現代世界資本主義の考察(中)

 利潤求めて際限ない自由競争
                         
                                   安田 兼定


(2)GATT体制からWTO体制への転換

 グローバリゼーションの主な推進力の第二は、自由貿易体制の質的転換である。すなわち、GATT体制からWTO体制への転換である。
 GATT(ガット 関税および貿易に関する一般協定)は、一九四八年に発足した。しかし、GATTは、国際連合やOECD(経済協力開発機構)のような正式な機関ではない。金融面のIMF(国際通貨基金)や世界銀行に対して、貿易面の組織として構想されたITO(国際貿易機関)は、提唱国であるアメリカで批准されず、西ヨーロッパでも参加拒否されたため、発足できなかった。しかし、国際貿易上の何らかのルールは必要なため、暫定的なものとしてGATTが作られた。
ガットの多角的貿易交渉(ラウンド交渉)は、発足以来、何回も行なわれてきたが、ケネディ・ラウンド(一九六四〜六七年)までは、関税の引下げが中心的課題であった。それが東京ラウンド(一九七三〜七九年)では、関税の大幅引下げとともに、貿易の流れに大きな影響をもたらす補助金やダンピング防止税などについてのルールを定める協定なども成立した。
さらに、次のウルグアイ・ラウンド(一九八六〜九四年)では、従来のGATT体制を塗り変えるような劇的な転換をもたらす結果となった。すなわち、交渉の結果、@従来のルールは、モノの貿易のみに適用されたが、今後は、サービス、知的所有権、特許や商標権などにも適用される、Aモノの貿易でも従来、ほとんど交渉対象とされなかった繊維や農産品も対象となった、B暫定的な組織であるGATTが正式にWTO(世界貿易機関)という新組織に生まれ変わった―のである。
このようなウルグアイ・ラウンド交渉がなされた背景には、一九七〇年代の石油ショック以降の世界経済の長期不況、あるいは帝国主義諸国などの経済構造の変化(製造業の後退と金融・不動産・保険・情報通信などのサービス業の発展)などを前提として、次のような矛盾を解決するためであった。第一は、台頭する貿易摩擦・保護主義を抑制すること、第二に、前述したサービスなどが国境を越えて供給されるに際して、各国の国内規制と衝突したこと、第三に、一九八〇年代の景気後退下で、農産物市場が縮小し、補助金に支えられたECやアメリカの農産物の輸出競争が激化したこと―などである。
 ウルグアイ・ラウンド交渉―WTO体制の発足は、貿易面でもグローバリゼーションを大きく促進したが、それには新自由主義を助長するWTO体制の次のような特徴によるものである。
すなわち、WTOへの参加は、「一括受諾の原則」に従うことであり、かつてのGATTのように、「選択的参加」が許されないということである。GATT時代は、一般協定はすべての参加国に適用されるが、それ以外の様々なラウンドで妥結された諸協定について、各国は自国の利益の観点から受諾を取捨選択できた。それが、WTO体制ではその設立協定を受諾するということは、他のさまざまな付属協定をも同時に受諾することを意味した。
この「一括受諾の原則」から必然的に導かれるのは、各国の国内規制がWTOの多角的貿易体制を規定する諸付属協定と矛盾した場合は、国内規制を修正しなければならなかったことである。
このように、自由貿易を掲げたWTO体制は、各国の事情などにはお構いなしに、「自由」を参加国に押し付けるものとなった。「自由」の名の下に、参加国に画一的で一律の「自由」を強制するものである。というのは、この「自由」なるものは、弱小国もふくめた各国の利益を平等に配慮するものではなく、いくつかの強国の間での交渉で大概形成されるからである。したがって、弱小国の観点からすれば、その「自由」なるものを押し付けられるわけで、それは実際には「不自由」そのものである。だからこそ、弱肉強食の新自由主義なのである。
イデオロギー的には、保護主義反対の旗印をかかげる「自由貿易」論は、その徹底化を進める中で、ついに限界線を踏み越えて、強国・強者が作った「自由」なるものを弱小国・弱者に押し付け、「自由」はついに「不自由」に転化してしまったのである。

