参加・生きがい就労を容易にする。
だが教育・学習の内容的転換は、社会的諸活動の空間的配置の大きな転換を必要とする。
社会の空間的配置の中心には、金融や産業ではなく、人々の居住と教育・学習を含む生活的相互扶助を据える。そして人々の居住地域の近隣周辺に、漁・農・牧・林業、工業、資源・エネルギーなどの多様な産業を配置し、情報・通信・交通ネットワークを整備し、人間(関係性)の自由で豊かな発展を実現できる在り方へと再編成する。こうした社会は、その目的に相応しい規模の地域社会となり、社会生活の全てにわたって、全面的にではないが基本的に「地産地消」を行ない、その基盤の上に広域の相互扶助関係を発達させるものとなるだろう。
このような新たな社会とその基軸を為す教育・学習システムは、本質的に、東京一極集中やアメリカ一極集中としてある既存のシステムとは両立し得ないものである。