社会の崩壊 その7

  生産・交換システムの機能不全
                                深山 和彦

 ブルジョア社会の骨格である生産・交換システム、教育(学校)、家族が崩壊しだしている。
産業が成熟し、地球環境限界にも逢着し、それらを背景に、人々の欲求が物的豊かさの追求というレベルから離陸し出した。人々は、物的豊かさの実現を超えて、人間(社会的諸関係および対象的自然との関係)の自由で豊かな関係の実現を求めだした。支配と隷属を基本とした社会システムは、これを包摂できず強制的に自己の内に押さえ込もうとする。そのことが社会システムを機能不全に陥らせているのである。
今回は、生産・交換システムの機能不全について論じてみることにする。

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第一に、資本による労働の包摂が困難化してきていることである。精神労働と筋肉労働の分業、支配−隷属の関係を拒否する態度が、若い世代を中心に増大している為である。
資本関係(剰余価値の取得を目的とする支配・隷属関係)は、嵐のような産業(機械制大工業)の発展を牽引した。そしてその時代の人々は、物質的生活の豊かさの実現を中心的欲求としていた。資本の支配と搾取に対する人々の怒りと反抗は、国家を介した所得再分配と賃金の引上げによって基本的に繰り返し包摂されてきた。産業の発展時代という歴史的条件が、資本の拡大再生産と労働の包摂の両立を可能にしていたのである。
しかし今日、先進国では、産業の発展時代は終わった。世界的にもその時代の終わりが視野に入ってきている。産業は成熟し、地球環境限界に逢着し、人間(関係)の自由で豊かなな発展への欲求が高まる。精神労働と筋肉労働の分業、支配−隷属の関係は、不要になり、忌避され、没落する。
この没落の道は、育児、教育・学習、医療・介護などの人間の発展に関わる領域における人々の相互扶助が社会の基幹的活動となることによって開かれる。人々の自由で豊かな関係への欲求が、人間の発展に関わるこれらの領域において、金銭関係、権利・義務関係、支配・隷属関係によらない相互信頼に基づく相互扶助の発展を牽引する。これと対照的に、利潤目的の支配・隷属システムによるサービスの提供は、限界に逢着する。社会の基幹的活動領域において芽生え発展する自由で豊かな関係は、社会全体の社会関係の規範になるものである。
既に今日、高次の欲求の増大を原因とする資本による労働の包摂の困難が顕在化してきている。
資本は、こうした労働の包摂の困難に対して、次の二つの方向で対処していく以外ない。一つは、完全自動化(労働のメインテナンス労働化)、ないしは分業の固定を廃したチーム労働化である。もう一つは、徹底した使い捨てである。前者は、資本主義を不要化する方向での「解決」であり、後者は、社会(人間)を破壊する方向での「解決」である。今日の資本は、両者の組み合わせによって、労働を包摂し自己増殖運動を継続しようとしているのである。こうした「解決」は、それはそれで資本主義の拠って立つ基盤を掘り崩し、既存の生産・分配システムを機能不全に陥れていくのである。

  A

第二は、一方における巨大投機マネーの略奪的膨張と他方における絶対的過剰人口の増大が、生産・分配システム(実体経済)をないがしろにする社会状況を作り出している。
既述のように、産業の成熟と地球環境限界への逢着、人々の欲求における物質的的豊かさの実現から人間(関係性)の豊かさの実現への重心移行は、人間(関係性)の発展に関わる領域における相互扶助を社会の基幹的活動に押し上げる。しかしこの領域は、資本の投下領域にとしては、機械制大工業領域のように適しているとは言えない。否、人間に対する支配と搾取を本質とする資本にとって、人間を大切にする態度が問われる相互扶助領域は、極めて不適合な領域なのである。そのため、産業の成熟と地球環境限界への逢着とによって産業領域において過剰化した貨幣資本は、全てではないが、基本的に行き場を失い投機マネーに転化してゆく。そしてその対極に、絶対的過剰人口が形成され増大するのである。
すでに「先進国」では、投機マネーも失業者も、実体経済から遊離し発生したというその痕跡を失いつつある。行き着く先は、博打に明け暮れる少数の大金持ちと生活保護や国際経済援助などに依存する多数の人々によって特徴付けられる社会である。そこでは、社会の土台である生産・分配システムはないがしろにされる。
このことが社会に突き付けている課題は、精神労働と筋肉労働が対立する過去の実体経済への回帰ではないし、既に成り立たなくなってきている資本主義的協働関係の回復でもない。問われているのは、人々の新たな欲求に適合した協働関係の創出なのである。だが投機マネー化した資本が社会からの略奪によって延命(肥大化)するシステムは、作動し続けており、社会を衰滅させつつあるのだ。

