社会崩壊の一側面  その6
   
宗教の社会統合力の劣化と混迷
                  
           深山 和彦
             
@採集・狩猟時代の理論的世界


当たり前のことであるが、他の生物種は、宗教を持ってはいない。宗教は、人類が発達させてきた理論的世界に属するものである。
人類は、基本的に労働手段をもって対象的自然との物質代謝活動を行い、労働手段の形態変化をもって対象的自然の変化・変動に対処することから、対象的自然から距離を置いて、したがってその全体を把握し考察し行為することのできる存在になる。それは、対象的自然の中に直接的な身体活動によって組み込まれ、対象世界の中でせいぜい感性的・経験的にしか認識・行動できない生物種一般からの断絶的飛躍を意味する。すなわち、対象世界の諸関係(運動)の普遍的法則に関する理論を構築し、それを実践の指針とするようになる。こうして人間の理論的世界は、労働手段(とりわけその変化・発展)とともに、人間が生きていくための不可欠の要素(武器)となり、世代を継いで継承・発展してきた。
たしかに採集・狩猟時代の人類の生活は、対象的世界に圧倒的に左右され支配されていた。その意味では、他の生物種の物質代謝活動と全く同じであった。労働手段の占める社会的地位と役割は低く、当時の理論的世界は、対象的自然への畏敬の念に色濃く覆われていた。
しかし、採集・狩猟時代の人類の理論的世界を、アニミズム(精霊信仰)に切り縮めるのは誤りである。当時の人間は、実生活の指針となる理論において、その体系性を説明するのに霊的存在を前提とする他なかったからである。それにまた霊的存在への信仰は、特定の血縁共同体が、他の血縁共同体との縄張り争いや自然環境の異変に対処する際にとりわけ問われる血縁的結束と関連して発達してきた理論なのではないか。それを今日の時代の理論と比較して迷信だとかいったイメージで一面的に捉えるのは、誤りであるだろう。

A宗教誕生への道

今から1万2千年前〜1万年前の頃、人類は地球の隅々にまで生活圏を拡張し切る。それとともに人類は、採集・狩猟の対象の枯渇・食糧不足の時代に突入した。当然、異なる血縁共同体の間で縄張り争いが激化したであろう。血縁関係の意識的拡大による氏族や部族など広域の同盟関係が発達した。そうした時代背景の中で、対象的自然との物質代謝の主要な在り方を採集・狩猟から農業・牧畜へと移行させる動きが始まる。
農業・牧畜は、対象的自然を意識的に改造する活動である。それらが、対象的自然との物質代謝の主要な在り方となるにしたがって、意識の上でも、対象的自然との関係の一大転換が起こる。対象的自然の崇敬意識は後景へと退き、対象的自然を征服・改造する意識が前面化してくるのである。
農業・牧畜の大規模化は、道具(磨製石器、金属器、土器、等)、灌漑事業、定住(家屋・集落)などを発達させた。指揮・命令とその下での協働労働の分業の発達、それらの担い手の固定化を生みだした。農業・牧畜の指揮・命令者による剰余生産物の占有・蓄積をもたらした。
これと相互促進的に、異なる血縁共同体の間の交易(分業)が発展したが、これも、血縁共同体の指導層の特権的地位を強化する要因となった。軍事・外交の担い手、生産システムの指揮・命令者が男性であったことによって、男の女に対する支配も形成・確立していった。戦争捕虜は、剰余生産物の蓄積・占有が可能となったことを背景に、奴隷財産化され使役されるようになった。
血縁共同体における私有財産と階級システムの発達は、社会的諸葛藤と交易をめぐる戦争を拡大し、国家の形成を必要ならしめた。国家は、社会的葛藤を抑制し、交易関係を安定させ、私有財産と階級システムの発達(=生産力の発展)に道を開いた。
以上の過程が数千年をかけて進展し、大河の流域などにおいて、巨大建造物や金属器の痕跡を今日に残す「文明」を現出させる。
こうしたことのために、採集・狩猟時代の血縁共同体の理論世界とは本質的に異なる・新たな時代に照応した理論世界が形成されていく。その特徴は、第一に、国家の形成と文字の発明によってその発展が支えられたこと。第二に、採集・狩猟時代の理論的世界の未分化状態を受け継ぎつつも、専門化し高度化する歴史過程に入ったこと。第三に、社会的矛盾の拡大に対処する理論の構築が、緊要の課題に浮上したことである。
そうした中で宗教は、社会的矛盾の拡大に対処する理論を核心に据え、当時の理論世界を総括する地位と役割をもって誕生したのだった。

