時局放談 

  コモンセンスは
    ポピュリズムの歌を唄うか?



 コモンセンスが、人倫が、共感が、普通の人々の共同の叡智「衆知」が、すなわち「世間」が劣化しています。ポピュリズムとファシズムが勢いを増しています。
 郵政民営化の小泉劇場で主流化したポピュリズムにあって、昨年の日航企業年金問題は象徴的でした。
 企業年金は賃金の後払いです。その減額は賃金の一部不払いです。日航資本は(というか政府は)、破産したら一部どころか全部ふっとぶぞとドーカツしてゴリ押ししました。破廉恥です。
 しかるに問題はここからです。世間はこの破廉恥を非難するかわりに、なんと賃金不払いの被害者たちをムチ打ったのです。
 いわく、連中の年金月額60万を維持するために、年金月額6万のオレたちワタシたちの税金を使うなどけしからん、そもそもパイロット現役の月収二百万とは何事か、と。
 これを単に商業マスコミ、ポピュリズムメディアの扇動のせいだと片付けてはいけない。世間には確かに劣情が存在し、日々強まっているのです。だからこそ、ポピュリズムメディアが便乗もし、扇動もするのです。貧すれば貪す、とはこのことでしょう。
 一体いつから、労働法規の明白な侵害が侵害と認知されなくなったのでしょうか。“劣なる世間”を動員すれば、違法を合法にしてしまえるようになったのでしょうか。
 私たちは今、この劣情の組織化ともいうべきポピュリズム(それは本来の人民主義とは以て非なる、ペテン的大衆迎合政治としての今日的ポピュリズムです)の伸長を目のあたりにしているのです。阿久根市・竹原騒動しかり、名古屋市・河村劇場しかりです。河村圧勝から「地域新党」流行へ、これが最新の目玉興行となっています。その春興業は東京で、ワタミ悪乗り劇場の予定です。
 さて、ポピュリズムが平時の総動員政治なら、有事の総動員政治がファシズムです。有事、危機だから国家主義に色付けされるのです。「非国民は討て」の国家総動員体制になるのです。昨年の尖閣事件は、軍ファシスト・フラクションによる民主党牽制目的の対中挑発でした。ビデオリークと、それへの都知事石原らによる礼賛というオマケも付いた。七十年前の対中侵略本格化の際の、諸「事件」の再生を見ているようでした。
 しかし、ファシスト勢力の当面の主たる目標は、ずっと地味だけれど間接税による大増税にあると見るべきでしょう。
 間接税の強化は歴史の逆行であることを忘れてはなりません。結果の平等を求める非ブルジョア共和主義の反税闘争によって、過酷な間接税から所得課税へ、さらに累進的所得課税(ここには平等概念の擁護すべき飛躍があります)へと転換してきた租税の歴史、これへの逆行なのです。
 近代租税の目的は社会の普遍的な基盤(水道とか学校とか)の構築・更新と、富の再分配(この二点こそ結果の平等の財政上の核心です)にあります。それが現状どの程度実行されているか(というより損なわれ続けているか)にかかわらず、将来の夢想的「経済成長」をあてこんだが如き借金財政を放置すべきでない、という判断は極めて健全です。
もちろん財政収支の平衡回復と財政の健全化とは別の話しでしょう。所有者階級に資する基盤整備と富の逆再配分、治安強化に特化することを旨とする「小さな政府」では、いくら財政赤字が解消したとしても、財政の健全化とはみなすべきではありません。
 しかし、財政の破綻が貧困層をいっそうの困苦に陥れることは確実です。財政破綻が招く困苦には階層性があるのです。この破綻の損害は、真っ先に貧困層に向うのです。
 だから財政再建を求めることは、それ自体としては真っ当な要求です。そして真っ当な要求を邪まな要求に、普遍的な利益を特殊利益に歪曲するのがファシズムの本旨なのです。
 あるべき道筋とは、まずは税の目的を再確認(というか日本の場合は新規定義)すること。ついで、その目的に適う使い方を工夫すること。そのうえで自ずと定まる財政規模(これは「大きな政府」でも「小さな政府」でもなくて、いわば「適度な政府」です)に見合う、長期的(単年度で考えないという点は大事と思います)な税制を策定することです。
 そしてその際、ヨーロッパの間接税率がどうたらなどという話しに惑わされてはいけない。高率間接税を行なう国々は、新自由主義を補完する目的で高税率化が強行された国々だということを忘れてはなりません。それは、間接税から直接税への転換という、多大な犠牲を払って勝ちとられた歴史的な流れに対する反動なのだということを忘れてはいけません。
 ちなみに、財政の借金問題をどうするのか。これは個人貯蓄的保有の分は保全されるべきでしょうが、大口の機関保有分については“徳政令”もありかなと思います。仮にそうやって大部分をチャラにしたところでまだ残る借金の返済原資は、財政健全化の初期には上乗せせざるを得ないでしょうが。
 なんだか放言みたくなってきましたが、租税の問題は、自由主義と共和主義を分かつ分水嶺の一つであることは肝に銘じられてしかるべきです。昨今の増税キャンペーンで、消費税増税が財政破綻を防ぐだの、福祉目的税だのの“もっともらしい”言い回し(異論が許されないような感じの言い回し)でなされている様は、いかにもファッショ的手口です。なのに反論の仕方が、デフレーション下の増税はタイミングが悪い式の話しでどうするのか。
 繰り返しますが、“世間”が劣化しています。では、どうするのか。ここで妄想ですが、小沢一郎さんです。
 小沢さんは民主党のポピュリスト(とファシスト)と手を切り、そして社民党主流派(辻元的でない人たち)とか、てきとうに言うと自民党加藤紘一派あたりと手を握って、「民主東アジア党」で政権党となって首相です。小沢さんは二大政党制が大事なので、民主党主流派と自民党主流派で「民自アメリカ党」を作ってもらう。それで、やる気を出した小沢さんは、消費税増税反対・普天間国外移転・「東アジア共同体」推進(後の二つはそのまま日米安保の見直しです)という、当初の民主党公約を実行するのです。その際、「あたりまえの国家」論者の小沢さんだから、暴力機構を「中立」に押しとどめ、官僚を「公僕」とする策はあるでしょう。
 私たちは、「国民の生活が第一」というスローガンのセンスの無さを愛すべきなのです。労働者の生活こそ第一、の現在的仮称とみるべきなのです。「増税なき財政再建」でいいのです。大衆増税なき、累進税強化と法人増税による財政再建の略記とみるべきなのです。で、小沢さんの仕事はここまでです。
その先、改めてどうするのか。民主党の公約がどうこうの次元ではなく、私たちは原理原則を語るべきです。てらうことなく理想を掲げるべきです。(各論はどうでもよいとは言いませんが)総論をこそ論じるべきです。我々にも、労働者共産党の綱領という総論、“大きな物語”があるんだから。(労働者共産党「高座」派N)


