客室・運航乗務員146名原告団が1・19提訴
  日航は不当解雇撤回せよ


 一月十九日、日本航空(JAL)の不当解雇問題で、日航キャビンクルーユニオン(CCU)と日航乗員組合の組合員による原告団が、東京地裁に地位確認などを求めて提訴した。原告はCCUの客室乗務員72名、日航乗員組合のバイロット74名の計146名。この日は、日航に会社更生法が適用されて一年目の日であった。
 一年前、日航が経営破綻し、会社更生法適用と企業再生支援機構の管理下に入り、昨夏「更生計画案」が出され、その再建計画ではJALグループ全体で1万6千人の人員削減などなどとされた。JAL本体では会社は、削減目標を全体で1500名、客室乗務員では662名とし、十二月九日時点ではその目標を上回る1733名、客室乗務員762名が、いわゆる希望退職募集に応じている。にもかかわらず、会社は社内のすべての労組の合意がないまま、この日、客室乗務員・運航乗務員202名に解雇予告を強行し、大晦日、最後まで退職強要に応じなかった165名の首を切り去ったのである。
 JAL不当解雇撤回裁判原告団は、十九日の提訴にあたっての声明で、以下のように訴えている。

 私たちはこの裁判で第一に、今回の整理解雇が、これまで多くの労働者の闘いによって築き上げられてきた「整理解雇4要件」、@高度な必要性、A回避努力義務、B人選基準の合理性、C労使協議手続きを根底から覆す無謀・非道なものであり、断じて許されない行為であることを明らかにしていきます。
第二に、日本航空再建で国民から求められているものを明確にします。現在進められている再建計画では「安全性」と「公共性」が後回しにされ、金融機関等のための利益確保が最優先で進められています。日本航空に働く者が安心して働ける職場環境の実現は、安全運航の基盤であり再建の要です。公共交通機関としての役割を果たす真の日本航空の再建を求めていきます。
第三に、日本航空が経営破綻に至った「原因と責任」を明らかにします。これまでの歪んだ航空行政の責任を免罪したまま、現在政府の主導で「会社更生法」下での再建が進められています。また同時に、長年に亘る日本航空の放漫経営ぶりを明らかにし、原因が労働者には一切ないことを論証していきます。労働者犠牲の再建は誤りであり、国民が期待する再建に逆行するものです。
また、今回の整理解雇の特徴は、人員削減だけを目的としたものではないことです。希望退職から整理解雇に至る経過を検証すると、職場の要求実現に向けて先頭に立って活動してきた労働組合役員を排除する意図が明瞭となっています。日本航空経営はこれまで数々の違法行為を繰り返し、その度に裁判所や労働委員会から断罪されてきました。経営は「過去と決別して新生LAL」を標榜していますが、違法・不当な労務政策こそ決別すべきものです。

この日航不当解雇反対闘争への支援も、力強く拡大しつつある。十二月二七日、神田の日本教育会館に各労組・民主団体から二百数十名が集まり、「日本航空の不当解雇撤回をめざす国民支援共闘会議」が結成された。
この日航不当解雇国民支援共闘は、当事者のCCU、日航乗員組合、航空労組連絡会の他、労働組合では全労協、全労連、全国港湾労働組合連合会、日本マスコミ文化情報労組会議などの呼びかけによって結成された。
一月十九日の提訴の後には、国民支援共闘の主催で原告を励ます集会が都内で開かれ、約三百人が参加した。
日航破綻はきわめて、政治の問題である。自民党政府は八十年代以降の日米構造障壁協議での米国の求めに応じて、公共事業投資を野放図に拡大し、その一環として地方空港建設を乱立させ、国策会社日航にジャンボ機を大量購入させてきた。
政権交代した民主党政権は、積年の航空行政を明確に転換すべきであったが、そうしていない。企業再生支援機構は国が半分出資であり、海江田経済産業相が担当する。整理解雇4要件に違反し、さらに労組つぶしの違法性ももったこの事案について、「個別労使関係に政府は立ち入らない」では済まされない。本来は提訴になる前に、政府の適正な指導が貫徹されるべきであった。
また、この日航不当解雇は、労働者全体の雇用と権利の問題である。日航リストラの頂点が今回の客室乗務員・運航乗務員の解雇であるが、日航グループ全体で1万6千人退職・解雇が進められ、その背後では、グループ各社と取引があった多くの中小企業で整理解雇が引き起こされる事態となっている。
日航リストラの経営責任、政治責任が徹底的に追及され、政府の雇用政策・航空政策が問われなければならない。(W)

