大木よね婆さんと共に戦って
        寄稿・三里塚闘争覚書 〔上〕
                                      加瀬 勉


  強制代執行を受けた三里塚のよね婆さん

日本の政治は誰のためにあるのか。三里塚のよね婆さんのためにあるのである。戸村一作反対同盟委員長は、「大木よね婆さんは日本一の貧乏である」と言っている。私もそう思う。政治とは貧しい人たちが、生活がよくなり毎日安心して暮らすことができるための温かい人間的なぬくもりのこもった施策と、それを保障しうる社会体制をつくることにある。
貧困と差別、この世の中のあらゆる辛酸を嘗め尽くして生きてきた一人の老婆に政府は強制代執行を行ない、すべてを破壊し奪い尽くし、大木よねの心を破壊したのである。鬼畜のなせる業である。大木よね婆さんの強制代執行阻止闘争(1971年9月20日)は、よね婆さんと石井武さん(東峰)と私の3人であった。私はこの闘争を経験してから、この世の中には自分の命をかけても守るべき価値のあるものが存在することを実感として知ったのである。

  毎日生死隣り合わせの生活

 私は、強制代執行問題がおきてから三里塚取香の大木よねさんと一年あまり生活をともにしていた。「婆さん、風邪をひいて熱がでたらどうしているの」と尋ねたことがあった。「起きて、庭を這ってゆき釣瓶井戸で水を飲み、また庭這って来て寝る」と言葉が返ってきた。大木よねさんにとっては、風邪をひき熱をだすことは餓死することを意味しているのである。私には、健康保険もあり、親弟妹もいて親戚も沢山あり、困ったときには隣近所、同級生も見舞いにきてくれる。富山の置き薬も用意してある。大木よねさんには何もない。無一物なのである。
 水田は2畝、畑5畝、屋敷3畝それも地主藤崎の名義になっており、そのために藤崎の家の子守、労働力として暮らしてきた。空港反対闘争に参加して同盟員となり、東峰、天神峰の同盟員の農作業を手伝い食事をごちそうになっていた。金銭の収入はないのだから家の周りの野草や筍、ザリガニ、どじょう、タニシなど自然のものを採って食べていた。今はやりの金持ちの自然食ではない。大木よねさんは反対闘争とめぐり合って、そして支援の人たちと家族として暮らすようになって少し生活に温もりをもつようになった。大木よねさんは反対闘争が楽しそうであった。

  よね婆さんと暮らしを共にして

 代執行が行なわれることがはっきりしてきたので、私はよね婆さんと共に暮らすことにした。よね婆さんの家は9尺2間の四本柱の掘建て小屋であった。畳み一枚ぐらいの寝床があって、食事のしたくは山の下の釣瓶井戸のところでやっており、鍋、茶碗が少しあるだけで、着の身着のままの生活であった。支援の人々が生活するようになって庭に団結小屋が立てられて、私をはじめ、佐山、平野、西、大西、松本さん、鬼沢さん、喜屋武さん等が泊まり、出入りして大木よねさんの面倒をみていた。これらの人々は、中国や毛沢東思想に親近感をもつ日中派と呼ばれている人々であった。この人たちは三里塚の白毛女・大木よねさんに尽くし、生活は中国八路軍の三大規律八項注意の思想を追求していた。
 代執行阻止闘争を闘うにあたり、反対同盟や支援は、大木よね宅に大砦・大要塞をつくり立てこもって徹底抗戦の方針であった。私はこの方針に同意しなかった。問題は代執行闘争に大木よね自身がどのような決意と行動を行なうか、それが基本である。大木よねの意思を無視してはならない。大木よねの意志を決意を反対同盟と支援がどれだけ強固なものにできるかである。

  まずは生産と生活を整えよ

 田畑は農民の分身である。労働を投下して耕してきた田畑は農民の歴史であり、すべてである。大木よねさんには自宅の下に2畝の水田があり、畑は5つあった。これは、地主藤崎の名義になっているが、大木よねさんの話しによると、大木実(よね婆さんの夫)とここに所帯を持ったときに自分のものになったと言う。(農地改革のときに解放される小作地を買い受けた)小作地買受の資格はあったが、農地委員会に申請はしていなかった。私は、私の持っている生産技術をこの水田と畑に注ぎ込んだ。自分の生命を、労働を投下しないでは真に三里塚の田畑は守れない。また、農民の土地闘争とその歴史を理解することはできない。田畑の作物は、世間並みに、反対同盟の農民と同じように育てることができた。そして宅地も垣根を結び、雑草を取り除いてきれいに整えた。
大木よねさんの家の前には毎日、機動隊が時間を決めてやってくる。機動隊が立ち去ると今度はガードマンが来る。大木よねさんを中心にそのたびごとに抗議行動を行なう。機動隊とガードマンから、「糞婆あ」「出てゆけ」「国策に反対するお前らは日本人ではない」「国賊」「婆あー、早く死ね」と差別と非難と中傷を浴びせられる毎日であった。宅地の下の田圃のところまで工事が進んできて、土盛りは山のようになってきた。雨が降るとその土砂が田圃に水を引く水路を埋める。また田圃の中に流れ込む。公団は土砂で田圃を埋め尽くしての金銭の補償を、二度と稲が作れない状態にしての買収を狙っているのである。水路に少しでも土砂が入れば取り除かせた。雨で水田に土砂が入り、稲の根本が土砂で埋まった。猛烈に抗議。公団職員が20人ばかり人足をつれてきて一株、一株で砂をぬぐい取らせた。
田圃で農作業していると機動隊が来た。大木よねさんに罵詈雑言である。大木よねさんは田圃から上がり、機動隊の前に行きパッと腰の着物を払って、「この婆あがそんなに憎いなら、このオマンコに警棒を突っ込んでみろ。お前達が生まれてきたところだ」と言い放った。機動隊はさすがに恥じて黙って帰った。俺たちもびっくりした。この世の中で身につけた一切のものをかなぐり捨てて、真っ裸の人間の命の根元を見た一瞬であった。この人間の命の根元が、三里塚では権力によって蹂躙され侵害されているのである。自分の命の根元とは何かを試された一瞬であった。

