大阪・釜ヶ崎
 12・28〜1・8第40回釜ヶ崎越冬闘争
働いて生活できる仕組みを

 第40回釜ヶ崎越冬闘争は、十二月十三日の支援連帯集会を皮切りに、十二月二八日突入集会から一月八日まで、多くの釜ヶ崎労働者・支援の団結した力で闘い抜かれた。
 突入集会後、ただちに開始された医療センター前での野営(ふとん敷き)をはじめ、医療パトロール、人民パトロール、炊き出し、そして三角公園での「越冬まつり」と、「安心して働き生活できる釜ヶ崎を!」「仲間内から一人の餓死・凍死者も出すな!」をスローガンに掲げて越冬闘争は貫徹された。
 今回の越冬闘争の特徴は第一に、南港臨時宿泊所の利用者数が昨年の1320名から637名へと大きく減少したことである。
 これは、大阪市西成区では昨年一年間で新たに8千世帯が生活保護に移行し、同区釜ヶ崎においても新たに3000名が生活保護に移行した結果である。大阪市では実に20名に1名、釜ヶ崎においては4人に1人が生活保護に移行した。
 これに伴って、昨年は毎回800〜1000名の炊き出し利用者も300人近くが減少し、また、「特別清掃事業」の輪番労働者も670名が生活保護に移行している。
 このように、行政が「ホームレス自立支援法」の精神を活かし施策を行なえば、野宿者を一時的にではあれ確実に減少させえるということが明らかになった。(これは他の寄せ場での傾向でもある。)
 しかし他方、こうした行政の施策の「前進」の中でも、連日の医療センター前での野営には40〜60名の野宿の仲間が宿泊しており、また医療パトロールにおいても150名程度の野宿者への対応が必要であった。さらに市内各所(堺市も含む)での野宿者も、全体として減少しているとはいえ、まだ相当数存在しているのである。
 特徴の第二は、一昨年来の非正規労働者大量解雇による「寄せ場(釜ヶ崎)の全国化」という事態のなかで、九十年代以降の反失業闘争の前進を基礎にし、支援・連帯の輪が質量ともに拡大していることである。
 反失業闘争の拠点・出撃基地としての釜ヶ崎の役割が、いよいよ大きくなってきている。釜ヶ崎の今後の闘いは重要である。釜ヶ崎の「特掃」「シェルター」は、数度にわたる対行政の野営闘争など、釜ヶ崎労働者の団結した力で勝ち取ってきた成果である。しかし、その次元に固定化されるならば生活の展望は開けない。成果をさらに、「働いてメシが食える」ための「新たなしくみ」に発展させ、そうした仕組みを「労働者の社会的バリケード」として全国で闘いとらねばならないのである。
 先述のように、社会保障費毎年2200億円削減の自公政権から、「国民の生活が第一」を掲げる民主党連立政権に政権交代する中、生活保護の入り口が大きく広げられている。しかし、この生活保護の「充実」も、決して野宿問題の根本的解決にならないことは明らかだ。
 野宿問題を、困窮者の一時的救済、セーフティネットの問題としてとらえるのではなく、失業の問題として「労働を軸とした自立」の問題としてとらえる必要がある。
 労働を通じた社会復帰という先の見通しがまったく見えない中で、生活保護受給者(とりわけ若年層)の多くが就労意欲すら奪われ、また高齢受給者では孤独死や自殺が増加するという現状がある。生活保護が「上がり」ではなく、再出発のきっかけとなりうる、そのための施策を求めていかねばならない。
 ましてや大阪では、生活保護費が18%増加し過去最大の2888億円を上回る情況の中、「財政難」を理由に、あるいは、生保入り口を広げたのに「それでも野宿を選ぶ」と非難する新たな「自己責任論」が台頭し、早晩、生活保護の締め付けが再度始まるだろうし、公園からの排除の攻撃も強まるだろう。また、特掃、シェルターに対しても、同じ理由での縮小・廃止の攻撃が強まってくるだろう。
 このような中で、戦後「55年体制」下と同じ質の闘いでは時代に立ち遅れ、闘いを前進させることはできない。左翼反対派として自らの「革命性」を主張するだけのかっての運動ではなく、新たな時代・社会を見据えた運動を創り出していかねばならない。鳩山政権打倒を叫び、バクロするだけの運動でもダメだし、その逆に鳩山政権を美化し、無批判に包摂される運動であってもダメである。
 今必要なことは、民主党連立政権下の一定有利な情況を大いに活用し、旧来の「行政糾弾」型の運動から、新たな社会を見据え「新たなしくみ」を創り出していく運動に力点を移すこと、行政を動かし労働者の連帯組織を発展させることである。そうした闘いを基礎に政治的「第三極」をつくり出し、次の政治決戦に備えることである。
 こうした闘いの第一弾として、釜ヶ崎においては一月四日の「お礼参り」(対府市要求行動)での要望書提出行動、そして1・11日雇全協反失業総決起集会への上京結集、これらを闘いぬくことで本年の闘いを開始した。
 この一月十一日の山谷集会で釜ヶ崎日雇労働組合の仲間は、@反失業の闘い、「新たなしくみ」を創る闘いを、さらに拡大し全国化させること、A沖縄民衆の闘いに応え、普天間基地撤去・反安保の闘いに立ち上がること、B「在特会」にみられる右翼排外主義の台頭と武装敵対を、大きく社会的に包囲・糾弾しつつ、自衛武装を強め襲撃を実力で打ち破ること――の三点を提起した。また釜日労は、ごく一部の人々による釜ヶ崎NPOなどへの誹謗中傷を批判しつつ、労働者の分断策動を許さず闘う団結を打ち固めると決意表明した。
 越冬後、事態は大きく動き出している。
 一月二十三日には朝日新聞夕刊で、釜ヶ崎地域内の三角公園を含む三つの公園での野宿テントの撤去策動が報じられ、二十六日の朝日朝刊では、大阪市が生活保護を「期限付き」にし、職提供や市営住宅の空き室の提供を検討していることが報じられた。
 こうした行政の戦略的動きに対して、まさに戦略的な反撃が求められている。自公政権時代のただ排除するのみの攻撃とはまったく異なる攻撃であり、したがって「反排除」「野宿の防衛」という立て方とその急進化では、この攻撃を打ち破ることはできない。
 今必要なのは、こうした行政の動きを闘いの契機としてとらえ、社会的な就労を軸とした「新たなしくみ」を拡大・発展させる闘いだ。(大阪S通信員)