今こそ、安心して暮らし働ける釜ヶ崎を!
12・28〜1・7釜ヶ崎越冬闘争

   反失業闘争を青年・学生と共に

大阪の釜ヶ崎では十二月二八日〜一月七日にかけて、「第41回釜ヶ崎越冬闘争」が闘いぬかれた。
 あいにくの雨で、十二月二八日の「越冬突入集会」は中止になったが、越冬実行委員会の仲間による炊き出し、医療センター前での野営(ふとん敷き)、医療パトロールが開始された。
 十二月三十日〜一月三日にかけては、三角公園で「越冬まつり」も開催され、連日、人民パトロールも行なわれ、一月四日の恒例の対府市要求行動「お礼まいり」をはさんで、一月七日まで諸行動が団結して闘われた。
 一九七〇年、「仲間内の団結で一人の餓死・凍死者も出すな!」を合言葉に始められた釜ヶ崎の越冬闘争は、それ以降、一度も途切れることなく続けられ、仲間の生命を守り抜く闘いを基本としながら、その時々の情勢に対して、闘う仲間の団結をつくり出してきた。
 とりわけ、バブル崩壊以降のアブレ地獄の深まり―恒常化、失業―野宿の常態化というここ二十年来の状況下の越冬闘争は、通年的な反失業闘争を闘う労働者の団結をつくり出してきた。
 こうした闘いの成果として、02年に「ホームレス自立支援法」が闘い取られ、釜ヶ崎では「特別清掃事業」、「シェルター」といった、日雇就労の「あいりん方式」とは違った仕組み、失業・野宿と闘う「新たなしくみ」を作り出してきた。
 現在、大不況・大失業の時代が本格化し、「全国の釜ヶ崎化」「雇用なき景気回復」といわれる時代に突入している。
 この時代を迎え撃ち、差別・分断支配を打ち破り、社会の閉塞情況を打ち破り、反失業闘争を前進させ、反失業闘争の取り組みを日本の労働運動の中心的課題へと押し上げていかなければならない。
 資本家どもは、不況の深まりの中でばく大な内部留保をため込みつつも、いまや、労働者を「買収」して企業主義の枠内にしばりつけ分断支配する力を失っている。
 その政治的代理人たる菅民主党政権も、「一に雇用、二に雇用、三に雇用」と声高に叫びつつも、何ら具体的な雇用施策を打ち出すことができず、雇用を企業にお願いするだけであり、それすらも企業に「無視」され、場当たり的なバラマキ政策しか打ち出せていない。
 「企業がもうかれば労働者もうるおう」、「終身雇用・年功序列賃金」といった「右肩上がりの経済成長」時代の資本主義の「神話」が、完全に崩壊している。そして、それを前提として「権利」「自由」を語り、おこぼれを求める運動も完全に過去のものとなった。
 次の時代の主役たる青年・学生の状況も逼迫している。青年労働者の多くが非正規労働者であり、「そこそこの大学を出れば、そこそこの企業に入れて、そこそこの将来が展望できる」といわれた学生も、「超就職氷河期」の今、非正規を含めても就職内定率は七〇%程度である。
 こうした情勢を反映して、今回の釜越冬闘争には、五十名をこえる学生が参加した。
こうした中、釜ヶ崎の闘いは重要だ。社会的就労のしくみを拡大し、全国でつくり出していかねばならない。
そのためには、寄せ場内―外、正規―非正規をつらぬく労働者の団結をつくり出していかなければならない。
反失業闘争をめぐり、このかん釜ヶ崎でやってきた様に、仲間の利益を第一に考え、おおいに論争を深め、一致点を見出し、「論争もすれば共闘もする」関係を作り出していかなければならない。
しかし、独りよがりなケチ付けはごめんだ。「NPOの事務職員は釜ヶ崎に住んでいないから、仲間じゃありませんよ!」と、釜ヶ崎に住んでいないで自家用車で釜ヶ崎に「通勤」してくる人が主張していたが、こうした「批判」は分断に加担するものと言わざるをえない。
こうした分断を許さず、団結を打ち固め、反失業闘争を前進させよう!(大阪S通信員)