  B
  
第三に、社会的差別が、根底から動揺し解体しだしていることである。自由な発展への欲求が人々(社会)の中心的欲求(目的)となる時代への流れが、社会的差別の存続を許さないからである。
採集・狩猟時代にも差別はあったであろう。とりわけ気候変動、自然災害、獲物の獲り過ぎ、人間集団間の縄張り争いでの敗北等によって食料難に直面した時には、体力的に弱いものが犠牲を強いられたに違いない。しかしそれは、社会の内部に根拠を持つ差別ではなかった。対象的自然によって強制された類の差別だった。
当時の人間社会は、他の生物種と同様、外的変動に極めて脆弱だった。この脆弱性は、採集・狩猟への依存、余剰生産物の生産とその貯蔵ができない生産力水準と移動生活などに因っていた。
しかし農業・牧畜が発展する時代になると、差別は、基本的に社会の内部に根拠を持つものとなり、社会の特徴的構造となる。
すなわちそれは、土地所有に基礎を置いた精神労働と筋肉労働の分業(構想・指令と実行の分離)であり、この分業を基軸として階層的に発達してゆく分業の各分節への人間の固定である。被征服民(他の人種・部族・民族)や女性などが、分業体系の下位分節に組み込まれ、位置づけられ、固定された。分業体系の各分節への人々の固定を打ち固めるために、身分制度が創設された。支配階級は、この重層的差別構造を、政治的な差別分断支配の見地からも形成し強化した。
身分制度によって打ち固められた分業体系は、農業・牧畜を基幹とする産業を発展させるテコの役割を果たした。逆にまた、産業の発展による余剰生産物の増大は、身分制度によってうち固められた分業体系の「発達」を政治的に可能にしたのであった。
農・牧業の発達と分業の発展によって、商業部門で貨幣資本が蓄積され、農村に大量の過剰人口が生じて都市に流入する。そうした中で、市場の拡大を契機に、資本に牽引された工業化が進行する。ブルジョア革命が、土地所有に基礎を置いた身分制的・自足的な生産・交換システムを廃止し、市場経済(世界市場)の発達を背景に、労働手段の資本家的所有に基礎を置いた生産・交換システムを打ち立てた。機械制大工業の時代が到来する。
ブルジョア社会は、血統や家系を理由とした身分差別を原則として認めないという意味で、人間の平等を建前とする。しかし労働手段を持たない労働者は、生きていくためには、労働手段を所有する資本家に賃金と引き換えに自己の労働力を販売し、資本家の指揮・命令下で働かざるを得ない。そこは重層的な分業への隷属の世界である。またその下部には、労働力を販売できないがために生存の危機に晒される人口部分の世界が広がっている。それは、経済的な支配・隷属関係(階級差別)を成している。こうした経済的支配・隷属関係(階級差別)は、ブルジョア階級がその上に王制なり身分差別を一定残存させ、国籍・民族・宗教・性の違いや障害の有無などを理由に差別制度を打ち立てる土台となっている。そしてブルジョア階級は、これらの社会的差別をテコに、経済的な支配・隷属関係を打ち固めているのである。
だが今日、産業が成熟段階に到達し、地球環境限界への逢着も明らかとなり、人々(社会)の中心的欲求(目的)が物的豊かさの実現から人間(社会的諸関係および対象的自然との関係)の豊かさの実現へと移行する過渡期に入った。この移行は、精神労働と筋肉労働の分業(構想・指令と実行の分離)、それを基軸とした階層的な分業体系の各分節への人間の隷属とまったく両立しない。またそれは、一定の人口部分を協働関係から排除し、生存の危機に落とし込めることとも全く両立しない。分業の各分節への隷属を打破し、また就業部分と失業部分への分割を打破して、自由に豊かな関係を発展させたいとする人々の欲求は、分業への隷属や就業部分と失業部分への分割を固定する社会的差別と衝突し、その打破へと向かわずにいない。
資本主義的な生産・分配システムを打ち固めている社会的差別は、人々の新たな欲求の高波に直面して、根底から揺らぎだしているのである。