釜講座が1・3越冬ツアー
  2・20講演の集いへ
 
 「越冬まつり」最終日の一月三日の午後、恒例の「釜ヶ崎講座・越冬ツアー」が約三十名の参加者で行なわれた。案内人は、名ガイドの水野阿修羅さん。
 今回は「釜ヶ崎に住んでいた有名人」というテーマで、「坂田三吉」「黒岩重吾」「武田麟太郎」「沖浦和光」など、作家や学者の住んでいた場所や作品の中に登場する場所等を巡りながらのツアーとなった。もちろん、釜ヶ崎の形成や、日雇労働者の街としての特徴的な場所をその中に含みながらのツアーであった。
 釜ツアーには毎回、釜ヶ崎が初めての新たな参加者があり、常に好評を得ている。今回はツアー終了後、釜ヶ崎の現況を説明する機会が設定され、参加者からの質疑に対応する時間が設けられ好評だった。ツアー参加者はその後、越冬まつりに参加していった。
 なお、釜ヶ崎講座では二月二十日に、一年ぶりに「講演のつどい」を開催することになった(午後六時半〜、エルおおさか)。
 講師は、西成労働福祉センター労組の海老一郎さん。テーマは「釜ヶ崎40年!歩みと現在」と題するもので、労働総合センターが建設されてからの四十年を振り返り、日雇雇用保険や日雇健保などの制度と権利を分析し、非正規労働者全体の問題にも通ずるものを探る機会にしようというものである。積極的な討論が期待される。(関西S通信員)


東京・山谷
  1・11日雇全協反失業総決起集会
  21世紀の日雇労働運動へ

 一月十一日、東京・山谷の玉姫公園において「1・11佐藤さん虐殺25年・山岡さん虐殺24年弾劾・追悼 日雇全協反失業総決起集会」が約300名の結集で闘われた。
 冒頭、このかん亡くなった日雇全協の仲間、また佐藤さん、山岡さんへの黙祷を行なった。
 司会が、日雇労働組合全国協議会の結成来の歴史と、佐藤さん、山岡さんが天皇主義右翼・国粋会金町一家に虐殺された経過を述べるとともに、「必ず金町を解体しよう」、「今日の戦争と大不況の時代を許さず、資本と政府の殺人的労働行政に対決して闘おう」、「在特会ら右翼ファシストと実力で対決して闘おう」と強調して、集会は始まった。
 第一部の各団体アピールでは、破防法・組対法に反対する共同行動、アタック・ジャパン首都圏、関西生コン労組、三里塚芝山連合空港反対同盟(北原氏)からの発言あるいはメッセージが行なわれた。
 第二部では連帯挨拶が次つぎに行なわれた。最初に争議団連絡会議を代表して明大生協労組が発言、また世界社会フォーラム首都圏よりWSF1・24東京集会への参加訴えがあった。名古屋・笹島の仲間は人権を守る活動を報告し、神奈川労働組合共闘会議の仲間は横浜・寿での越冬−労働相談で、六十人以上の生保申請や多数の相談があったことを報告し、「官民共闘で非本工−寄せ場−本工がともに闘おう」と訴えた。さらに山谷労働福祉会館活動委より、「新東京タワー建設にかこつけて、再開発の下、隅田川・山谷周辺のテント、炊き出しへの排除攻撃が行なわれており、これに反撃している」と報告。最後に、渋谷「のじれん」から宮下公園のナイキ化反対、区役所地下での闘う越年について報告を受けた。
 第三部は日雇全協の各支部の決意表明。最初に釜ヶ崎日雇労組が、二十年にわたって「社会的就労」闘争、仕事よこせ・屋根よこせの闘争を大衆的に進めてきたこと、また近年では「在特会」との実力の闘い、反基地・反空港など政治的決起も強めてきたことを報告し、「寄せ場運動の新しい二十一世紀的闘いの展開をめざしていく」ことを訴えた。
 笹島日雇労組は、中村区西柳公園での越冬闘争を連日百人以上が泊り込んで闘ったことを報告。最後に山谷争議団が、「一九八三年の日雇全協結成の原点、九〇年代以降の反失業闘争を振り返り、もう一度、全協の二十一世紀の基本路線を確立して新たな闘いへ発展させよう」と力強く発言した。
 これらの発言を拍手で確認し、デモンストレーションに移った。山谷通り、アサヒ商店街、玉姫神社前を圧倒的デモで席巻し、資本−官憲−右翼の妨害をけちらして成功裏に行動を終了した。この初春の全協の闘いは、決定的に重要な今年の反失業闘争、沖縄反基地、非正規・正規が連帯すべき今春闘、これらの開始を告げるものであった。(東京Y通信員)