現代世界資本主義の考察(上)

金融主導のグローバル資本主義

                              安田 兼定

はじめに

 サブプライムローン問題に端を発する07〜08年の世界金融恐慌は、またたく間に実体経済に波及し、世界恐慌に発展した。ここには、冷戦終結以降とりわけ促進されたグローバリゼーションがもたらした諸矛盾の露呈と、金融主導・世界分業型資本主義の特徴が明白に示されている。
以下、本稿ではグローバリゼーションの促進を推し進めた主な要因の分析と、現代資本主義の特質を追求する。

  T グローバル化の推進要因

 グローバリゼーションとは、一般的には、情報のみならず、ヒト、モノ、資本が容易に国境を越えて活動し、各国経済の開放体制と世界経済の統合化が進む現象、といわれる。 
グローバリゼーションは、一九八〇年代から顕著となったが、その勢いは、ソ連圏の崩壊や中国・ベトナムなどの市場経済への包摂以降、さらに促進された。
グローバリゼーションの発展は、その主な推進要因をみると、@金融の自由化・グローバル化、AWTO体制の確立に見られる貿易自由化のさらなる進展、B多国籍企業の活動拡大とIT革命、それにC旧ソ連圏諸国・中国・ベトナムなどの市場経済への参加などにみることができる。

(1)金融自由化と金融グローバル化

 グローバリゼーションへの推進力は、先ず第一に挙げなければならないのは、金融自由化と金融グローバル化である。
 第二次世界大戦後の西側世界は、アメリカを中心とした政治経済軍事体制となり、国際通貨体制も、ドルの金交換性を基礎とする固定為替相場制、すなわちブレトンウッズ体制となった。
しかし、この体制は、アメリカ経済力の相対的低下とともに弱体化した。そして、一九六八年春の金二重価格制度への移行1)、一九七一年八月のドルの金交換停止などを宣言したニクソン声明、一九七三年の主要国の変動相場制への最終的な移行によって、完全に崩壊した。主要各国は、固定相場制の手直しで国際通貨問題を調整しようとしたが、大量のドル売り、欧日通貨に対する切上げ圧力など相次ぐ投機攻勢で、ついに変動相場制に追い込まれたのである。

 〈石油ショックと中南米債務危機〉

 さらに世界資本主義に追い打ちをかけたのは、一九七〇年代の二度にわたる石油危機である。第四次中東戦争での石油戦略の発動(第一次)やイラン革命(第二次)などに伴う石油価格の急騰により、世界的に猛烈なインフレが広がり、世界経済は厳しい不況に陥った。スタグフレーションである。そして、石油価格の急騰は、産油国に富が集中し、世界的に経常収支の不均衡が顕著となった。このため、世界的な資金循環を促がす「オイルマネーの還流」問題が問われた。
 OPEC(石油輸出国機構)諸国などのオイルマネーは、年間数百億ドル規模となり、余剰外貨が偏在した。しかし、オイルマネーは、外国銀行への預金だけでなく、ユーロ市場を媒介として、米欧などの金融機関を通して、債権、株式、対外借款などの形態で経常収支赤字国へと還流した。
「一九七〇年代後半から八〇年代初めにかけて、アメリカ9大銀行を筆頭とするマネーセンター・バンク、すなわち民間多国籍銀行は、非産油途上国向け融資を大幅に伸ばしました。一九七三年には1000億ドルに満たなかった民間銀行の途上国融資は、八二年には3475億ドル、三倍以上に急増した」2)といわれる。これらの途上国向け融資は、主に中南米諸国に集中した。
この結果、アメリカ大銀行の国際部門は、収益を年率10%強の伸び率で拡大し、総収益に占める割合も50%前後に達していた。それもそのはずである。「実際、途上国融資の基準となるLIBOR(ロンドン銀行間取引金利)は、七七年の6・5%から八一年には16・6%(六か月ものドル建て)へと急上昇し、上乗せされるスプレッド3)も拡大していた」4)ためである。
 だが、新たな問題が生ずる。中南米の債務危機である。一九八二年八月のメキシコのデフォルト(国家債務不履行)にはじまり、ブラジル、アルゼンチンなど中南米諸国の債務危機が連鎖する。
この債務危機の原因は、各国の経済政策の甘さや誤りもあるが、当時のレーガン政権の高金利政策(金融引き締め政策)によって、借金の負担が重くなったこと、第二次石油ショック後、第一次産品が下落したことなどにある。この結果、これら諸国に融資していた多国籍銀行は大きな打撃を受ける。
多国籍銀行は、この債務危機の処理を軌道に乗せるのに、結局、一九八二年夏のメキシコ危機から八九年のブレディ計画5)まで、七年間を要した。しかし、中南米諸国は「失われた10年」に陥るのであった。