B宗教の確立と本質

宗教が確立されるのは、今から二五〇〇年前(仏教・儒教)、二〇〇〇年前(キリスト教)、一四〇〇年前(イスラム教)などである。
宗教の第一の本質は、所有欲や支配欲が社会の絆を破綻させている現実を断罪するとともに、古代王朝社会の理想化・模範化(儒教)や人間自身の修行(仏教)や神への服従(キリスト教・イスラム教)によって、行き過ぎた欲望の自主規制と社会的絆の建て直しを、人々に求めるところにある。
儒教は、社会秩序の崩壊に立ち向かうのに、祖先を大切にする伝統的な「孝」の思想を継承し、仁・義・礼・智・信の徳目をもって自己を律する態度を人々(とりわけ国家官僚)に要求した。
仏教は、生きることを「苦」と総括する。そして、相手を思いやる慈悲の思想を立て、煩悩のままに生きることを戒め、輪廻転生(苦)から解脱する(仏陀となる)修行の道を提示した。
キリスト教は、私的欲望の根拠を人間の「原罪」に求める。そして、神の命令に従って「隣人愛」を行ない、贖罪することを人々に要求する。同時に、救世主の降臨と神の国の到来を約束することで、贖罪の実践を促す。
イスラム教は、神の唯一絶対性・全能性を強く主張し、人間を無力な存在だとする。そして人々に対して、強欲を戒め、貧者をたすける態度を奨励し、天国行きか地獄行きかを決する最後の審判に際して頼るべきは神への信仰心の強さだけであると告げるのである。
宗教は、当初、主に支配者や資産家(商人)に受け入れられていく。それは、宗教が、血縁共同体の共同性を裏切っていることから生じる彼らの後ろめたさや苦悩に応えるものだったからであり、同時に血縁共同体の拘束(狭い共同性)を超えた新たな結びつきの在り様を指し示したからである。彼らはそこに、市場経済・私有財産・階級システムという彼らの立脚する当時の先進的システムが、行き過ぎた所有欲・支配欲の自主規制と引き換えに、社会的に積極的な形で肯定されていく可能性を見出したのである。
宗教の第二の本質は、社会を維持する上で必要な所有欲・支配欲の一定の自主規制と社会的絆の建て直しを人々に要求する際、社会から超越した神秘的存在の力への信仰に依拠しているところにある。
その最大の理由は、次の点にあるだろう。
宗教誕生の当時にあっては、所有欲・支配欲がそこから湧き起こる階級システム・私有財産制度・市場経済は、農業・牧畜を発展させ、採取・狩猟時代の生活水準からの離陸に道を開く先進的システムであった。だが、血縁共同体を維持する立場からのそれら先進システムに対する批判は、反動的であった。このため社会の内部に、社会の絆を維持する力を、明示的な形で見出すことができなかったのである。そうした中で宗教は、神秘的存在の力への信仰に依拠する仕方で、社会秩序を維持する課題に対処したのである。
社会がその構成員にとって制御できないものへと変貌していたことが、神秘的な存在の力への信仰が生まれる新たな土壌となった。
宗教の第三の本質は、その確立以来、国家との間に、役割分担・分業関係があるというところにある。
国家と宗教は、支配階級の利益に奉仕するとともに、社会的諸矛盾が激化して社会が崩壊することのないようにする役割を担っていた。国家は主要に政治的な関与として、宗教は主要に人々の思想に関与する仕方で、その役割を担っていたのである。
宗教は、血縁共同体の母斑をつけたままの都市国家(その連合体)を克服し、領域国家(大帝国)が確立される一大戦乱の渦中で確立された。それは、血縁共同体の母斑をつけたままの過渡的宗教との激しい闘争を介して確立された。
樹立された領域国家(大帝国)は、支配の安定のために、新たに誕生した宗教を必要とした。この宗教は、氏族(血縁共同体)連合国家から中央集権国家への移行期に、氏族的信仰を超える・王権を支える信仰となって台頭した。この宗教は、氏族(血縁共同体)の紐帯が弱まる中で、新たな社会的紐帯の形成を促進する信仰(世界観)が求められていたことによっても台頭した。血縁共同体の母斑をつけたままの旧来の信仰は、あるいは根絶され、あるいは包摂され、あるいは社会の片隅に追いやられた。
普遍宗教は、大帝国(領域国家)のイデオロギー的支柱となる。そして大帝国の発展を背景にして、また大帝国の優位文化を武器にして、また宗教それ自身の理論水準の高さをもって、信仰地域を広げた。だが大帝国の地理的・歴史的な限界は、「普遍」宗教の地理的広がりと内容とに刻印されることになる。

