社会崩壊の一側面
  相対的過剰人口の今日的変容
   

産業(機械制大工業)の発展期には、相対的過剰人口の存在は、労働者階級を資本の指揮・命令に服従させる条件であり、賃金を労働者階級の再生産に必要な最低限のレベルに引き下げて資本蓄積を可能にするテコであり、景気変動に伴う雇用調整の安全弁の役割を果たした。いわば、ブルジョア社会の発展を陰で支えた犠牲的存在だった。しかし、産業が成熟し、資本主義がその歴史的役割を終えたことによって、この人口部分の増大が絶対的過剰人口の形成とともに、社会崩壊の一側面として浮上しているのである。以下、見ていくことにする。

  @

今日の相対的過剰人口は、産業発展期のそれとは大きく変化している。
相対的過剰人口の最大の変化は、その規模であるだろう。
今日の社会は、産業の成熟(市場の飽和)によって、生産規模の拡大や新産業の勃興がない時代に足を踏み入れようとしている。われわれは、社会の総活動時間の中において、モノの生産に割くべき労働時間(必要労働時間)の割合が減少していく時代に足を踏み入れようとしているのである。産業成熟下でも技術革新は急速に進むのであり、ますますより少ない必要労働時間でもって飽和した市場の要求を満たせるようになる。しかしそのことは、資本主義のシステムの下では、一人当たりの労働時間を減少させるのではなく、産業領域で働く労働者の減少をもたらす。産業(モノの生産)領域から排出される労働者の数が増大していくのである。
他方、今日の社会は、産業の成熟、環境限界への逢着、高次の欲求の高まりによって、重層的な社会的差別と自然環境破壊の社会構造を打破して、人間(=社会的諸関係および自然環境との関係)の豊かさを実現しようとしている。こうした時代であるから、資本主義の下であっても、人々の高次の欲求の増大に突き動かされて、人間を目的とする活動領域(保育・教育・職業訓練・医療・介護・環境など)が、「人間を目的とする」という肝心のところが捻じ曲げられた仕方においてだが、広がっているのである。資本は、産業領域から排出された過剰人口をここに動員しようとする。しかし、利潤を目的とする一奴隷制である資本主義は、この社会領域をその意義に見合う在り方と規模をもって発達させることは出来ない。まして人間(=社会的諸関係および自然環境との関係)の豊かさの実現という目的にそって、社会全体の在り方を再編成することなどできようはずもない。資本主義経済は、産業領域から排出され増大する失業・反失業人口をこの新たな社会活動領域へと吸収する上で、本質的限界をもっているということである。
過剰人口は、吸収のメカニズムを失った状態で、増大し続けるのだ。このために、相対的過剰人口は、労働者階級の大きな部分を構成するようになってきているのである。

   A

相対的過剰人口の状態が底抜け的に悪化していることも、変化の特徴である。
第一は、労働市場のグローバル化によって、「先進国」の相対的過剰人口も、「発展途上国」を含むグローバル市場の爆発的に増大する相対的過剰人口の一部になったからである。「先進国」の相対的過剰人口の就労機会と賃金水準は、「世界標準」に向かって引き下げる力に晒されているのである。第二は、相対的過剰人口が、ますます増大する絶対的過剰人口の圧力に晒される時代に入ったからである。そもそも相対的過剰人口の就労機会と賃金水準は、その最下層においては、ほぼ単身を維持するレベルにとどまり、労働力の再生産(子孫への継承を含む)が困難なレベルにあったが、いまや単身を維持することもできないレベルへと引き下げる力にさらされている。

   B

相対的過剰人口の実存形態も変容している。
相対的過剰人口の潜在的形態は、「先進国」の農業部門に潜在する形態が枯渇し、国際的な(発展途上国・新興国の)農業部門に潜在する形態が支配的となる。「先進国」の産業資本が、この人口部分を、現地国の資本と並んで活用するだけでなく、国内に大規模に導入して「外国人」「移民」などを理由に安価な形で利用する。
相対的過剰人口の流動的形態は、工業部門の内部における従来の流動的形態と並んで、工業部門から人間を「労働対象」とする新たな社会活動領域へと流動する形態が増大する。流動的形態も、経済のグローバル化時代の中で国際的性格を強めており、新たな流動的形態は産業の成熟が先行する「先進国」へと流動する形態において特徴的である。
相対的過剰人口の停滞的形態は、相対的過剰人口の潜在的形態なり流動的形態から排出され、あるいは労働者階級の現役層からも排出されて、世界の大都市の基底に滞留する相対的過剰人口部分である。この人口部分の社会的構成は、社会的差別の凝縮となる。この人口部分には、「女性」や「高齢」を理由に不安定就労を余儀なくされる労働者が多くの割合を占める。資本が新産業を興すこともできず、新たに広がる活動領域にも不十分にしか適合できないため、労働市場へと新規に参入する若年層の就労の道はますます狭くなり、多くの若者が停滞的形態に組み込まれるようになる。

