〔沖縄からの通信〕

11・28知事選
 仲井真陣営の「県外」大転換に、伊波陣営対応できず
   知事権限行使求め闘いは続く
 
 伊波洋一297082、仲井真弘多335708、十一月二八日投票の知事選挙で伊波は、約38600票の大差で敗れた。投票率が60・88%、投票率をあと5〜7%上げることができたら53000〜74000の票数が動き、勝てたのかもしれない。伊波陣営が無党派層の投票率を上げる争点を明確に出せば、両者の獲得数そのものが動いたはずだ。

  争点はどこに

 無党派層の獲得が伊波勝利の生命線で、ここが動かなければ敗北することは、当初から想定できていた。そして、伊波陣営はここを動かす争点を提示しなかった。
 他方、仲井真陣営は、県民の最大の関心が普天間移設問題にあると確定し、「県外」移設を基軸に一切のメッセージを組み立てた。仲井真が知事選に勝つためには、それまでの「県内は困難」という日本政府と沖縄県民との間での宙ぶらりんの姿勢を捨てて、「県外」の旗を立てざるを得なかった。中途半端に立てたのではない。外から見ても本物そっくりに「なりきって」立てたのである。本物以上に本物、という見事な変身をとげた。革新陣営が県内移設反対の長い運動で作り上げた感情やアイデンティティーの、4・28県民大会の黄色のシンボルカラーを含めての、全面的な盗作を行なった。
 この変身は、翁長雄志・那覇市長が仲井真選対本部長を引き受けたことによって明確となった。彼は、従来から沖縄保守政界での「県外」論の中心であり、昨年11・8県民大会、4・25県民大会において革新陣営とともに共同代表をつとめた人物である。
 選挙公報を見よ。仲井真のほうが格段の違いで立派である。それは、「県民の心をひとつに!」と大書きする。「0・6%に74%の米軍基地はもうごめんです!」と書き、「普天間基地は県外へ!」のメッセージに重ねて大きな矢印のイラストを入れ、県外へ捨てるようなイメージを出している。経済政策は読めないような小さな字で、申し訳程度に置いてある。みごとな表現である。
 しかし、伊波の公報はそれと逆だ。「普天間問題きっぱり決着」、ただ一行。そして、「経済振興に全力」と書いて、誰も読みそうにない5項目の経済政策が並んでいる。最大のスペースは「イハ」の文字と肖像写真。とにかく名前と顔を売るという公報である。
 全有権者にもれなく戸別配達される最重要な選挙公報において、仲井真には、沖縄人が心をひとつにして県外移設を!というメッセージがあるのに、伊波にはメッセージが感じられないというのは一体どういうことなのか。
 仲井真の大転換によって、新しい局面が生まれた。沖縄には十二年以上にわたって、ヤマトの意を受けた県内移設派と、県民感情に依拠する県内移設反対派の二大陣営が存在したが、選挙公示の一瞬それが無くなった。この新しい局面に伊波陣営は、反応し、リアクションを取る能力がなかった。
 昨年総選挙で全議席を失った自民党がすでに「県外」に転換し、転換を拒否した島袋が名護市長選で敗北し、転換を果たした島尻安伊子が参院選で勝っている。だから、仲井真と自民党が、転換なき大敗北を選択するはずはなかった。これに対して伊波陣営は、対策をとり、選挙戦略を組み替えることをしなかった。
仲井真陣営の「県外」採用は、普天間問題での県民多数派と表現上一致して分かりやすく、また国民全体で基地負担すべきだとして反ヤマト感情を吸収し、さらには社民・社大と共産との矛盾をも突くという優れものなのである。他方、伊波陣営は、共産党が反対する「県外」を掲げることができず、支持三党が共有できる「国外」、「県内移設反対」を言う以外になくなった。伊波のマニフェストには、「県内」反対とあるだけで、「辺野古」も「5・28」もどうするのか対応が消えている。
 日米両政府に大きな影響を与えるこの選挙に、争点が無いということはありえない。争点が「見えているか」「取り出せるか」、である。争点を見えるようにするのがジャーナリストの責任と言えるが、本土マスコミのみならず沖縄のマスコミも、そうしなかった。とはいえ現場記者たちが、争点の要素を切り出してはいる。「辺野古アセスを凍結するのか」、「埋め立て申請が政府から出されたら、どう対応するのか」などの候補者への質問である。これらの要素は、選対が意識的に扱ってはじめて、見える争点となる。 
 仲井真の「県外」公約と、県民大会の「県外・国外」要求とを、明確に区別するものは何なのか。「県外」の実現のために、実際に知事権限行使を約束するかどうかである。当面の具体的状況では、知事権限としての「公有水面埋め立ての許認可権」を行使するかどうかである。
 仲井真の「県外」の政治的意味は、希望する、政府にお願いするであり、知事権限を行使してこうする、という約束ではない。知事としての主体性の放棄である。今回、翁長那覇市長と仲井真が連帯責任を負う形で「県外」を公約し、簡単に公約を破棄することはより難しくなった。しかし、知事として主体的にどうするかがアイマイなままでは、「日米両政府に反対する知事権限行使はできない」という帰結にたどりついてしまう。
 伊波陣営は、仲井真が「県外」に転じた以上、仲井真が真似ることのできない「知事権限行使」を前面に打ち出す必要があった。というより仲井真がどうであれ、5・28日米合意の以降では、県内移設反対運動の現時点での核心点として、「知事権限」を周知徹底させるべきであった。そうした知事選の戦略が、早くから立てられるべきであった。
 知事権限行使を公約した伊波が勝てば、5・28日米合意はその瞬間に空文化する。たしかに特別措置法制定によって、知事権限を奪うことは法的には可能である。しかし現在の沖縄の到達段階においては、日本政府が知事権限を踏みにじることは政治的には不可能である。「知事権限行使」を争点として知事選を戦うのであれば、伊波が負けたとしても、県内移設反対運動の発展の新しい地平を拓くものとなっていただろう。仲井真には、彼が今後、日米との落とし所に至った時点で強い制約をかけるものとなっただろう。
 伊波陣営は、「ぶれない伊波」をキャッチフレーズとして強調し、仲井真と違って、ぶれない本物の県内移設「反対」候補だというパターンで臨んだが、こんなものは争点でもなんでもない。「反対」とは、選挙に至るまでの運動の型であり、公約ではない。公約とは何を実行するか、である。また、向こうがニセモノで伊波はぶれないと言われても、伊波氏の誠実な人柄などを知らない多数の無党派層にとっては説明にも証明にもならない。「ぶれない」自体は空証文であるから、ぶれないという証明、辺野古の埋め立て申請を許可しないという「知事権限の行使」を公約すればよかったのである。
伊波氏は、選挙戦の間ついに一度も、具体的に明瞭に、この知事権限行使について公約するとは語らなかった。仲井真はもちろん、それを言わない。行使するのかしないのか、これは明白な争点である。争点として大衆化していくことは、これからでもできる。防衛局が埋め立て申請を強行してからでは、遅すぎる。すでに照屋寛徳議員は国会で「特措法を作るのか」と質問したし、下地幹男も言及している。平和市民連絡会では前回知事選の時から議論しているし、今回でも伊波選対本部の隣室の「市民ネット」(市民運動選対)で大声で論じている。何ゆえ選対本部で議論にも昇りえなかったのか、不思議である。