  中国のピンポン外交

 「ピンポンの玉は軽くとも、日中両国人民の友情は重い」と中国卓球代表団が来日して、日中国交回復間近しと国民がそれを肌で感じていた。私は中国卓球代表団に観戦の招待を受けた。代々木国立体育館ロイヤルボックスで、王暁雲アジア局長の説明での観戦であった。LT貿易の萩原定司氏、日中友好文化交流協会会長の中島健蔵氏、在日中国記者の三里塚取材等に私は協力してきたので、今日の招待となったのである。
卓球代表団が三里塚を訪問する計画であることを明かされた。王暁雲局長からの連絡が入った。「代表団は三里塚を訪問したいのですが、三里塚を訪問することになれば警官隊の護衛で行くことになる。警官隊と戦っている三里塚の人たちの心情を害することになる。護衛なしで行けば右翼の妨害が発生する。発生すれば長崎国旗事件のような国際問題となる。ここまで進んだ日中友好事業がまた遅れることになる。今回の三里塚訪問は残念だが中止せざるをえません。そのかわり、北京テレビの記者一行が取材に行きます」と連絡が入った。北京テレビの高粱氏が大木よね宅を訪問した。この取材は画報『中国と日本』に、大木よねを真ん中にした常駐者一同の写真入りで大きく報道された。
 
スパイ活動
 この常駐者のなかに大西君も入っていた。彼は真面目で人がよさそうで、みんなから好かれていた。だが、警察と逢っているところを成田市外で発見されたのである。代執行をやる為に警察が送り込んだスパイであった。彼を監視していると必ず警察と逢っている。糾弾して追放した。三里塚には全国から支援が馳せ参じている。この支援のなかに警察のスパイ網が張り巡らされていることは疑いのないことである。反対同盟実行役員会が終わって30分後には県警本部は、反対同盟が何を決めたか情報をつかんでいる。

  小皿の蝗煮と酒一升と印旛沼の鯉

 田圃の稲は順調に育った。権力との生産闘争が実ったのである。大木よねさんが田圃で蝗を捕って煮た。全国カンパで寄せられた資金の中から酒一升を買って来た。大木よねさんは戸村委員長に代執行を阻止して家を守ってくれるように頼みに行くために、手土産として蝗煮と酒を用意したのであった。私に一緒に来てくれというので出かけていくと、戸村委員長は在宅していて機嫌よく迎えてくれた。大木よねさんは戸村さんに丁寧に頭を下げて、「お願いします」と言った。心配顔が安堵の色に変わった。その夜、天神峰の加藤清さんが、印旛沼の大きな鯉を捕ってきて鯉汁を作ってくれた。「婆さん、鯉食って精付けて頑張ろう」とはげましてくれた。静かな夜であった。こんな静かなところで代執行が行なわれると思うと不思議な気がするほど静かな夜で、虫の声が月に冴えていた。

  代執行を巡る議論

 反対同盟幹部会、実行役員会が開かれて「代執行阻止、大木よね宅死守」と決定しても、別に軍隊ではないのだから対策や戦術が練られる訳ではない。私は、石橋副委員長、石井武、岩沢吉井、秋葉哲、宮野稔に私の部屋に集まってもらってさらに対策を練った。代執行阻止を全力で戦う。これは意義なしである。問題はそれから先、反対同盟が大木よねの生活のすべてを具体的にどうみていくのか、その責任体制に議論が尽くされていないのである。「大木よねは無一物で家族もいない。だから代執行を戦える。俺たちは田畑まあれば、家族もある。だから代執行までは戦えない」と口をそろえて発言した。私は、「自分達のできないことを大木よねにやらせるのか。それはまずい。話し合いで解決するか」と提案した。この提案には同意しなかった。「誰が、一生、大木よねの面倒をみるのか」、この問題がはっきりしなければ代執行との戦いには同意できない。みんな言葉に窮した。
私が、「大木よねの面倒を一生みる。牛尾の生家につれて行き共に暮らす。大木よねの養子になる」と覚悟を決めた。秋葉哲さん、岩沢吉井さんが、「大木勉」になると両親に泣かれると止めにかかった。岩沢吉井さんの女房は牛尾の出身で私の父と同級生、秋葉さんの女房は私の伯父と同級生で、私の家のことは知っていたからである。
 石井武さんが、「東峰反対同盟で大木よねの面倒はみる。家、屋敷も用意する。反対同盟はやるだけのことはやってくれ」と言うことでみんな覚悟が決まった。代執行を受けた農民に対する責任はもてない、田畑の土地の用意はできない、このことははっきりした。最終的には条件闘争しかないのである。
 事業認定取り消しの訴訟は、最高裁までやられたが敗訴した。政府・公団は、訴訟中に工事を進め既成事実を積み上げて農民を追い込んでいく。裁判には、現実の問題を解決する機能はまったくないのである。事業認定を取り消す闘いの道はあるのか、むずかしい局面に突き当たった。
       (次号、大木よね宅への「強制代執行阻止闘争」へ続く)