社会崩壊の一側面 その5

ブルジョア社会の価値観の混迷(続)
                                  深山 和彦
       

     私有財産権と等価交換原則の動揺

私有財産権と等価交換(市場経済)原則は、ブルジョア社会の経済生活を成り立たせている基本的価値観である。たしかにそれらは、産業(労働手段)と物流の発展にとっては、極めて適していた。まさにそこに、私有財産権と等価交換原則の歴史的役割があったといえるだろう。
今日、産業(モノ)から人間(関係)の豊かさへの社会的欲求の重心移行とともに、情報ネットワーク、生活(育児・教育・学習・医療・介護)、地球環境保護などの領域が、社会の基幹的活動領域へと浮上してきている。こうした領域においては、私有財産権や等価交換原則は適さない。
情報ネットワークの領域を見てみよう。
そもそも情報は、その基礎たる言語がそうであるように、共有してこそ意味あるものである。情報ネットワークの発達にとって、信頼と善意に基づく適宜で積極的な無償の情報提供が不可欠なのである。
情報の私有(占有)と商品化は、社会的には協働と連帯を阻害する。情報が私有物で売買の対象であるならば、有害・欺瞞情報のたれ流し、私利・私欲による情報の利用、有益情報の提供の躊躇・拒否が広がり、せっかくの情報ネットワークもそれが有する潜在的可能性を現実化することが出来ない。そのことは、ネットワーク社会において重要な「個人情報」の扱いにおいて、端的に現れる。
だが情報ネットワークの発達は、情報の無償提供と公共財化への欲求を高めずにいないし、現にその流れが拡大している。これに対して、私有財産権と等価交換原則というこの社会の支配的な価値観は、「知的所有権」の防衛という形で自己の覇権の危機に対処している訳である。
しかし、経済が情報化すればするほど、公共財であるべき情報を私有物なり商品として扱うことの反社会性が浮き彫りになってこざるを得ない。
生活(育児・教育・学習・医療・福祉・介護)の領域を見てみよう。
人間(社会)は、生存を計る上で不可欠な・対象的自然の変化に対処する仕方において、他の生物種と根本的に異なる。人間(社会)は、他の生物種のように自己の身体的変化を持ってするのではなく、労働手段の変化・発展をもってするのである。そのことは、人間社会における育児・教育・学習・医療・福祉・介護の領域の発達をもたらしたのだった。
とはいえ、労働手段(産業)の時代とでもいうべきここ数千年の階級社会の時代においては、労働手段(産業)を占有し労働を指揮する階級が育児・教育・学習などの領域での特権的地位を享受してきた。被支配階級は、これらの領域の活動において、労働力(奴隷労働)の再生産に必要とされる最低水準しか許されなかった。
ブルジョア社会では、労働者階級の生活水準は、市場での等価交換原則によって決まる労働力の再生産費に限界付けられてきた。そして今日、失業・半失業状態を強いられる労働者の増大によって、この労働力の再生産費は、大きく低下してさえいるのである。
しかし現代は、産業が成熟した時代に入っており、モノから人(関係)へと人々(社会)の欲求(目的)が大転換する時代を迎えている。これからの社会において、育児・教育・学習・等々の諸活動は、人間(関係)の豊かな発展を保証する基幹的活動となる。そこでは階級社会が被支配階級に強制してきた・労働力(奴隷労働)の再生産に必要とされる最低水準は、最早問題にならない。人々は、人間を目的とする時代の現実性が高まる中で、私有財産権・等価交換原則が強制する生活水準に制約されることの不合理に気づき始めている。
そもそも、人の成長を支援したい、苦しい状況にある人や破壊される自然を何とかしたいという感情は、人間が関係の中でこそ生きていける存在であることに根差した・自然な感情であるだろう。しかし、私有財産権と等価交換原則の下では、対価を受け取れないから教えない・治療しない・介護しない・見て見ぬふりをするという態度が社会的標準となる。そうした中で資本は、この領域を搾取領域に転化する。資本は、苦しい状況にある人や病んだ自然を前にして生ずる自然な感情さえも利用して、労働者に低賃金・長時間労働を強いるのである。
人間(関係)の豊かさを実現するための諸活動は、対価を要求しない社会的貢献の精神から発せられて初めて、実効性を持つものである。こうした活動は、個別的に見れば「贈与」であるが、社会総体で見れば「相互扶助」になる。こうした諸活動の発展は、私有財産権と等価交換原則の価値観と衝突し、価値観の転換を醸成せずにはいない。この転換は、すでに始まっているのである。
他方、私有財産権と等価交換原則の価値観は、ブルジョア社会の価値観として確立した当初の社会=経済的基盤を失い、漂流しだしている。
従来の私有財産権と等価交換原則の価値観は、基本的にモノの生産・流通に立脚していた。そこでは基本的には、資本の価値増殖は、私有財産権と等価交換原則の上に実現される仕組みになっていた。
だが今日、モノの生産・流通に立脚しない投機マネーの価値観が、私有財産権と等価交換原則を土台としながらもそれを否定するものとして台頭してきているのだ。投機マネーの自己増殖運動は、新たな社会的価値を生産するものではない。賭博によるあからさまな略奪行為である。私有財産権と等価交換原則を侵害する行為であり、資本主義を支えてきた価値観を資本自ら台無しにするものである。
賭博を介した単なる略奪を正当化する価値観は、敗者を「自己責任」論で切り捨てる価値観を含む。そうした価値観は、自分さえよければという自己中心主義的価値観を蔓延させる。こうした略奪経済の正当化、自己責任論、自己中心主義などの価値観は、社会を否定する価値観に他ならない。それはそれで、社会の価値観を混迷させているのである。
地球環境保護の領域を見てみよう。
地球環境は誰のものでもなかったし、したがって売買できるものではなかった。たしかにそうした観念は、私有財産権と等価交換原則を脅かす強力な批判ではある。
しかし、そうした観念は、批判の武器としては限界がある。なぜなら、財産権と市場経済の発展が果たした歴史的役割−産業の発展と物質的豊かさの実現−を無視するものだからである。
そもそも「地球環境は誰のものでもなかったし、したがって売買できるものでもなかった」という観念は、ブルジョア社会の価値判断を含んでいる。大昔の人々は、対象的自然に支配されていた存在であり、対象的自然を所有や売買の対象として思考することのできる存在ではなかったのである。
産業発展、階級対立、国家の時代になると、対象的自然は支配・征服の対象となった。所有や売買の対象になったのである。そしてブルジョア社会になって、私有財産権と市場経済(等価交換)原則が社会の基軸をなす価値観として確立する。
ブルジョア革命は、労働手段の所有を身分制度や血縁共同体の縛りから解き放ち、私有財産(労働手段)を資本として自由に自己増殖させることのできる道を開いた。またブルジョア革命は、労働力を農地への身分的緊縛から解き放ち、賃金を媒介に労働手段と結合させて資本の自己増殖運動を担わせる道を開いた。こうしてブルジョア革命は、嵐のような工業発展時代を開いた。それは、地球環境破壊の時代でもあった。
そして今日に至り人類は、産業を成熟させ、地球環境限界へと逢着し、人間(関係)の豊かさへの欲求を高め、新たな社会を創造していく時代に足を踏み入れようとしているのである。そこにおいて「地球環境保護」は、人間(社会的諸関係および対象的自然との関係)の豊かさへの欲求(=新たな社会の目的・価値観)の一側面を構成しているのである。
だが現在は依然として、資本の自己増殖運動が牽引する地球環境破壊が拡大し続けている。資本の自己増殖運動を保障している私有財産権と市場経済(等価交換)原則が、固守されているからである。このため、この領域での価値観をめぐる葛藤も、ますます深刻になっていく。

