社会崩壊の一側面

ブルジョア社会の価値観の混迷
                                 深山和彦

社会が成り立っていくためには、生起する諸問題を処理していく際の共通の価値観というものが必要である。この領域においても社会は、今日、ブルジョア社会の形成とともに打ち立てられた「経済成長」、「自然科学」、「私有財産権と市場経済」、「権利」などへの信頼(信仰)の動揺によって、混迷を深めている。ここでは、前二者の動揺を採り上げる。

  @「経済成長」への信頼の動揺

 今日、「先進国」の支配階級は「経済成長」の回復に躍起となっている。その背後には、「経済成長」の時代が終わろうとしている現実があるのである。
 しかし、資本はそれを認める訳にはいかない。なぜなら、資本とは、労働手段を占有する一握りの人々が、剰余労働(価値)を取得する目的で、労働手段を持たぬ大多数の人々を、賃金と引き換えに自己の指揮命令下で生産活動に従事せしめる関係の永続的な拡大再生産運動だからである。またそれは、一定規模以上の自己増殖によってのみ、自己が生み出す失業人口を繰り返し生産過程に吸収し、社会を維持することの出来るシステムだからである。それゆえ支配階級は、いまや幻想でしかない「新産業」の育成策や、既存の製品への過剰な機能付加や、効果がなくなった財政出動や、さらには戦争の発動までありとあらゆる策を弄して、「経済成長」を維持しようとする。その際に利用されるのが、経済成長は永遠に持続可能なことであり、雇用を増やす等々に不可欠であるという産業発展時代に培われた「経済成長」への信頼である。
 しかし今日、そのような「経済成長」信仰は揺らぎ始めている。「経済成長」の本質的内容を構成する産業(労働手段)の発達が成熟段階に到達し、先進諸国から市場の飽和が広がる時代に入ったからである。そして産業(労働手段)の成熟が、さらに次の三つの事態を引き起こしているからである。
一つは、慢性的な過剰生産である。一方において貨幣資本の過剰化とその投機マネーへの転化が、他方において失業人口の中・長期的な不可逆的増大が進行している。二つは、社会(人々)の目的(欲求)が、物的豊かさの実現から人(社会的諸関係と対象的自然との関係)の豊かさの実現へと移行し始めている。三つは、社会が、産業(労働手段)の大きさと在り方を新たな時代の目的に意識的に合致させていかないと、存立基盤である地球的自然を破壊してしまうところに来ているということである。「経済成長」の時代が終わろうとしているということである。
これまで社会を主導してきたのは、資本の拡大再生産という形態もってする産業(労働手段)の拡大再生産運動であった。資本の拡大再生産は、階級関係の拡大再生産でもあった訳だが、それが社会の物質的豊かさを実現することの中で階級矛盾を繰り返し包摂してきたのだった。その時代には、「生産力の発展」は階級的立場の違いを超えた社会の目的(善)だったのである。
 だが今日、「経済成長」の時代そのものが終わろうとしている。産業(労働手段)が成熟し、環境限界に逢着し、社会(人々)の欲求が高次化し始めたからである。民衆の間に「経済成長」信仰から脱却する意識が広がり出しているのである。
これに対して資本は、依然として「経済成長」への信頼(信仰)を、あるいは露骨に、あるいは民衆の新しい欲求を取り込む仕方で、社会の支配的価値観として維持しようとしている。資本は、「新しい成長」「持続可能な成長」といういかがわしい価値観(=幻想)をもって民衆を欺瞞しつつ資本の蓄積競争を続け、社会と地球環境の破壊へ突進しているのだ。
「経済成長」信仰は動揺しだしているが、それに置き換わるべき価値観が体系的に形成されておらず、価値観の混迷状況がつくりだされている。この価値観の混迷の中で、産業の成熟時代に適合した社会の在り方を創造する運動が広がることのないまま、資本主義の存続によって社会の崩壊という事態が現出してきているのである。

