〔書 評〕
    創られた「日本の心」神話
       ― 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史
                        著・輪島 裕介(光文社新書 10・10・20刊)

   通俗をもって文化の実相に迫る

 歳をとってきて体力衰え、日々の仕事のきつさが増してきて、根をつめるような読書とは縁遠くなるばかりですが、この本は一気読みでした。それもそのはず、なにしろ話題が話題です、誰だって知っているぞの流行歌ですから、すいすい読めます。
 この本は、まずもって大変おもしろい「雑学本」です。
たとえば、石川さゆりさんの「《天城越え》は、カラオケによって素人でも歌える単純な曲ばかりが売れる潮流に反発して、プロにしか歌いこなせない難しい曲を作る、というコンセプトで作られた」にもかかわらず、「その難易度の高さゆえに、むしろカラオケ愛好者にとってのクリアすべき『課題曲』」になってしまったとか等々、へぇーそうだったんだ的な話が随所に出てくるのです。
第二に、この本はスリリングでもあります。たとえば、歌謡曲を戦後のアメリカ化によるものとして和洋折衷のこんなジャンルは日本だけだとする、ありがちな主張を端的な誤りとして切って捨てます。輪島さんは生真面目な学問的姿勢で、バッサリ一刀両断するのでスリリングです。
しかし、この本は、雑学的話題や、語り口の切れを提供することを眼目としたものではありません(副次的にはそうかもしれないが)。
この本の主題は、流行歌の中の「演歌」という分野の消長を参照事例として、「文化」というものの実相を解明することだろうとおもいます。そしてそのために、書名の示すとおり、「演歌は日本の心の歌」という「常識」が作り話=「神話」であることを豊富な例証によって明らかにしています。
ここでそれを拙く要約するよりも、実物を読んでくださいという方が適切なのでしょうが、それでは紹介にならないかもしれませんので、以下は「対抗文化」に関わる部分を紹介して蛇足とします。
五木寛之さんが「演歌」と命名したのは、「泣くかわりに歌うことで、孤立した人々が耐えて生きていくうえでの糧となる」ような歌だが、そうした「演歌」としての藤圭子さん《圭子の夢は夜ひらく》(元歌は練馬少年鑑別所の口承歌)が、1970年前後の層としての「対抗文化」趣味に後押しされて大ヒットとなり、それで「演歌」を商売になると見てとった音楽産業(レコード業界・放送業界)にこれが取り込まれ、小柳ルミ子さん《私の城下町》へと転化して、そこから国鉄の「ディスカバリー・ジャパン」キャンペーンという「反西洋近代」気分に便乗した復古的日本賛美の国策さえ、その「演歌」から派生したこと。
また、商売になるという動機で演歌に傾倒した音楽産業が、70年代末以降は同じ動機で「流行歌謡=カラオケで盛り上がれる歌」に商品移行して、「演歌」という分野の存在根拠が希薄化する中、演歌を「文化遺産」として同時代から分離しようという動きが登場した(NHK「歌謡コンサート」がその典型だそうです)こと。輪島さんのこうした問題整理は、目からウロコの鮮やかさで感心しました。
ところで、「対抗文化」というのは死語のはずですが、今現在どうなんでしょうか。
「体制問題では異論はないが文化問題では異論がある」なのか、「体制問題で異論ありだけど、正面突破は得策でないという判断に立って文化方面から攻め込む」なのか。前者ならハァそうなんですかで終わりですが、後者なら「試合で勝てなきゃ場外乱闘で溜飲を下げる」の類の話です。ちゃんと前を見なさい、です。
「文化」とは、種々雑多な生活の在り様の中から、ある特定のものが選択されて「様式」として形成されるという動態に違いないとおもいます。
たとえばモータリーゼーションは、当初は、自動車という道具が多数によって選好されたことは多分その通りだとおもいますが、その後の世代にとっては選択不能な、好むと好まざるとにかかわらず順応しなければ生活に支障をきたす、そのような様式へと形成された(フォードは、それを廃棄するために鉄道を買収した)という意味で、まぎれもない「文化」でしょう。日本の衣料の「洋装」もしかりです。和装の衣料品店(呉服屋さん)は洋装店の千分の一もないでしょう。
「文」すなわち「生活様式」、「化」すなわち「形成する」なのです。
だとしたら、「文化」に別の「文化」で対抗するとはどういう意味をもつのでしょうか。ある特定の「様式」を打破しようとする時に、何らかの別の「様式」を対置するというのがどういう意味をもつのか。
「様式」とは規制であり秩序です。熱力学にアナロジーすれば低エントロピー化です。そして低エントロピー状態は、エントロピー増大則に逆らってその秩序立てを保つために緊張を強いられるし、その緊張を維持するためにエネルギー浪費的な性格を持たざるを得ません。様式に単に別の様式を対置するだけでは、こうした緊張と浪費を不問に付すことになりはしないだろうか。
そういうわけでこの本は、哲学する楽しみまで喚起してしまう刺激的な本でもあります。それでいてスイスイ読めるので、この本は、通俗本の型式をもってする「通俗」研究(ポピュラーサイエンス)の本なのです。泣く代わりに軽い読書の息抜きで耐えていこうという人たちには、お勧めしたい一冊です。(労働者共産党「高座派」N)