     「権利」信仰の動揺

「権利」は、私有財産権・等価交換原則を土台として、ブルジョア社会の基本的な価値体系を形成しているものである。この社会の構成員は、「権利」をもって、あるいは自己の要求を正当化し、あるいは自己の利益を防衛するのである。
誕生したばかりのブルジョア社会においては、「権利」を有する「市民」は、財産を所有する階級の成人男性に限られていた。また、被抑圧民族はこれから排除されていた。
機械制大工業の発展時代になると、労働者階級の階級闘争の発展を背景に、労働者人民が団結権・団体交渉権・団体行動権などの自由権や労働権・生存権などの社会権、あるいは参政権などの政治的諸権利を獲得していった。女性が、普通選挙権を獲得していったのもこの時代である。被抑圧諸民族は、民族自決権を獲得し、植民地の独立を実現していった。これらは、産業の発展・物質的富の増大を背景とした民衆の側からする分配改善要求でもあった。
一九七〇年代初頭の頃、産業の成熟と地球環境限界への逢着という事態が現出し、人間(社会的諸関係および対象的自然との関係)の豊かさ実現への欲求が高まり、世界は人間を目的とする時代への移行過程に入る。就労と失業への分割および分業の各分節への緊縛からの解放欲求を土台に持つところの人間(関係)の豊かな発展への欲求は、女性の性別役割分業からの解放欲求をはじめ様々な社会的差別からの解放欲求として、澎湃と湧き起こった。
だがそれは、とりあえず、この社会の価値観である「権利」の新たな拡張要求として発現する。人々の欲求は、ブルジョア社会においては、「権利」という形で、国家権力による排他的就労・生活圏の保障をたたかい取る以外ないからである。
だが「権利」とは、排他的な縄張りに他ならない。被差別層の「権利」が拡張されようと、就労と失業への分割および分業の各分節への隷属という社会構造そのものは不変のままである。人間(関係)の豊かな発展−就業と失業および分業の各分節への自由な相互乗り入れ−は実現されない。
実際、「権利」が持つこの限界の故に、被差別層の「権利」は政治的に不安定である。被差別層の「権利」は、それを拡張してゆけば、支配階級の私有財産権と市場経済(等価交換)原則、さらには社会的多数派の「権利」をも制約して、彼らの反発を呼び起こす。また中間層の人々は、自己の生活が危殆に瀕するとき、往々にして下層の人々や社会的マイノリティーの諸権利の解体へと向かう。現に今日、そうした傾向が顕在化してきている。
そのうえ現代は、個人に属する「権利」が比重を増している時代である。労働者の団結権さえも、個人の「権利」の伸張の前に掘り崩され相対化している。社会は、個々人の「権利」と「権利」が角突き合わせる場となり、人と人のつながりが希薄化・消滅する社会となっている。まさに「権利」というブルジョア社会の価値体系が、社会を崩壊させる一要因となってきているのだ。
人々は、「権利」を盾に自己の存立と発展を確保する在り方を続けているが、それへの信仰を動揺させ出している。こうした中で今、「権利」の狭い枠を打ち破り、人間(関係)の豊かさの実現を目的とにする価値観を政治的に浮上させることが求められているのである。