〔沖縄からの通信〕

1・24名護市長選の歴史的勝利−「辺野古」消滅から「普天間」撤去へ
  復権した沖縄民衆の意思に依拠し

 ヤッター!両手が踊る。ピューイ、ピューイ!歓喜の口笛が鳴る。十三年の長きに渡って、名護市民を二分し苦しみを与え続けてきた大問題に遂にピリオドを打つことができた。
 一月二四日の名護市長選の投開票、稲嶺進17950票、島袋吉和16362票、その差1588票、投票率77・0%、期日前投票41・2%であった。
 これほどの大きな選挙はかってなかった。これまでも辺野古新基地をめぐって参院選や知事選では、ヤマト対沖縄の構図を作った候補一本化戦略での闘いはあったが、今回のようにヤンバルの一市で、全国・全世界の耳目を集めるような巨大な意義を課せられた選挙はなかった。そして名護市民は、沖縄差別の上に構築せんとした日米の戦争体制と巨大利権にNOを突きつけ、勝利した。
 振り返ればすでに十三年前の97年12月、名護市民は一人ひとりの署名を積み上げて実現した市民投票によって、おカネをもらう「条件つき賛成」ではなく、「無条件反対」を選び、基地建設を拒否していた。
 時の自民党政府は、「もう無理だ」と言う比嘉市長を軟禁し口を封じ、市民投票の結果を圧殺し、基地建設と特別交付金の受け入れを名護市の中に「確立」していった。岡本内閣補佐官がやって来て、巨額のカネで土建業を中心に人々が芋づる式に集められた。名護がずたずたに二分されていった。名護に隣接する東村、金武村、宜野座村、恩納村の首長や有力者たちも、アメとムチのノーと言えない圧力で組織されていった。
 辺野古新基地反対派は、市民投票に勝った後、市長選では三期十二年間敗北し続けた。しかしその間、問題の質は、日本国家対沖縄の問題に深まっていったと言うべきである。権力とカネがカバーできないところで、沖縄人の反戦・反基地・反ヤマトの感情はふき出していった。名護市でも周辺町村でも当局と市民のかい離は大きくなり、県政でもそうなっていった。ついに一昨年には県議会の与野を逆転させ、辺野古新基地反対が県議会決議となった。薩摩の侵略、明治政府の琉球処分、皇民化の圧力、国体護持のための沖縄戦、アメリカの占領支配と72年以降の安保による基地集中化、等々の歴史で形成された沖縄人の感情がそう簡単になくなるものではないことが、今回の市長選で示された。
 1588票差を、僅差とみるか大差とみるかは難しい問いだ。四年前の敗北を逆転した、その比較で言えば大差である。市民の審判が明確であることは、敗れた側の有力者たちも認めている。比嘉元市長、「十三年前の(受け入れ)決断が市民に否定された。(移設は)もう名護の問題ではない」。東宜野座村長、「基地がないことが地域の安心・安全にとって一番」。仲井真知事、「辺野古は難しくなった。(下地島、伊江島など県内移設の)そういう場所はない」。敗れた島袋市長自身、「こんな結果になるとは。国が結論を出すべき」等々である。
 島袋氏の敗北の涙は意味深である。かって、岸本元名護市長は「大田知事にまかせる」として一時的に辺野古の争点を捨てた。今回の島袋氏はあえて争点を捨てなかった。その背景には、市長選を突破して、鳩山に辺野古を呑ませるシュミレーションがあったのではないか。昨年の仲井真知事のメア前領事を伴った訪米、日米官僚たちのバック、名簿や動員力での現職の強み、打てる手はすべて打って票読みでは「負けはない」とみていたのではないか。期日前票では島袋優位であったが、当日票で敗北した。
 島袋陣営は、公式には「辺野古移設」を捨てなかったが、実際は「基地」「辺野古」「普天間」という言葉の使用を禁じた。しかし、いくらそうしても、名護現地ではそれらの言葉があふれていた。日本の全マスコミから、それらの言葉と「日米関係が危険に」などの沖縄差別の合唱が連日届けられた。
 こうなると沖縄人は、いよいよ鳩山首相を応援せざるを得なくなり、「名護市長選は負けられない、負けたら沖縄の恥」という全沖縄人のプライドが燃え立ってきた。