  伊波マニフェスト

選対本部が作った伊波マニフェストでは、その「基地問題」政策で、辺野古新基地建設反対・埋め立て不許可を何ゆえか語らず、ところが「環境」政策において、「ジュゴンや世界有数のアオサンゴ群が生きる辺野古、大浦湾の埋め立ては許可しません」と記している。これでは、反基地において埋め立て許認可権限を争点化することを、意識的に避けたということになる。
この伊波マニフェストの問題について、当山栄氏(市民連絡会事務局長)らも危惧し、選対本部に申し入れを行なおうとした。しかし当山氏はそれを果たせないまま、十二月五日、病気で亡くなられたのである(追悼記事別掲)。
当山氏は、でたらめな辺野古アセスを追及する現場で、こう何回も言ってきた。「ワラにもすがるように一日でも引き延ばすために、アセス反対をやっている。知事選まで引き延ばせば、『埋め立て知事権限』で争い、知事を獲得して辺野古新基地をつぶすことができる」と。これが、彼の三年前からの戦略であった。そして知事選に間に合ったのである。そういう彼であれば、選挙戦での伊波候補のスピーチ、陣営の宣伝内容が気がかりになるのは当然であった。
当山さんの無念を晴らすためにも、この点をアイマイにする訳にはいかない。当面は、仲井真に公約を守れ、の攻めである。辺野古アセスを中止させよ、防衛局の評価書を認めるな、埋め立て申請は不可能の状況をかちとること、である。この過程で、知事権限行使という公約具体化を仲井真に迫らねばならない。闘いは、これからだ。(A)


 追悼 当山 栄さん

   労働運動からテント村村長へ

 追悼、当山栄先輩。当山さんが十二月五日、肝臓がんで亡くなられた。享年七〇歳。
 当山さんも、沖縄戦終結のときは四〜五歳、典型的なカンポーヌクェーヌクサー(艦砲の喰い残し)と言える。おそらくはその時代の少年少女らがそうであったように、米軍の銃剣とブルトーザーでの接収に抵抗した土地闘争、民連運動の洗礼と影響を受けたであろう。
 当山さんの活動の大部分は、官公労(現自治労・県職労)を本拠とした労働運動にある。復帰運動後、それを指導した屋良さんが県政を担ったが、東洋石油反対闘争、与勝CTS反対闘争等々の住民運動は、革新政党、労働運動中央からは異端視されていた。当山さんら官公労青年部の一部はこれを支援していった。それらの必要から労働者連絡会が生まれている。当山さんはその中心メンバーである。
 一方で、防衛庁の反戦地主弾圧に抗するため一坪反戦地主会が生れるが、その創設の中心にも彼はいた。
 時代は平和市民連絡会の形成となっていったが、今日、崎原盛秀さんの後を継ぎ、当山さんが事務局長を担っていた。その任とともに、「辺野古テント村村長」として全生活を辺野古新基地建設反対のために投入していた。
 私の地元本部町でのP3C自衛隊基地反対闘争(八〇〜九〇年代)では、毎週、市民連絡会や労働組合を引きつれて来て、キビ刈りなどの援農をやり、闘いを勝利に導いた。
 当山さんは読書人、研究家であった。辺野古アセスの闘いでは、防衛局のいわゆる「追加修正資料」という長大な代物を読解し、方法書の「修正」に関するアセス法を細則まで読んでいる。ビックリした。
 ハマを訪ねたとき、当山さんが、お日さまの下でテント村の村民の輪の中、民謡で踊っていた。また、ビックリした。この世代の沖縄人は歌えないし踊れない。琉球文化が空白になった時期に生まれ育ったからなのだが。
 あの無口で朴訥な当山さんが真昼間、しらふのままで楽しく踊っているではないか。ここ四十年、お酒も入る幾百の交流会でも、まったく見たことのない当山さんの踊り。私の脳裏に焼きついている。
 当山先輩、踊りながら沖縄の、また労働者の闘いを進めましょう。
                                     12月17日 玉本光昭