釜ヶ崎講座も1・3「釜ツァー」など越冬闘争
  より多くの人々を釜ヶ崎へ

 釜ヶ崎と市民をつなぐ市民団体「釜ヶ崎講座」も、今第41回釜ヶ崎越冬闘争に連帯し行動していった。
 釜講座は、恒例の一月三日「釜ツアー」の主催をメインに位置づけながらも、十二月十二日の越冬支援連帯集会の一翼を担い、十二月三十日を「釜講座集中行動日」として、三角公園での「南港臨泊送り込み報告集会」に参加し、ふとん敷き、人民パトロール、医療パトロールの行動にも参加した。これらに釜講座を通じて参加した人の中には、遠路、金沢より寝袋持参で来阪された大学院生の方や、ボランティア活動に関心が高い青年労働者などもおられ、「なぜ、野宿せねばならないのか」という真剣な問いが発せられる中での行動であった。
 明けて2011年、今年が野宿をせずに希望をもって生きていける年でありますように、と釜ヶ崎の皆が祈念する中、スタッフ、ボランティア、支援の団体・個人が一体となって越冬闘争の取り組みが続けられていった。
 釜講座は、一月三日の午後、釜ヶ崎日雇労組の事務所前に集合、毎回お世話になる、釜の生き字引・水野阿修羅さんの先導で、24名が「釜ツアー」に出発した。参加の顔ぶれは、常連の会員の人、先述の金沢、また横浜、東京などからの人もおり今回も多彩であった。ツアーは、学校、病院、福祉施設、工場跡、斎場などを廻って釜ヶ崎の街のしくみを知ろうというもので、水野さんの分かりやすい説明は、釜ヶ崎につらぬかれる貧困・失業・差別を指摘し、参加者にそれとなく今後の課題を意識してもらうといったものであった。
 ツアーは、中休みを取った二時間半の長丁場であったが、最後に感想・交流会をもうけ、メリハリのある行動であった。その交流会では、「トクソウ」「人夫だし」など釜の専門用語への質問から始まり、釜の日雇労働者のたたかいの歴史などでの突っ込んだ質疑にも及び、次のツアーへのはずみとなった。
 釜講座は昨年、事務局体制の強化をカナメに、企画・行動の集中を図ってきた。その成果をバネに今年も、幅広く参加できる企画・行動を発信していく。このかんの諸団体・個人とのつながりを大事にしつつ、さらに多くの人々に釜ヶ崎との結びつきを提供できる講座として、飛躍できる一年としていきたい。(釜講座会員I)


東京・山谷1・16
  日雇労働者反失業総決起集会
  排除・反動攻撃はねかえそう!

 一月十六日の午前、東京・山谷の玉姫公園において、「佐藤さん虐殺26ヵ年・山岡さん虐殺25ヵ年弾劾!追悼 日雇労働者反失業総決起集会」が行なわれ、日雇労働者、野宿労働者、争議団、反弾圧戦線、正規・非正規雇用の労働組合員など約230名が結集した。
 集会の前半は、山谷争議団からの基調的報告と各参加団体の挨拶が、大要以下のように行なわれた。
山谷では、十二月二九日から一月四日まで越冬闘争が闘われた。センター前の大テント設営、炊き出し、三里塚や芝浦屠場などからの物資カンパのさばき、上野パトロール、隅田川公園での餅つきなどが取り組まれた。昨年から強まる都・区当局による東京スカイツリー関連の野宿者排除攻撃、渋谷・宮下公園の「ナイキ」化による排除を許すな。
1980年代の日雇全協の結成と闘いは、労働戦線の帝国主義的再編に反対し、日雇下層から階級的労働運動を形成しようとするものであった。また、天皇代替わりによる右翼天皇主義者の台頭を粉砕する闘いを進めてきた。これらに対しファシストは、佐藤さん・山岡さんを虐殺してきた。この闘いの原点をふまえて、現在の反動化と闘っていこう。
集会の後半では、日雇全協の各支部の決意表明が行なわれた。最初に釜ヶ崎支部(釜ヶ崎日雇労働組合)から、今越冬闘争をはじめ、昨年来の反空港・反基地反戦闘争、「在特会」ら排外主義右翼との大衆的実力闘争、これらの報告と今後の決意が述べられた。つづいて名古屋の笹島日雇労組、横浜の寿日労などがアピール。最後に山谷争議団が決意表明した後、山谷地域の戦闘的デモンストレーションを貫徹して終了した。(東京Y通信員)


1・30関西三里塚旗開き
  加瀬さん、一坪共有地運動を改めて語る
  2・24共有地裁判(柳川さん証人尋問)傍聴へ結集を!