  釜ヶ崎越冬闘争に参加して
                   F(大学生)

1月3日、越冬闘争の最中、私は、父や姉とともに釜ヶ崎の三角公園に居た。釜ヶ崎講座の主催する取り組みに参加し、越冬闘争に少しでも関わりたいと思ったからだ。
 三角公園には、沢山の野宿の人々などが集り、越冬祭りに参加していた。この三角公園は、朝夕に炊出しが行なわれる場所だという。
私はこの時、野宿する人々の数の多さに驚いた。国レベルの規準緩和によって、生活保護を受ける人が増加し、野宿する人が減っているとは聞いていたが、これ程にも多くの人々が野宿を余儀なくされていたとは、思っていなかった。「釜の人々は、働くのが嫌で働かないのではなく、仕事が無いから働けない現実がある。」と、父が話してくれた。
今、就職難が続き若者に仕事がない。私も就職活動に奔走しているが、働きたくても働けない焦りがある。釜の人々の気持ちが、少し分かるような気がする。
 午後、釜ヶ崎講座の主催で、釜ヶ崎とその周辺を巡る企画、「釜ツアー」に参加した。特別清掃事業(特掃)の集合場所では、釜ヶ崎の人々が、週に1度の特掃とアルミ缶を回収業者に売ることによって、生活を支えていることが説明された。特掃は、釜ヶ崎の運動を通して、行政から勝ち取った成果だという。
この特掃を増やして、現金収入の道を拡大し、仕事をつくり出すことも、就労を可能にするためには大切ではないかと感じた。
 昨年の暮れから正月にかけて気温が下がり、関西でも大雪が降った。野宿する人々にとっては、厳しい季節が訪れている。『大阪市 1年で1524人 過去最多』これは、無縁仏を供養する慰霊祭の記事である。
私たちは、この記事の大阪市設南霊園にも訪れた。無縁仏は、年々増加傾向にあり、これらのほとんどが、本人の身元が判明しても家族の行方がわからない人々だという。釜ヶ崎の人々も合葬されている。職を求めても仕事が無く、帰る場所もなく葬られた人々、その無念さが伝わってきた。厳しい寒さに、釜の人々の命が、奪われることが無いよう、行政が本気になって取り組むことが求められている。
 大企業が外国に転出し、職に就くことが一層困難になろうとしている。釜ヶ崎の人々もますます仕事から遠ざけられていくだろう。
 私自身、何をしていいのか、何をしなければならないのか、今は分からない。しかし、今年も炊出しに大学生や若者が参加しボランティア活動をしている。私も何らかの形で、釜ヶ崎と関わって生きていきたいと思う。
『特掃週3回実現、55歳未満の就労対策、社会的就労の創出、稼働年齢生活保護者の就労機会創出』
釜ヶ崎でもらったパンフレットの文言が目に飛び込んできた。釜ヶ崎で長い年月、一歩一歩運動を積み上げ、努力している人々がいることを強く感じた。