  C

第四に、都市と地方の分割が、限界にきていることである。
都市と地方の分割は、支配・隷属関係によって成り立つ生産・分配システムが作り出す最大の構造である。
都市は、農業・牧畜の時代の幕開けとともに、姿を現した。それは、定住化、剰余生産物と剰余労働力の発生、相対立する階級への社会の分裂としてある人類社会の大変動の結晶であり、産業と交易の発展を促進するものだった。歴史上の最初の都市は、諸氏族間の軍事同盟、国家と宗教による社会の政治的統合、産業上の構想・指令機能、市場機能などの必要から形成された。都市の形成によって、社会は都市と地方に分離された。
ブルジョア社会になると、都市の性格は工業都市へと急速に変貌した。都市と地方の対立は、精神労働と筋肉労働の対立としてだけでなく、工業と農業の対立としても現れた。都市は、資本蓄積の場として、また過剰化する農村人口を吸収して工業労働者に転化する場として機能し、産業的飛躍のテコとなった。
しかし今日、「先進国」の中心都市は、産業の成熟と工業の海外移転によって、物的生産活動から切り離され、精神労働と消費に特化し、投機マネーと絶対的過剰人口が集積してゆく寄生的国際都市へと変貌してしまっている。そこでは、金融・情報・管理領域の活動、商業活動、娯楽・福祉・教育・医療・環境領域の活動が、物的生産労働から遊離した形で、発展途上国の人々を奴婢的労働力として導入しながら増大する。過度の消費と廃棄が生じ、社会の腐敗と地球環境破壊を促進する。「先進国」の地方では、産業の解体、過疎・高齢化、環境荒廃、要するに生活の衰退・消滅が進む。「先進国」では、中心都市が、人口の大部分を呑み込む事態となっている。
増大する高次の欲求は、この構造を打破して新たなシステムを創造する推進力に他ならない。人々は、各人の自由で豊かな発展を相互に支え合う社会関係の在り方を求めている。そこでは、食糧や工業製品の生産、豊かな自然環境の保全といった社会を維持する上で基礎となる協働労働が、第一の欲求となる。社会は、人々が社会的貢献能力を実際の就労と結合する仕方で多方面に自由に伸ばすことのできる時間的・物質的諸条件を整える。そのようにして創られる社会は、地域的に自立的構造を持ち、しかも国際的・広域的なネットワークが発達しており、自然的・社会的な災厄にも強靭な社会となる。都市と地方の分割、および、「先進国」経済の略奪的・寄生的性格は、おのずと解消する。
もちろん現実には、高次の欲求の展開は、国家と資本主義・市場経済の制約下にある。都市と地方の分割自体が、抑圧構造を成している。都市と地方の分割を打ち砕く歴史的葛藤が始まっているということである。
現在は、カジノ資本主義の肥大化によって、都市と地方の分割の生命力が尽きる時代を迎えている。とはいえ産業革命(工業化)が、周辺化しつつも世界経済において支配的規定力を維持している間は、資本主義と市場経済も支配的社会関係としての規定力を保ち、都市と地方の分割という大構造が膨張し続けるだろう。だがその間も、社会の高次の欲求の増大に支えられて、資本主義と市場経済の下では生きてゆけない絶対的過剰人口部分が、生存の必要に迫られて、新たな社会の在り方を模索する。それは、都市と地方の分割を廃止し、「先進国」の略奪的・寄生的性格を解消する社会システムを構築する道にならざるを得ない。そして、いずれにせよ転回点に至ることになる。
 尚、こうした資本主義的な生産・交換システムの機能不全は、賃労働の搾取に基づく資本家的所有の危機でもある。われわれは、資本家的所有の動揺を、非営利団体、社会的企業、協同組合などの所有形態の拡大に見ることができる。(了)