(3)IT革命と多国籍企業の発展

 グローバリゼーションの主な推進力の第三は、情報・通信技術の発達などを利用して、多国籍企業の世界各地での活動が飛躍的に拡大していることである。大手資本は、先進国での利潤率が低下する情勢の下で、高利潤を求め多国籍企業として世界各地の活動を拡大するが、その際、最大限に情報・通信技術を利用しているのである。
一九九〇年代の後半、アメリカではすでにパソコンの世帯普及率が5割を超え、インターネットの普及率も3割を超え、経済成長の三分の一はIT(Information Technology 情報技術)関連の産業が担うようになっている。
 急速なIT革命はアメリカのみならず世界に広がるが、産業的にはさまざまな分野で威力を発揮する。金融業では、情報処理・通信技術の発達で、遠隔地にある証券市場などへのアクセスを容易にし、一日24時間、居ながらにして世界各地の金融市場での取引を計算に入れた営業が発達した。また、高度の事務処理能力を持つコンピュータ・システムの出現や金融工学の手法の駆使などにより、スワップ・先物・オプションなどの金融技術を使った新たな金融商品が次々と開発され、投資対象を拡大し、ますます金融取引の規模を拡大した。
 小売業でも、情報・通信技術(ICT)を最大限に利用した大規模で集権的な集荷・配送システムを基礎に、小売店ごとの顧客満足度を最大化する経営方法で、小売業の多国籍企業が世界各地に進出する。
情報・通信技術の発達は、いわゆる事務職部門をも大きく変えた。従来、この部門は合理化が困難であり、したがって、省力化も難しいといわれた。しかし、情報・通信技術の発達により、事務労働の合理化を推し進めた。発達した情報・通信技術の導入は、製造現場にも進出した。生産工程に対するコンピューター技術の導入により、一部を除き、従来技術を機械にインプットし、誰でも生産できるようにした。このため、委託生産が広範に可能となった。熟練労働の範囲は、また一段と狭まった。
情報・通信技術の発展は、多国籍企業の経営をも大きく変化させた。かつて日本企業の得意とした「よいものを安く作る」、「ムダを徹底的に省くトヨタ方式」など、主に製造現場での競争力強化策だけでは、限界を呈するようになる。代わりに、「『スピードの経営』が要求される現代では、コスト削減はある製品の開発から設計、生産、販売にいたるまでの、一連の総合的な管理のもとで実施される」(末廣昭著『進化する多国籍企業』岩波書店 2003年 P.99)ような、ビジネスのトータルな仕組みが要求されるようになる。それこそが競争力の源泉となるのであった。
 金融の自由化・グローバル化や情報・通信技術の発達を利用しながら、多国籍企業の発展は凄まじいものとなった。UNCTAD(国連貿易開発会議)の『World Investment Report』によると、外国資本の直接投資(Foreign Direct Investment)を受入国側からみた統計数字(世界の対内直接投資)は、次のような動きを示している。
 一九八〇年代前半―500億ドル台、同後半―1000億ドル台であったのが、一九九三年前後から急角度で伸張する。そして、二〇〇〇年と二〇〇七年の二回において、大きな山を形成する。
具体的にみると、九三年2240億ドル、九五年3430億ドル、九八年7090億ドルと急速に拡大し、そして第一の山である二〇〇〇年の1兆4110億ドルとなる。二〇〇〇年の第一の山は、九三年と比較すると、その6.3倍となったのである。その後、アメリカのITバブルの崩壊により、二〇〇一〜〇三年には低落するが、二〇〇三年の5580億ドルをボトムに、ふたたび急角度で伸張し、第二の山である二〇〇七年には2兆1000億ドルにまでせりあがる。第二の山は、九三年の9.4倍となる。第一の山以上の水準である。しかし、この山もアメリカ発のサブプライムローン恐慌により崩落し、二〇〇九年には1兆1140億ドルまで落ち込む。
 世界の対内直接投資は、一九八〇年代までその投資受け入れ先は、圧倒的に「先進国」に集中していたのであり、全体の80%台を占めてきた。ところが、「先進国」の経済成長率の鈍化とともに、一九九〇年代は、一時期を除いて6〜7割台へと「先進国」の受入れが減少し(最近の二〇〇八年は57.5%、二〇〇九年は50.8%とさらに減少)、その分、新興国、「後進国」への多国籍企業などの進出が顕著となってきた。その後も、新興国、「後進国」の受入れは、一時的な減少を除いて、全体の3〜4割台を占めている。中でも、製造業分野ではアジアへの投資が伸張し、同地域は製造業全体の約4割ほどを占めるまでになっている。
 そしてまた、多国籍企業の活動は、世界の生産に占めるシェアや、世界の貿易に占めるシェアも大きく伸張している。世界の生産に占める多国籍企業の海外子会社のシェアは、一九九〇年6・7%が、二〇〇〇年代には10〜11%となっている。
世界貿易に占める多国籍企業のシェアについては、UNCTADの『World Investment Report』1999は、「多国籍企業内貿易に、多国籍企業と関連するビジネスライクな貿易とを加えると世界貿易の約3分の2であり、企業内貿易だけでも、それは3分の1である」と言っている。この傾向は、二〇〇〇年代においても継続されていると思われる。世界輸出(ただし商品・非要素サービス〈注〉の計)に占める多国籍企業の海外子会社の輸出は、二〇〇〇年代においても、約三分の一である。
世界の対外直接投資は、最大時、年間2兆ドルの大規模なものとなり、多国籍企業の活動範囲の伸張はめざましいものがある。こうした資本の対外活動こそが、アメリカ帝国主義のアジア、中でも中国への関与(リンケージ)政策の土台となっているのである。