〈規制撤廃と自由競争〉

金融自由化とは、「各国が自国の金融システムの安定化をはかり、信用秩序を維持するために行ってきた金利規制、国際資金移動規制、外国金融機関の進出規制、金融機関の業務分野規制などの諸規制を大幅に緩和するか、または撤廃することである」6)といわれている。
世界的な金融自由化は、とりわけ一九八〇年代から各国で進められるが、それ以前から存在するユーロ・ダラー市場は、各国の諸規制から自由な資金として有名である。
ユーロ・ダラー市場の発展・拡大とともに、マルク・ポンド・フラン・円など各国通貨建ての取引もユーロ・ダラー市場と同じように行なわれるようになり、これらが総じてユーロ・カレンシー市場とよばれるようなった。
ユーロ市場とは、一般的には、その市場が存在する国の通貨以外の通貨によって、資金の調達・運用が行なわれる市場のことである。このユーロ市場の最大の特徴は、市場の外部性、すなわち、各国通貨当局の規制からの自由にある。このため、通常、ユーロ取引では、預金金利の規制もなく、利子に対する源泉徴収課税及び各国中央銀行に対する準備預金積み立ても免除された。
 ユーロ市場での取引は、一時的な停滞を除いて、1970年代後半、1980年代後半に、飛躍的に規模を拡大する。そして、一九八〇年代初めには、ユーロ債が外債を上回るようになる(外債とは、巨額の資金調達を外国の証券市場で、その国の通貨で行なう債権であり、貿易金融などとともに伝統的な国際金融である)。
 BIS(国際決済銀行)報告によって、ユーロ市場の規模の推移をみると、その総資産は、一九七五年4750億ドル、八〇年1兆3220億ドル、八五年2兆1640億ドル、九〇年5兆9072億ドル、九三年現在6兆4473億ドルとなっている。
一九八〇年代は、国際金融市場のユーロ市場が飛躍的に拡大しただけではない。それは、主要資本主義国で各種規制の緩和・撤廃を促進し、その流れは途上国にも押し寄せた。
たとえばアメリカでは、1929年の金融恐慌を契機に、各種の金融規制が行なわれたが、これらの諸規制は、戦後高度成長の経過とともに、大きな桎梏となり、金融の自由化を旗印に、つぎつぎと撤廃あるいは空洞化となる。
金融の自由化は、まず金利規制の撤廃から始まる。1960年代からのインフレ高進(1970年代の二度にわたるオイル・ショックで顕著)の下で、銀行業界と証券業界の金融商品の開発競争が激烈となり、この結果、ついに競争の公正化を名目に、1983年に定期預金の金利が自由化され、1986年には預金金利のほとんどが撤廃された。
 銀行・証券業の分離を撤廃する運動は、1980年代から進む。しかし、分離規制を定めたグラス=スティーガル法の改定はなかなか進まず、個別案件の裁判闘争を通じた「なしくずしの自由化」が進展する。一定の限界をもつが、銀行・証券・保険業の相互参入の法的枠組みを整えたグラム=リーチ=ブライリー法(金融制度改革法)が成立するのは、ようやく1999年11月であった。
 アメリカでは、支店設置をみとめない単一銀行制度(unit banking system)が伝統的に強く、州を越えた活動の規制(州際規制)が行なわれてきた。これもまた、1994年のリーグル=ニール州際銀行業務効率化法によって、完全撤廃された。
 イギリスでは、「金融の証券化」が進む下で、証券制度の包括的な改革が進められた。改革は二段階で行なわれ、1984年4月から外債取引における手数料の完全自由化などが行なわれ、1986年10月からは、株式市場・債券市場の改革(いわゆるビッグバン)が行なわれた。
 日本でも、外圧を受けて自由化を迫られたが、「護送船団方式」といわれた官民連携の強さから、金融の自由化は漸進主義であった。だが、バブル崩壊以後の長期不況を脱する狙いも含めて一九九八年六月の金融システム改革法を筆頭に二〇〇〇年代初めまでに総合的な金融改革が行なわれた。??橋本内閣
金融自由化は、主要国に止まらず、資本主義後進国にも拡大した。というのは、規制の無いユーロ市場を好むのは、なにも多国籍企業だけでなく、国内で資金を調達・運用する一般企業においても進んだからである。規制の多い国内市場よりも、自由で、その上安いコストで調達でき、高利回りで運用できるからである。この結果、各国の国内市場はその空洞化を恐れ、ユーロ市場に対する競争力をつけるためには、否応なく、金利の自由化や内外資金移動規制の緩和・撤廃を行なわざるを得なくなっていくのであった。
各種の規制を撤廃・緩和した金融自由化は、当然のこととして激しい競争をもたらし、ボーダーレスの金融活動を飛躍的に高めた。すなわち、金融の自由化は、同時に、金融のグローバル化なのである。

