問われる復興構想
        ―東北と日本をどうするのか?

住民自治・地方再生の復興を


 東日本大震災(東北関東大震災)と福島原発災害の発生から二ヶ月がたった。菅民主党政権は四月十四日、政府の「復興構想会議」を立ち上げ、また五月二日には、当面の復旧事業費用としての今年度第一次補正予算案(4兆円余)が与野党一致で成立した。原発事故がいぜん収束しない一方、政官財主導の復興策が動き出した。国家主導で住民自治を無視した「復興」、その費用をブルジョア支配層が負担せず、大衆増税で負担させる「復興」を許すわけにはいかない。労働者人民の地域社会再生の闘いを対置せよ。(編集部)

@ はじめに

3月11日の東日本大地震と巨大津波、そして福島原発崩壊は、人々の意識や社会の在り方を一変させるであろう計り知れぬ惨禍をもたらした。それに原発の方は、いまや放射能排出ポンプと化し、いまだ被害を日々拡大させている状況にある。
巨大地震から二ヶ月が経った被災地では、救助・捜索から避難生活の改善・仮設住宅の建設へと重心が移っている。福島原発周辺をのぞいた被災地では、がれきの撤去とライフラインの再建が本格化し、地域住民の自治組織による復興への闘いも始まっている。こうした中で政府は、「震災復興構想会議」を立ち上げ、各種復興法案を準備し、被災住民の自発的再建を規制し始めるなど、国家主導の復興へ動き出した。否応なく、復興の構想と在り方が問われる局面に入ることとなった。
 福島の場合は、放射能災害の拡大と強制立ち退きが進行中であり、まだ復興どころではない状況にある。復興問題においても、東電と国の責任問題が大きな比重を占めずにはいない。そのことについての言及を留保しつつ、復興構想を語る際に必要と思われる視点を以下述べることにする。

A 住民自治の主導で

 政府は、復興をあくまで「国家主導」でやろうとしている。復興に際し「被災地の要望を尊重」(菅首相)するというが、その場合の主体は国家なのである。これは、東北の復興を台無しにするやり方である。
 現に政府から出てくる復興構想は、東北を「食料供給基地」と位置づけ、小規模農地や小規模漁港の集約をやろうというもの。つまり、東京のための食料供給基地として、一層の純化を強制し、この事業に大資本が参入できるようにするというのである。
 この構想は、福島原発(東電資本)の奴隷として生きる以外の道を断たれた原発周辺社会のありようを手本にするようなものである。漁業、農業、製造業など各々が、ヨコの結びつきを断たれ、東京と直結してのみ生きてゆける構造に純化される。しかも、より少ない労働力で事足りるようになる。被災地域では、大震災、巨大津波、原発崩壊による人口減少に止まらず、復興によっても失業者が排出され過疎化が促進されるのだ。これが、「未来志向の復興」(菅首相)が創りだす未来に他ならない。
 このような悲惨な未来の到来を拒否し、住民にとって希望の持てる未来を切り開くには、住民が地域社会の運命に主要な責任を負う復興の在り方、住民自治主導の復興が不可欠である。国家や地方行政は、これを支援する立場に身を置くべきだ。
 とはいえそうした関係を一定程度なりとも創りだすには、民衆の闘争が不可欠である。既に、岩手・宮城では被災地に建築制限をかけ、福島原発周辺には立ち入り禁止区域を設けるなど、国家の強権発動が露になってきている。被災地民衆の利益との対立の拡大・激化は不可避だ。
 ここで大切なのは、民衆の側の自治的団結である。それを形成し発展させうるか否かに、国家主導を後退させ、民衆的復興の道を切り開く展望がかかっている。そして、自治的団結を要に、国家主導の復興構想に対抗できる民衆的復興構想をまとめ上げ、地方自治体が自由に使える地方交付金、漁協など民衆の自主的復興推進諸組織への資金供給などを勝ち取ることである。