(4)旧ソ連圏諸国や中国・ベトナムなどの市場経済化

 グローバリゼーションの主な推進力の第四は、旧ソ連圏や中国・ベトナムなどの市場経済への包摂により、世界市場が供給面からも、需要面からも飛躍的に拡大したことである。
 一九九〇年現在、旧ソ連・東欧圏の人口は、四億人強である。これに中国、ベトナム、カンボジア、ラオス、モンゴルの計一二億四〇〇〇万人弱を加えると、総計一六億四〇〇〇万人弱が新たに世界市場へ包摂されたのである。
 しかし、ブルジョア的な世界市場への参加は、かつて「社会主義」を唱えた国々だけではない。何らかの形で統制経済をとってきた国々も規制緩和・民営化などにより、世界市場に参加したが、これらの国々を含めるとさらに厖大な数となる。
 水野和夫著『100年デフレ』(日経ビジネス人文庫 二〇〇九年)によると、「冷戦時代における市場経済圏は、西側先進国を中心に三九カ国だった。具体的には、OECD加盟国、アジアNIES、ASEAN、メキシコ、ブラジルなどの中南米である。これら三九カ国を合わせた人口は一五・七億人で、名目GDPで測った経済規模は、九〇年時点で一八・八兆ドルだった。/それが、一一年後の二〇〇一年になると、ロシア、中国、インドなどの国が市場経済化し、西側先進国経済と一つになった。人口は二・九三倍に増え四五・九億人に、経済規模は二九・四兆へ一・六倍に膨れ上がった。……/人類史上、経験したことのない市場経済圏の膨張が起きた」(P.215)といわれるのである。
 このような事態の下で、世界の貿易構造にも大きな変化がもたらされた。国連統計によると、世界の輸出総額は、一九八〇年2兆ドル強、八五年1・9兆ドルであったのが、八九年になると3兆ドル台に突入した。それがWTOの発足の年・一九九五年から九九年に至るまで5兆ドル台の規模となる。世界の輸出総額が対前年比マイナスとなるのは、WTO発足以来、リーマン・ショックを頂点とする世界金融恐慌までの期間でみると、アジア通貨危機・ロシア債務危機の一九九八年(マイナス3・8%)とアメリカのITバブルが崩壊した二〇〇一年(マイナス3・5%)だけである。とくに輸出拡大がめざましいのは、二〇〇三〜〇八年であり、その間、世界輸出は年間14・1〜21・9%の二ケタ拡大が進行した。世界輸入もまた、世界輸出の時代的すう勢と基本的に同じであり、年々の額がやや上回る程度である。
この結果、世界輸出総額に占める「先進国」のシェアは、一九九一年の72・9%から二〇〇八年には、56・9%にまで後退した。これはもちろん、国民国家を単位としてみた比率であり、前述したように、この背後には多国籍企業の活動が拡大している事はいうまでもない。
しかし、そのことを考慮に入れたとしても、この間の貿易拡大には、中国・インド・ブラジルなど新興国、ASEAN、東欧諸国などの工業加工製品の輸出拡大が大きな役割を果たしている。
たとえば、中国の場合、その輸出額は一九九五年1488億ドルだったのが、二〇〇八年には1兆4287億ドルと、この14年間で9・6倍となっている。同じように、インドは306億ドル→1948億ドルへと6・4倍、ブラジルは465億ドル→1979億ドルへと4・3倍、ロシア811億ドル→4676億ドルへと5・8倍、ベトナムは54億ドル→626億ドルへと11・6倍、ハンガリーは124億ドル→1075億ドルへと8・7倍、ポーランドは229億ドル→1687億ドルへと7・4倍、チェコは217億ドル→1461億ドルへと6・7倍、スロバキアは86億ドル→710億ドルへと8・3倍と拡大している。
これらの倍率は、アメリカが5847億ドル→1兆3011億ドルへと2・2倍、先進国総体でも3兆4349億ドル→8兆5596億ドルへと2・5倍のレベルであることと比較すると、いかに急激に輸出拡大を推し進めているかを示している。(つづく)
〈注〉非要素サービスとは、保険、金融、通信、旅行、運輸などをいう。