〈投機的活動への傾斜〉

 アメリカにおいては、一九八〇年代から、一般企業の資金需要が減退することを背景にして、「企業の銀行離れ」などについて議論が活発化する。そして、一九八〇年代後半からは、金融自由化の圧力によって、アメリカの大手商業銀行は伝統的業務(企業のための資金調達。間接金融)を乗り越えて、積極的に証券業務に参入していく。
 しかし、この頃すでに証券業界そのものが変質し始めていた。すなわち、従来は、株式、社債、国債の引受けや自己勘定取引7)を中心にして活動していたのが、デリバティブ8)取引や、資産担保証券、住宅ローン担保証券など新しい「証券化商品」9)の取引が急激に拡大していくのであった。高額な収益を求めた投機的な活動へ大きく傾斜していったのである。
 また同時に、証券市場そのものの役割も投資家と企業を結びつける従来の役割(直接金融)から、機関投資家が自らの貨幣資本を運用し、金融的な利得を直接上げるための市場に変質していったのである。この機関投資家とは、保険会社、年金基金、投資信託、財団、大学基金、共済組合、ヘッジファンドなどである。
 アメリカの大手金融機関は、前述の中南米債務危機によりいずれも巨額の不良債権を抱えて、国際業務から一時的に撤退することを余儀なくされた。
 そして、一九八〇年代には国内に引上げられた資本は、石油開発、不動産、M&A(企業の合併・買収)など投機的性格の強い「ハイリスク・ハイリターン」の分野に投入された(この時期は、アメリカの大手銀行とは対照的に、日本の銀行がアメリカなど海外での金融活動を活発化する)。
 それは、機関投資家たちのより高い収益への求めに応じたものである。しかし、「ハイリスク・ハイリターン」を求めた投機活動は、数年間の莫大な収益を獲得したが、やがて相次いでバブル状態に陥り、失敗する。経営危機は、一九八四年のコンティネンタル・イリノイ事件での大手金融機関だけでなく、「ハイリスク・ハイリターン」に走った貯蓄貸付組合の一九八〇年代の二度にわたる経営破たんにも及んだ。
 国内での投機市場の崩壊をキッカケに、アメリカの大手金融機関は、一九九〇年代中頃以降、再び、国際的な投機活動を活発に展開するようになる。何故ならば、大手金融機関の主要取引先である機関投資家のもとめる高い収益を獲得するためには、利潤率の低い国内よりも、経済成長率の高い新興国への投融資のほうがはるかに高い利潤を獲得し得るからである。
国際的な投機活動の結果は、一九九四〜九五年のメキシコ通貨危機、スペイン・ペセタ、ポルトガル・エスクードの切り下げや円の独歩高、一九九七〜九八年のタイ、韓国、インドネシアなどアジア通貨危機からロシア債務危機に波及するなどの事態に至る。自己の利益のみを求める身勝手な投機活動は、投機対象の突然の経済破綻になんらの責任も感じず、実体経済は投機活動に振り回されるのであった。
世界の名目GDPに対する世界の金融資産(預金プラス株式発行残高プラス株式時価総額)の比率は、一九九〇年1・8倍、九五年2・2倍、二〇〇〇年2・9倍、〇七年3・5倍と増大する。金融活動は、ますます実体経済に対する優位性を高めるのであった。
アメリカでは、クリントン政権のルービン財務長官によるドル高政策により、世界の投資資金を集中させ、アメリカなどの株式バブルを生み出し、それはITバブルと重なり、二〇〇〇年初頭に崩壊する。だが、バブル崩壊後、グリーンスパンFRB議長は低金利政策を続け、住宅バブルの土台をつくり、証券化商品の横行とともについにサブプライムローン恐慌を発生させたのである。
 だが、この金融恐慌による打撃は、アメリカのみならずヨーロッパの金融機関にも波及した。ヨーロッパの金融肥大化・金融立国路線は、アメリカ以上の規模に至っていたのである。                                                     (つづく)

注1)理論誌『プロレタリア』8号のP.184〜185を参照。後述の「デリバティブ」は、理論誌『プロレタリア』7号のP.62〜6を、「証券化商品」は、同誌7号のP60〜62を参照。
2)伊藤正直著『なぜ金融危機はくり返すのか』旬報社 2010年 P.18
3)為替レートの買値と売値との差額のこと。借り手の信用度に応じて一定のマージン(利ザヤ)を上乗せするスプレッドが付け加えられる。
4)注2)と同じ。P.19
5)債務処理の方策として、民間銀行は、貸付債権の削減と利払いの軽減を行ない、IMF(国際通貨基金)・世界銀行は利払い資金などを債務国に供給し、債務国側は、中長期の経済改革を推進し資本の流入促進を図るというものである。なお、この際に民間銀行は手持ちの債権を元手にして、これを証券化し販売している。今回のサブプライムローン問題に端を発する世界金融恐慌の原因となる「証券化商品」の先鞭である。
6)太陽神戸三井総合研究所編『世界の金融自由化』東洋経済新報社 1991年 P.1