 すでに八月総選挙で、民主党の「県外」公約と政権交代の呼びかけに応えて、自公を全滅させていた。ススム陣営による「政権交代のこのチャンスに、名護の基地問題は終わらせよう」という訴えは、沖縄人の元々の心情にストンと響いた。表面にこびりついていた「経済振興」という容認「条件」は日々はがれていった。「何の見返りもなかった。縛られ騙されただけだった」と、底辺の業者から崩れていった。基地推進派の巣窟であった辺野古区で、ものが言えるようになってきた。
 選挙後の現在でも、推進派の急速な退潮が続いている。このかん作られた「移設プロジェクト」の組織構成体の崩壊が、企業・地域・人間関係の各面へと波及していくだろう。結局、「カネで海は売らない」という本来の思いが復権し、十三年前の市民投票時に舞い戻った。名護現地では、勝敗が決したこうした理由が体感できるのである。
 しかし選挙後、鳩山政権の閣僚から、この勝利を喜ばない発言があいついでいる。平野官房長官、前原国交・沖縄相らの発言である。とくに平野官房長官は、名護の選挙結果に対し「斟酌してやらなければならないという理由はない」、代執行も「法律的にやれる場合もある」、「過去にありましたね」などと発言し、全沖縄人の大きな怒りを買っている。
 これらの発言に、沖縄選出国会議員たち(ウルの会)もくってかかっているが、核心点を欠いている。沖縄は、辺野古も下地島も伊江島も嘉手納統合も、すべて「県内移設」はNO!と言っているのであって、市長選結果への斟酌という態度の問題だけではない。「民主党公約の『県外』『国外』を守れ!」という本筋で迫るべきだ。
 こう言うのは、ウルの会の下地幹男が、日米の官僚をバックにしながら、いぜん嘉手納統合案での利権追求を策していることが見え見えだからである。彼は一月三十日、嘉手納町・北谷町・沖縄市からなる3連協(嘉手納飛行場に関する三市町連絡協議会)の各首長、宮城町長・野田町長・東門市長らと北谷町役所で会い、普天間移設の具体案として嘉手納統合案(F15の三沢移転、関西国際空港への訓練移転等を含む)を政府の検討委員会に提案することを伝えた。
 名護市長選が勝利した今、県出身の彼が「県内」移設を言うことは許せないし、そんな提案は沖縄からの誤ったメッセージとして受け取られる。三連協は九六年時から統合案に反対し続けているのであって、当然この下地の考えを拒絶した。しかし、平野発言は自治体の民意に左右されていては「移設先探し」が破綻するという焦りの表現であり、嘉手納統合案に舞い戻ってくる危険は続いているのである。
下地氏は元もと辺野古推進派であったが、それが消えた今、嘉手納統合案で利権集団の下地陣営への合流を策している。昨年十二月に下地が訪米し、米高官キャンベルと会談した時、キャンベルは米政府方針「現行案しかない」をあっさり変更し、普天間の機能分散を発言している。
 沖縄自民党は、「県外」移設を取ることを昨年末に宣言しているのだが、これからの県議会でどう臨むのか、嘉手納統合案をどう取り扱うのか。県議会多数派と我々は、下地氏や自民党の策動を見抜き、打ち破らねばならない。
 日本共産党が昨年、那覇市議会の「県外」決議案に対し、(「県外」移設要求は国内移設を認めるもので、それは国民分断になるとして)反対したような対応を、今後の県議会でも取れば不必要な混乱を招く。原理論からいえば「普天間無条件返還」は当然だが、政権交代を利用し「県外」で闘ってきた現実からずれている。
 社民党の「移設先はグアム」論は、言葉の正確さを期さねばならない。元々アメリカの考えはグアム統合が基本線であり、「移設」の名目で新基地が目論まれたのである。社民党やウルの会が「移設地」を探し回るのは、度が過ぎれば泥沼に足を突っ込んでしまいかねない。
 さて、島袋市政が消滅し、のこっているのは仲井真知事一人となった。沖縄自民党と仲井真知事はお互いが望んでいないにもかかわらず、傷つけ合っている。かれらに今秋知事選が組み立てられるのか。知事選に勝利し、完全な「県内移設阻止」をつかみとろう!(1月31日 T)