  A「自然科学」への信頼の動揺

 自然科学は、産業革命を先導し、そのことによって社会的信頼を確立した世界観である。17世紀に打ち立てられた自然科学の科学としての成立条件は、次のようなものであった。

 第一は、人間(社会)と切り離して対象的自然を扱う。第二は、対象を扱う際、最小構成要素に分解し、できるかぎり質的側面を捨象して量的側面だけを採り上げ、量的変化の法則を解明する。第三は、実験・検証によって法則の正しさを証明する。
 自然科学の究極形態は数学であった。数学は自然科学の領域で覇権を拡張していく訳だが、物理学におけるその成功が決定的であった。数学が物理学で成功したのは、その対象(宇宙と原子の世界)が、人間(社会)から最も離れた世界であり、質的側面(複雑性、多様性、豊かさ)を限りなく捨象した最小構成要素から成り立つ世界であり、質的発展を無視して繰り返し実験・検証しうる世界だったからである。
 自然科学の基軸は、物質の形態変化と位置変化の法則性を解明することにあった。したがってそれが、物質の形態変化と位置変化を実現する装置である労働手段の飛躍的発達を導いたのは、当然のことであった。また逆に労働手段の発達は、人間(社会)の対象的自然を解明する能力の発達を意味し、自然科学の発達を促進した。
 しかし、産業(労働手段)の発達が成熟段階に到達し、また同時に人類社会が環境限界に逢着したことによって、そうした中で人々(社会)の欲求が物的豊かさの実現というレベルから人間(社会的諸関係および対象的自然との関係)の自由で豊かな発展・相互扶助社会の実現へと離陸する時代に入ったことによって、自然科学が無条件的に信頼され、その発達が無制約に推進されてきた一時代も終わろうとしているのである。
  イ)自然科学の「人間(社会)と切り離して対象的自然を扱う」側面が揺らいでいる。
 人間(社会)と切り離して対象的自然を扱うということは、対象的自然を支配・征服の対象とする態度の理論世界における現われである。当初、自然科学は、人間(社会)への反作用を考慮することなく、何の制約もなく発展することが出来た。
だが今日、自然科学は、コンピュータの発達をテコに人間(社会)の存立に関わる領域へと踏み込んでいる。端的には、人間(社会)を外的に消滅させることのできる「核力」を操作しうる領域、人間(社会)の生命的根源「遺伝子」を操作しうる領域、人間(社会的諸関係および対象的自然との関係=自己)の在り方を司る「脳」を操作しうる領域である。人間(社会)と切り離して対象的自然を扱うという態度をこれ以上一人歩きさせることが、人間(社会)の存立にとって危険な段階に入っているのである。
これに対して、人間(社会)を大切にする見地から、自然科学の伝統的な在り方を見直そうとする動きが増大して来てはいる。しかし支配的地位にあるブルジョア階級が、利潤を目的とする立場から、その前に立ちはだかり、自然科学の無制約的発展を擁護し、推進し続けているのである。人間(社会)への脅威は確実に高まっている。
 ロ)自然科学の「対象を扱う際、最小構成要素に分解し、できるかぎり質的側面を捨象して量的側面だけを採り上げ、量的変化の法則を解明とする」側面が揺らいでいる。
 自然科学は、専門分野へとますます分割され、各専門分野は独立王国化して相互の協力関係を希薄化させ、数式(量)の世界に埋没してきた。自然科学のこの在り様は、社会科学を含む学的世界全体に浸透した。例えば経済学は、社会(人々)の経済生活を商品(価値)の運動に転倒させ・切り縮めて扱う態度を良とし、またそうすることで他の専門分野との関連をも切断してきたのである。
自然科学に代表されるこうした特徴は、産業の時代が終焉した今日、根本的転換を迫られている。