B 復興の鍵は「人」

 人がいなければ復興はない。だが東北では大震災前から、過疎・高齢化が、シャッター街化がかなり進行していた。大震災・巨大津波・原発崩壊で、被災地の人口減少が急進せずにいない。その意味では、復旧路線では復旧もできないという所からの建て直しになる。被災地出身の若者が故郷の復興へとユーターンする動きも起きている。ボランティアが、被災地近辺に移住する動きも生じている。こうした流れを組み込める、住民自治主導の地域社会づくりが問われている。
 まずは仕事づくりである。仕事のないところに、人はとどまらない。若い人は尚更である。仮設住宅の建設、がれきの片付け、ライフラインの整備、漁港や農地や工場の復旧、生産の再開など復興の入り口において、被災者が復興事業に参加できるようにすべきだろう。
人間にとって仕事は、社会への貢献であり、生きがいに他ならない。被災地域住民が、何はともあれ復興の仕事に就くことによって、経済的意味を超えた前向きの流れが創りだされる。地域の絆を再構築する目的で、高齢者も参加できる仕組みを含めて、組織されることが求められる。それは、避難所で課題となっている心のケアにとっても、必要な環境に違いない。
またこの復興事業では、全国の失業者(特に若者)が参加しやすい仕組みを創るべきだろう。そのことは、被災地の未来を開く見地からだけでなく、この国の社会を建て直す見地からも、必要なことである。
 とはいえ、ただ単に仕事があればよいというものではない。前記したように、地域に特定の産業しかなければ、その産業に隷属した人生を強いられる。それは、企業城下町に端的だ。産業が成熟し、人間(関係性)の豊かさの実現が目的となるこの時代において、いまだ産業(特定企業)のために生きる生き方、社会の在り方は、魅力を持たなくなった。地域に多様な仕事があり、人がさまざまな仕事に従事する能力を年齢に関わらず身につけ、人と人の、人と自然の豊かな関係を実現することのできる地域社会が構想されねばならない。
 特定の産業(企業)に隷属させられてきた生き方、地域社会の在り方を変えるには、土地と労働手段の私有の枷を取り払うことが必要である。共同所有の諸形態の発展が、協同組合やNPOなどの発展が期待される。三陸海岸の漁協が、被災を免れた僅かな漁船を共有化・交代使用する仕方で、復興への道を切り開こうとしている。これは、国有化ないし株式会社化して漁港・漁業の集約(「整理解雇」)で再建する資本主義的やり方とは異なり、漁業者の連帯を強め、難局を自治的に打開してゆく動きである。このような連帯と自治があれば、漁業を交代で休業せざるを得ない仲間のために多様な仕事を開拓する道も切り開くことができるに違いない。
こうした社会を創るには、育児、教育、医療・看護、介護など人々の相互扶助生活を中心に据え、その周辺近隣に、地産地消型を志す建設・土木、漁業、農業、牧畜、林業、製造業、物流、電力などの諸産業を興し、住民自治の土台となるできるだけ自立的な経済構造を創ること。そして、情報・通信・交通ネットワークは、これまでの中央集権・一極集中的な在り方から文字どうりのネットワーク型への転換を図り、地域社会間のヨコの相互扶助関係を発展させていくことである。
また、地域における学習・訓練センターが極めて重要になる。
 東北復興のもう一つの大きな課題は、災害に強い地域社会づくりである。
 地球表面の薄皮でしかない温和な生命圏の構成要素である人間社会が、地殻運動や核エネルギーという生命圏外的破壊力に直撃された。そして産業(資本)の発展のために人間(関係性)を犠牲にする旧来の社会をそのままに、産業力でこの生命圏外的破壊力に対抗しようとすることの限界が露になった。社会の在り方が問われているのだ。
津波対策の高台居住一つとっても、土地私有の枷を越えねばならず、産業(資本)優先でない・人間優先の社会を実現してはじめて永続的に維持することができる。南三陸町では住民たちの間で、地域の絆をまもり高台居住の町づくりを実現するために、高台の土地を無償提供する動きが広がっているという。そもそも災害に対する最大の武器は、人々の連帯である。人間(関係性)の豊かさの実現を目的とする社会をつくることで、人々の連帯をゆるぎないものとし、災害にたいする社会の備えと対処力を飛躍的に高めることができるのである。
 また福島原発(東電)の放射能垂れ流しによる「風評被害」が、世界・国内市場に過度に依存する地域経済の災害脆弱性を明らかにした。災害に強い地域社会づくりという見地からも、地産地消型社会への転換が求められている。
原発は、生命圏・人間社会に持ち込まないことである。
 