11年三里塚闘争始まる。1・16反対同盟旗開き、1・30関西三里塚闘争旗開き開かれる。
1月30日、兵庫県尼崎市市立労働福祉会館にて、関西三里塚闘争に連帯する会、関西三里塚相談会の主催による「2011関西三里塚闘争旗開き」が35名の参加で開かれた。
最初に関西三里塚闘争に連帯する会の渡邉より、一坪共有地にかけられている金銭強奪裁判の状況、団結小屋撤去裁判などの状況が解説・報告され、続いて第一部の講演会で、大地共有委員会(U)代表の加瀬勉さんの講演が行なわれた。
加瀬さんは冒頭、「あくまで仮説のあってはならない話ではあるが、現地で空港に反対する農民がいなくなったとき共有運動に参加して来た皆さんは、空港建設に反対ですか。いろいろな立場や思いがあって政治的な意味で三里塚を戦ってきた。今改めて一坪共有地問題を考える時、問われてくるのではないか」と提起し、以下のように述べた。
「一坪共有地の意義を考えるとき、三里塚の闘争の体験から考えてみよう。代執行のとき大木よねは『命をかけて戦う』の言葉と、『反対同盟は俺を屋根に上らせて梯子をはずした』といっている。大木よねと生活をともにし生産をともにして代執行阻止の準備をしてきたが、強制収用後のよねの生産と生活の具体的保障が、反対同盟で建てられていなかった。議論の中で『東峰で面倒見る』との石井・島村さんの政治決断で、代執行闘争は展開された。結果は、よねと私と石井さんの三人だけの阻止闘争となった。代執行後の生産、生活の保障をどうするのかが深く問われた課題だった。強制代執行をさせないために、どのような闘争をつくりだすのかである。
木の根ペンションの土地の件で考えてみる。木の根の小川明治副委員長がなくなったときの相続問題から始まっている。反対同盟では相続問題対策は立てられなかった。後継者問題も含め人々を励まし、さらに戦い続けるための生産、生活共同体はまだ三里塚での解決できていない問題である。木の根のペンションの立つ土地は、木の根の農民の土地を、加瀬と全国の運動で買い受けたものである。この土地は八百名の共有者で共有されている。
一坪共有地運動は富里闘争から引継ぎ、第一回目は用地内農民と騒音被害に会う農民の団結を目指して反対同盟内で行なわれた。二回目は支援団体の人と再共有化を実施した。空港反対闘争の強固な意思・思想の物質的転化と、空港建設用地内の物質としての土地を統一するために、一坪共有化全国運動を展開したのである。しかし共有運動の継続と発展を保障する運動組織を作り出しているとはいえない。共有地運動は、登記事務、土地の管理はしてきたが、共有地そのものに権利を設定したものではない。権力、空港会社からの攻撃に対し共有化運動の意義を再確認し、2月24日から千葉地裁で始まる柳川さんの証人尋問の戦いへの傍聴活動から、全国からの戦いを開始しよう」。
続いて反対同盟の柳川秀夫さんは、「今回の裁判は形を変えた強制収奪である。政府の約束事を反古にするような空港会社の裁判に対し、政府に回答を求めたが届いていない。2月24日には証人尋問になる。強制収奪の結論を出されるなら対決となる。11年は平穏な年ではない」と決意を明らかにした。
旗開きは、尼崎・連帯する会の菊永さんの音頭で乾杯があり、泉州沖に空港をつくらせない住民連絡会や釜ヶ崎日雇労働組合などからの決意をはじめ、参加者全員が戦いへの決意を述べた。
なお1月16日には現地で、三里塚芝山連合空港反対同盟の旗開きが、横堀農業研修センターにおいて40名の参加で開かれ、清井弁護士が裁判闘争の方向を述べるなどした。
(関西S通信員)