   C

この相対的過剰人口が、資本によって、「全産業」的に安価な使い捨て労働力として利用されるようになったことも、大きな変化である。
そうなった理由の一つは、これからの時代に基幹の地位を占める社会活動領域に参入する資本が、相対的過剰人口の利用を必要としていることにある。
戦後・高度成長期の自動車・家電のように、機械制大工業の発展時代の基幹産業資本は、基本的に正社員・本工の雇用形態に立脚してきた。相対的過剰人口の利用を基本にしていたのは、主に建設・土木、港湾荷役、造船など請負生産の性格が強い産業資本であった。しかし今日、その様相は一変しているのである。変化の根拠の一つは、人間を「労働対象」とする活動が、社会の基幹的な活動になる時代に入ったことにある。
人間を「労働対象」とする社会活動は、対象的自然を労働対象として、それとの間で(労働手段を媒介に)物質代謝をおこなう本質的な意味での産業ではない。人間を「労働対象」とする活動は、これまでは産業の従属的部分(労働力再生産活動)に押し込められていたが、将来的には人間(=社会的諸関係および自然環境との関係)の豊かさを実現する相互扶助社会の基幹を構成する活動となり、産業(モノの生産)をその構成要素とするものである。しかし資本は、労働手段(その体系である産業)に人が隷属する(賃金を媒介に)ことを本質とするものである以上、この転換を認めないし押し止めようとする。だから資本は、新たに広がる活動領域を「産業」の範疇に押し込め、「サービス産業」「教育産業」「医療産業」「介護産業」等々と呼称し、位置づけるのである。
人間が「労働対象」である活動の在り方は、モノが労働対象である場合のそれとはおのずと異なる。そこでの活動は、相互の対話、相手(個別性)の尊重、信頼関係の形成が問われ、相互扶助関係の発展に結実していくものである。
しかし資本は、この領域に適合することを労働者に要求はするが、上辺だけのものでしかない。資本は、あくまで利潤目的を優先し、利潤目的のために労働者を犠牲にすることで存立しているからである。資本が組織する労働は、モノの生産と同様、労働の一方的支出で終わるものであり、相互扶助関係を発展させることはないのである。
資本は、「労働対象」がモノで人間だということに、本質的違いを見出さない。資本がそこに見出すのは、新たな参入領域が究極の「請負産業」だということだけである。資本にとって、「需要」の質的多様性と頻繁な増減に対処する仕方は、基本的に使い捨て労働力の利用である。こうして、社会のリード的・基幹的な活動領域に参入した資本が、相対的過剰人口の大規模な利用、非正規雇用形態の主流化を推進する時代になったのである。
人間(=社会的諸関係および自然環境との関係)の豊かな発展のための活動が、使い捨ての賃金奴隷によって担われる。究極のパラドックスである。
相対的過剰人口の意識的利用が全産業的に広がっていることのもう一つの理由は、産業(モノの生産)領域が、雇用拡大時代から雇用減少時代へと移行したことにある。今日、産業資本は、最初から雇用の縮小に備えて相対的過剰人口(使い捨て労働力)の意識的利用をやっているのである。
今日の非正規雇用は、相対的過剰人口の雇用を超えて、常用層の雇用形態に一段と広く及んでいる。それも、産業資本の「備え」の現れである。

   D

 相対的過剰人口の限度を越えた数の増大と状態の悪化は、就労層中核部分である正規労働者の生存をも危うくさせている。就労層中核部分の正規労働者は、仕事にしがみつかざるをえなくなり、長時間・過度労働、パワハラ、労働安全無視等々に耐え、「過労死」「うつ」「事故」などに追い込まれているのである。

   E

 相対的過剰人口は、就労と生活の保障の求めており、新たな社会活動領域における諸事業の発展を必要としている。この領域の諸事業の発展は、資本によっては限界があり、NPO・協同組合・社会的企業などの諸形態を必要としている。
 この層は、社会的分業の特定の分節(職種・技能)に特化することで余儀なくされる失業の危険に、とりわけ強く晒されている。それゆえ、いつでも他の多様な職種への就労を可能にする充実した技能訓練システムの構築を必要としている。
 この層は、日常的に、この現場で就労できなくなれば別の就労現場を探さねばならないという状態に置かれている。それゆえ、労働条件の整った就労現場をそれなりに安定的に紹介し派遣する労働者自身のネットワークの構築は、就労できない期間の生活保障とともに、この層に属する人々が生存するのに必要なことである。
これらのシステムは、絶対的過剰人口に属する労働者の就労・福祉事業とリンクして相乗的に発展するだろう。同時にこの発展は、就労部分に対する失業部分の圧力を緩和し、就労部分と失業部分の階級的連帯を促すに違いない。
 相対的過剰人口に属する労働者の運動は、これらのシステムを基盤として実現し、その上に大規模な発展を展望していかねばならない。俗に、腹が減っては戦は出来ぬというが、肝に銘ずべき真理である。この人口部分に属する労働者に適合したメシの食い方を創出していくことは、この層の運動の発展にとって不可欠である。(了)