「こども手当」をめぐって
  賃金の家族手当分
    削減は筋違いだ



 来年度予算から民主党公約の「子ども手当」の支給が始まるが、これに関して労働運動の立場から若干の論点を提起したい。
 まず、「子ども手当」に賛成なのか反対なのか。民主党マニフェストによるとその政策目的は、「次代の社会を担う子ども一人ひとりの育ちを社会全体で応援する」、また子育ての経済的負担を軽減し、安心して出産・子育てができるようにすることである。政策手法としては、「相対的に高所得者に有利な所得控除から、中・低所得者に有利な手当などへ切り替える」としている。
 これらは、おおむね妥当である。マニフェストでは必ずしも意識的ではないが、子ども手当は、世帯単位主義的な社会保障政策から市民社会構成員個人単位の社会保障政策への転換である。また「所得控除から手当へ」の考え方も是認できるが、しかし今後、子ども手当の財源を中・低所得者に不利な消費税増税によってまかなうとするならば矛盾を生ずることになる。
 子ども手当導入によって、これまでの児童手当が廃止され、また税制では扶養家族控除・配偶者控除が廃止されようとしている。賃金の家族手当はどうなるのか、これは労使関係で決まることであるが、資本家側は「子ども手当が出るのだから、家族手当はいらないだろう」などと言い出しかねない。
労働側は、家族手当は維持というよりも、基本給へ組み込むベースアップをかちとるべきだ。子ども手当が支給されても、家族手当分が賃下げになったら、安心して子育てができる社会という政府が掲げる政策目的に反する。厚生労働省・各労働局は、「子ども手当」支給を名目とした家族手当廃止などの賃下げは不当であることを事前に周知徹底させるべきだ。
子ども手当対応年齢での扶養控除は廃止とされたが、配偶者控除の廃止は先送りとなった。労働者の利益に立つ陣営でも、配偶者控除の廃止には反対する人びとが多い。
しかし男性世帯主主義的な社会が変わるべきならば、配偶者控除の廃止は避けられない流れである。とはいえ配偶者控除の廃止は、パート労働者の時給など非正規の賃金改善を支援する政策とセットで立てられるべきだ。配偶者控除をただ廃止するだけなら、これまでの控除限度額を気にすることなく、主婦(あるいは主夫)パートは安い時給のまま長時間働く傾向となるだろう。
また配偶者控除が廃止になると、専業主婦(主夫)家庭は増税となる。低所得者であっても、とくに子育て中などは家事専業となる人は少なくない。
家事専従者への配慮は、これまでは家族主義的な価値観から立てられてきたが、子ども手当の政策理念からしても、これからは社会的労働のの不可欠の一部としての育児を含む家事労働の重要性という観点から立てられるべきだ。子ども手当ならぬ家事労働専従者「手当」の直接支給というのも、あっておかしくないのではないか。(A)