C宗教の存立が問われる試練

そもそも宗教は、所有欲・支配欲の行き過ぎを戒め、社会の絆の重要性を説き、人々の苦悩をケアする必要から生まれたものである。その意味では、社会が壊れようと人々が孤独化し生存できなくなろうと感知しない巨大投機マネーの跋扈する今の時代は、宗教の出番であると言える。
しかし宗教が、今日の社会の崩壊に対処できるか否かは、別問題である。今日の社会の崩壊は、既に見てきたように根底的なものである。そうした中で宗教もまた、その存立が問われている。
第一は、社会の絆の大切さを説いて、所有欲・支配欲の行き過ぎを戒めるという宗教の本質が、桎梏に転化しだしたことである。
 かつては、所有欲・支配欲は、物質的豊かさの実現という社会(人々)の欲求を実現する生産力発展の推進要因として作用した。それら自身が社会にとって必要なものだったのである。問題は、それらの「行き過ぎ」であり、それが社会の絆(その基礎としての協働労働関係)を破壊してしまうことだった。そこに、社会の絆の大切さを説く宗教の役割があった訳である。
 しかし既に見たように、今日の資本主義システムのうちで支配的地位を獲得した巨大投機マネーは、社会の絆(その基礎としての協働労働関係)から遊離した「資本」であり、そうした社会の絆の破壊をもって自己を肥大化していく「資本」だということである。まさに「行き過ぎた」所有欲・支配欲を本質とする資本なのである。こうした巨大投機マネーの時代の到来は、宗教が想定していない事態である。
 宗教は、「行過ぎた」所有欲・支配欲と対決する態度を堅持すれば、自己が擁護してきた階級システム・私有財産制度・市場経済の現代的形態であるカジノ資本主義の廃絶を目指すことになる。自己が擁護してきた制度をひきつづき擁護しようとすれば、当該宗教の堕落と腐敗、そして反動化へと帰結してゆかずにいない。この現実からカルト集団的に逃避する動きも含めて、混迷・分散を深めてゆくだろう。
第二は、宗教の本質である神秘的存在の力への信仰が、もはや不必要となる時代に入ろうとしていることである。
神秘的存在の力への信仰は、人間を所有欲・支配欲にまみれた存在、無力な存在であり、救済の対象であるとする思想と表裏をなしている。
しかし今日、救済の対象であった人間自身が、所有欲や支配欲の実現でなく、絆の豊かさの実現を欲求し、相互扶助社会づくりへと動き出している。人間(社会的諸関係および対象的自然との関係)の豊かさの実現の一歩一歩は、神秘的存在の力への信仰に頼る必要性を消滅させていくことになる。
神秘的存在の力への信仰と、所有欲・支配欲を超えて相互扶助社会をめざす人々の運動を推進することとの矛盾、宗教はこの矛盾を抱えることになる。
第三は、宗教が、国家との不可分の関係を媒介に、世界(社会)の分裂と崩壊を促進する立場へと転落しつつあることである。
宗教は、「世界宗教」「普遍宗教」といわれるものにおいても、真に世界的であったり、普遍的であったことはない。それというのも、たしかにそれらは、民族宗教や氏族信仰をこえた世界性・普遍性を有するが、あれこれの大帝国のイデオロギー的支柱となって発展した歴史的現実が自己のうちに刻印されているからである。
今日、超大国アメリカは、巨大投機マネーの略奪的膨張運動(=社会破壊)を支える反テロ戦争を継続している。アメリカという国家とリンクするキリスト教は、この社会破壊的な世界戦争に、好むと好まざるとに関わりなく加担する関係に置かれる。宗教問題が噴出し、社会的対立を先鋭化させる。宗教的精神世界もまた、混迷の淵に投げ込まれる。