C 東京一極集中の流れの反転へ

このような復興、住民自治に牽引された・人間(関係性)の豊かさの実現を目的とする地産地消型社会の創造は、国際投機マネーが推進する「グローバル化」とも、国家と資本が推進する中央集権化とも対立し、その流れを反転させるだろう。それは、異常に過密化し巨大化した東京から、地域社会が維持できないほどに過疎化しつつある地方への、人口の自発的移動をもたらすに違いない。東京自身も、いくつかの新しい地域社会へ、転換を迫られる。
かつて大都市、そして東京へと人口が集中したのは、産業発展=物的豊かさの実現欲求に牽引され、農村に生じた潜在的失業人口が移動してのことであった。だが産業が成熟した今日、人々の欲求は、物的豊かさの実現から人間(=社会関係および対象的自然との関係)の豊かさの実現へと移行してきている。若者においては特に顕著である。その若者が国際的金融・消費都市の中で仕事に就けず、社会的貢献の方途を模索し苦悩している。その対極に、過疎化・高齢化・疲弊しながらも巨大都市を支える役割を負わされつづける地方がある。それは、「先進国」が既に足を踏み入れ、「新興国」が目前にしている世界史的現実である。
東北の復興は、この現実と立ち向かわなければ、実現できない。しかし、この現実と立ち向かわなければならなくなっているのは、被災地だけではない。それは既に、日本を含む「先進国」社会が直面している課題なのである。
日本では09年秋、国際投機マネーと多国籍企業の利益に奉仕する新自由主義改革路線への社会的批判が、「国民の生活が第一」「コンクリートから人へ」を唱える民主党政権を誕生させた。だがこの政権は、民衆の力を背景に持たないために、超大国アメリカ・官僚・財界の圧力の前に一年ももたずに屈し、「人」を軽々しく放擲してしまった。そうして誕生したのが菅政権だった。
しかしかような菅政権といえども、死者・行方不明者が3万人に迫る大災害を前にしては、「人」を放擲しつづけることは難しい。政府の震災復興構想においては、超大国アメリカ・官僚・財界のための復興路線がまたぞろ幅を利かせてこようが、住民自治が主導する「人」のための復興路線を一定包摂せざるを得まい。
まだあまり表立ってないが、国際投機マネーや多国籍企業の利益に奉仕する勢力は、復興を新自由主義的改革(たとえばTPP推進)の口実として利用し、東京などの大都市を国際的な金融・消費都市へと純化しようとする。つまり地方はいらないという態度であり、したがって東北の復興をできるだけネグレクトしようとするだろう。
産業資本・ゼネコンは、「エコ」「福祉」の修飾語を冠した再開発路線を掲げ、それなりに復興を推し進めようとするだろう。しかし産業が成熟してしまった地平では、再開発は慢性的過剰生産の一定の緩和をもたらすに過ぎない。それも結局は、国家の復興財源が尽きるまでのものである。
こうした状況を考えると、被災地における住民自治の発展、人間(関係性)の豊かさの実現を目的とする地産地消型社会の創造は、不可能ではない。奥羽の歴史・土地柄もそれに適している。東北は輝くだろう。
われわれは、投機マネーや多国籍企業の復興ネグレクト、産業資本やゼネコンの税金食い逃げを許さず、住民自治主導の社会復興を支持していかねばならない。そして、復興に参加する全国的仕組みを創りだすことである。民衆の歴史的な運動が求められている。(M)