 鳩山政権の「ゆらぎ」の効果
     そこから「第三極」政治勢力が登場する

「ゆらぎ」は、事物の発展において重要な役割を果たしてきた。社会の歴史においても「ゆらぎ」は、新生事物誕生の揺り籠であった。いまわれわれは、新しい社会の誕生を条件づける「ゆらぎ」の時代に突入している。そして鳩山政権は、「ゆらぎ」を路線的本質としている意味で、時代の精神を象徴しているのだ。
極めて流動的なこの時代を政治を捉えるには、政治勢力の実体的な大きさや多様な政治傾向に目を奪われることなく、事態を主要に規定する以下の三つ路線を基軸において把握することが肝要である。
まず二〇〇一年に誕生した小泉政権が、グローバルにうごめく巨大投機マネーの利益に奉仕すべく、アメリカ一辺倒・市場原理主義の「第一極」路線を打ち立てた。このカジノ資本主義への道は、ブルジョア階級の中枢部分が目指さざるを得ない資本主義の「発展」方向であるが、社会を崩壊させてゆく道でもある。自民党の今後がどうなろうとも、この路線は、政治的に復活すると見ておかねばならない。
昨年誕生した鳩山政権は、社会の崩壊に危機意識を強めるブルジョア階級の一半(広範な諸層)が主導し、超大国アメリカから一定距離を置いて東アジアとの関係と強め、社会の崩壊が引き起こす労働者民衆の怒りと社会再建活動とを政治的に包摂する「第二極」路線を打ち立てた。この路線は、「アメリカ一辺倒」と「東アジア共同体」の間で、また「市場原理主義」と「国民の生活が第一」の間で「ゆらぎ」ながら、新しい社会の模索を一定助長し包摂しようとする政権である。「ゆらぎ」は、この政権の属性に他ならない。
労働者民衆は、この政権の下で、新しい社会を模索し「第三極」政治を形成してゆくのである。この政治の立ち上げにとって、「第二極」政権の「ゆらぎ」は、決定的に重要な条件となる。だがそれは、左翼をふるいにかける試練でもある。
左翼は、二つの方面で試練にさらされる。
一つは、超大国アメリカからの自立を追求し、労働者民衆の生活再建と社会革命の諸要素を支援するという新政権の特徴的一側面を直視し、しっかり活用しようとしない誤りに陥る危険である。
たとえば「普天間」である。鳩山政権は、超大国アメリカのあれだけの圧力にもかかわらず辺野古移設の日米合意を実質的に棚上げし、揺れ動きながら「県外・国外」移設を模索し続けている。これは、戦後の自民党政権時代には考えられなかったことである。それはこの政権が、民衆の苦悩と怒りを包摂して支配秩序を立て直す課題を背負った政権であり、新政権におけるヘゲモニーが、グローバル(アメリカ)市場よりも東アジア市場に展望を求めるブルジョア階級の一半にある政権だからである。そして何よりも、沖縄民衆が政権側のこの側面をとらえ、「県外・国外」移設を求めて広範に立ち上がり、政権側のこの側面と連動していることにあるだろう。われわれは、このような沖縄の闘いを手本としなければならない。
ところが左翼の中には、こうした闘い方への転換を躊躇する人々がいる。極端になると、「鳩山政権打倒」のスローガンを掲げる。これは、超大国アメリカおよびその追随勢力とともに鳩山政権を挟撃する態度であり、沖縄民衆の要求の実現を阻害する態度になってしまう。
このような誤りは、支配階級の路線的分裂の深刻性を把握することができず、政権のブルジョア的性格を漫然と批判しているだけの態度から生ずるというだけでなく、労働者民衆の側の主体形成が最重要課題だということへの無自覚に起因しているのである。
労働者民衆は、生存の危機の広がりの中で、新たな社会の在り方を模索し始めている。民衆の要求を実現し、民衆自身による社会再構築の事業を発展させる、そうした主体の形成こそがいま最も重要なのである。その立場から、支配階級の内部分裂の拡大に対処すべきであり、民衆が求める社会の再構築を支援し包摂しようとする「第二極」路線を活用する必然性が出てくるのである。新政権の下では、労働者民衆の主体形成を第一に置かず、反権力的立場性を優先するような左翼は、労働者民衆から愛想を尽かされてその役割を終えることになるだろう。
もう一つの誤りは、新政権の労働者民衆に対する懐柔・包摂の限度を軽視する態度である。限度は、新政権がアメリカ帝国の枠組みと資本主義に立脚していることによって厳存する。この限度を軽視する態度は、当面はまだ大きな阻害要因になっていないが、労働者民衆の利益を代表する「第三極」形成の挫折を導くものである。
この点でとりあえず大切なことは、労働者民衆の総団結をめざす、失業・非正規労働者に基盤を置き闘争力量を高める、民衆自身の社会再建事業・地域づくり・住民自治の発展と推進しこれに依拠することである。
「第二極」政権は、労働者民衆の運動の発展に有利な内外環境をもたらす内的根拠を持つ政権である。この点を見定めて対処できなければならない。しかし、この政権は、「ゆらぎ」を特徴としている。アメリカ一辺倒・市場原理主義の「第一極」潮流も態勢と立て直してくるであろう中で、政治がその方向にゆらぐ時に、左翼が節度をもって相応にこれと対決することが出来ないなら、それはそれで労働者民衆から見放されることになる。そのことで民衆運動それ自身が政治的打撃を受ける。
今日の「ゆらぎ」が生み出す新生事物は、「第三極」政治勢力であり、現代の革命主体であるだろう。われわれは心して備えねばならないと思う。(M)