生産力の発展・物的豊かさの実現を目指した時代には、対象(モノ)を要素に分解して、要素ごとに扱う態度は、問題なかったし、目的にかなってもいた。しかし今や、人間(社会的諸関係および対象的自然との関係)の豊かさの実現を目指す時代になろうとしている。主たる対象は、モノではなく人間だ。人間をモノとして、要素ごとに分解して扱う態度をもってすれば、人の苦痛と社会の軋轢を引き起こす。
人々(社会)の新たな欲求の高まりが、起動力となって科学の在り方にも歴史的転換を促しているのである。人間の欲求(実践的意志)を尊重し、人間をトータルな関係の中で捉え、諸専門分野の枠を超えた連携によって対処する態度が求められてきているのだ。
だが資本主義が、この変化の前に立ちはだかる。
そもそも資本主義は、賃金を媒介として成立する一つの支配隷属システムであり、利潤を目的とする・人間を手段とするシステムである。今日台頭してきている・人間(社会的諸関係および対象的自然との関係)の自由な発展への欲求は、このシステムを否定するものなのである。それゆえ資本は、人々(社会)の欲求の変化に応えようとはしない。自己の存立のために、人々(社会)の欲求の変化を一定取り込むだけなのだ。
資本のこの態度は、自然科学の在り方にも支配的影響を及ぼす。その結果、自然科学は人々の要求に立ち遅れ、社会との軋轢を拡大しているのである。
ハ)自然科学の「実験・検証によって法則の正しさを証明する」側面が揺らいでいる。
自然科学は、「実験・検証」によって、理論の正しさを確認しなければならない。実験・検証によって確認されてはじめて、ある理論が科学的理論として認められる訳である。「実験・検証」によって、自然科学は、正しい世界観であることを自己保障し、社会的に信頼され、権威を獲得してきたのである。
しかし実験・検証を科学であることの条件とすることは、実験・検証において再現することが可能な事象のみを科学の対象として、あらかじめ限定してしまうことを意味する。この条件から外れる対象の最たるものは、人間(社会)である。
それでも人体に関わる領域では、人体実験なる言葉も残存しているように、実験・検証が可能であり、為されてもいる。しかし、人間の社会関係の領域になると、実験・検証が意味を成さなくなる。なぜなら、この領域においては、実験・検証という人間の行為自身が、人間の社会関係を多かれ少なかれ変動させてしまうため、繰り返し全く同じ条件下で実験・検証することは不可能だからであり、したがって同じ実験・検証結果を得ることも期待できないからである。
さらにより本質的なこととして、人間の社会関係は、人間にとって発展するものとして在るということである。つまりそれは、基本的に、歴史性をもった対象として在るということである。このような再現不可能な対象には、実験・検証はそもそもなじまないのである。
こうしたことは、厳密に言えば、自然科学の対象との関係においても、当てはまることである。とはいえ宇宙界は、人間(社会)にとっては、自己の行為の影響と物質の発展運動的側面を、基本的に無視できる世界である。そこでは、実験・検証が自然科学の正しさを自己保障する武器となりえたし、絶大な威力を発揮してきたということである。
ともあれ人間社会を対象とする科学においては、自然科学におけるような再現可能な実験・検証はなじまない。社会を対象とする理論は、人々による社会関係の変革とその結果の総括によって検証される。これは実は、ほとんどの人が生きていくために日常的にやっていることである。ただ、社会的な規模で、目的意識的に為されるレベルには至ってはいない。それは、支配的システムである資本主義が、社会変革理論の検証・発展と本質的に矛盾するからである。
産業が成熟し、人間(関係)の時代へと歴史的変化が進行する現代において、実験・検証が威力を発揮する範囲は、ますます狭くなり、かつ、高度(非日常的)なものとなっていく。実験・検証の権威は、相対化し、人々の日常的意識の副次的部分に自己の位置を保持していくことになる。その穴を埋める科学的な検証方式は、まだ社会的に確立していない。価値観の混迷の時代である。(了)