『絶対的過剰人口』考
  
                    社会の崩壊の一側面

                            深山 和彦

   絶対的過剰人口の形成

@今日、産業の成熟によって、産業資本の運動から貨幣資本が遊離し、過剰化する過程が進行している。機械制大工業の拡大再生産が基本的に終焉したことによって、この領域が新規投資領域としては限界に逢着したのである。他方、これからの時代の基幹となる・人間(関係)の豊かな発展を目的とする社会活動は、利潤を目的とする一つの支配・隷属関係である資本にとって本質的に適さない領域である。このため、行き場を失った過剰貨幣資本が投機マネーに転化し肥大化しているのである。
投機マネーの形態で現れる過剰貨幣資本の増大に対応して、労働者の過剰化が進行する。投機マネーが周期的に起こすバブル景気によって、失業の増大が一時的にある程度緩和されるとしても、事態の本質は変わらない。
 この過剰人口は、「相対的過剰人口」ではない。相対的過剰人口の基底に形成され膨張する絶対的過剰人口である。
 相対的過剰人口は、資本が牽引する「機械制大工業の発展」が作り出したものである。それは日常的には、農業人口を過剰化することによって生じる潜在的形態、より多くの労働手段を運用するのに相対的に少ない労働者をもってすることで生じる流動的形態、潜在的形態や流動的形態などから排出されることで形成される使い捨て労働力の貯水池としての停滞的形態という三つの形態をとって実存した。そして、こうした相対的過剰人口の底には、生活保護を必要とする窮乏層が形成された。
資本主義のシステムにおいて相対的過剰人口の存在は、労働者を相互に競争させ、資本の指揮・命令の下に従順たらしめるのになくてはならぬものであり、平均賃金を労働力の再生産に必要な最低レベルにむけて押し下げる役割を果たしてきた。
相対的過剰人口は、資本の中位の増殖欲求に比して過剰な人口であり、不況期にはその多くが失業状態を強いられるが、好況期にはそのほとんどが生産過程に吸収される。相対的過剰人口は、機械制大工業の発展、とりわけその新産業部門の勃興によって、繰り返し大規模に生産過程に吸収されてきた。
 これに対して絶対的過剰人口は、機械制大工業の発展が生みだしたものではない。それは、機械制大工業の発展の終焉(産業の成熟)したところで現れる過剰人口部分である。機械制大工業の発展の終焉が、過剰貨幣資本の増大をもたらすとともに、その対極に絶対的過剰人口を膨張させるのである。
 過剰貨幣資本が転変した投機マネーは、略奪的膨張運動を展開する。それは、国家資産の詐取としての「民営化」、企業を投機の対象としたM&A(合併・買収)、株式市場(賭博場)での相互略奪や中・下層の資産の巻き上げ、等々である。そこでは、新たな雇用は創出されない。
 しかし、相対的過剰人口を作り出してきたメカニズムは作動し続ける。産業の成熟によって、物的生産領域における新産業の勃興は望めない。生産の外延的拡大もバブルを起こすことによる以外、実現の展望はなくなった。そうした中で工業部門における労働人口の流動・過剰化は、成熟産業の一層の技術革新によって、慢性的過剰生産のレベルにある物質的富を生産するのにますます少ない労働力をもってする形で進行する。農業部門における人口の過剰化も、先進国では限界に逢着したが、グローバル経済の舞台で一層大規模に進行している。国際的大都市の基底に、過剰人口が滞留していく。このようにして相対的過剰人口を作り出してきたメカニズムは作動し続けているのである。
 そして膨張する過剰人口の少なくない部分が、今日では相対的過剰人口の役割さえ果たせず、絶対的過剰人口へと転落しだしているのである。
 マルクスは、「相対的過剰人口の種々の実存形態」について論じた個所で、潜在的形態、流動的形態、停滞形態という相対的過剰人口の三つの形態とともに、その最後に「相対的過剰人口の最低の沈澱」としての「被救恤窮民の世界」を付加している。この層が、今日では、相対的過剰人口産出のメカニズムの最後に付け加えられる社会層から、「絶対的過剰人口」として独自的に論ずべき社会層へと転化し、膨張しだしているのである。

  絶対的過剰人口の存在形態

 Aこの社会層は、三つの範疇から成り立つ。
 第一は、危険・過度・長時間労働や協働・共生関係の崩壊によって、身体的あるいは精神的な「障害」を被った人々である。第二は、産業構造(分業)の再編・転換の中で労働能力を転換する条件がないために失業した人々、資本が要求する労働年齢を超えたために就労できなくなった人々、子育てや介護といった生活条件がネックとなって資本が要求する労働条件では就労できない人々である。第三は、資本が仕事を提供できないために、就労できない人々である。
 絶対的過剰人口は、資本主義の仕方では就労することができない・基本的に収入を欠いている・自己の生存の維持さえ困難な人口部分である。この人口部分は、自己の生存の維持さえ困難であるから、子孫を育てる経済的余力を持たない。家族は極めて形成困難で、崩壊しやすい。この人口部分において、産業社会の就労・生活のリズムは外在的で疎遠となる。採取・狩猟時代的な生存の在り方が広がる。この人口部分の生活は、死への緩慢な道程でしかない。それは、対抗的なベクトルを欠いた時の帰結である。
 このため絶対的過剰人口の形成と増大は、機械制大工業の発展の時代に相対的過剰人口が果たしていた役割が控え目なものに映るごとく、労働者の地位と生活の不安定性を底抜け状態にしてしまう。
 絶対的過剰人口が増大してゆくということは、ブルジョア階級がおのれのシステムの内で、奴隷に奴隷としての生存を保障にできなくなった証である。それは支配階級が、自己の仕方で社会を存立させつづけることができなくなったということである。

  社会の分裂

 B一方における投機マネーの略奪的膨張と他方における絶対的過剰人口の増大という事態は、労働者が資本主義の下では生きていけなくなったこと、社会が分裂していくということを意味している。
 今日の社会の分裂は、イギリス産業革命に始まる・機械制大工業の発展を基盤としたブルジョアジーとプロレタリアートの階級対立の単なる延長・拡大再生産としてあるのではない。
 従来の対立は、資本制的生産様式による生産という一つの協働労働関係を共通の土俵とした、その土俵上での対立であった。資本家階級は、労働を組織し、労働者の生活をそれなりに保障する必要があった。労働者の側もそのことを所与として闘い、労働と生活を確保してきた。
しかし現代は、共通の土俵のないところでの対立が拡大している時代である。
 資本の方は、ますます多くの部分をマネーゲームで稼ぐ。労働者の方は、ますます多くの部分が、資本関係と無縁になり、過剰人口の大海のなかに投げ捨てられる。労働者階級の膨張する一大部分が資本主義下では生存できなくなり、社会の分裂と存続の危機が進行する。資本は、支配的な生産関係としての社会的責任を放擲しだしているということである。
そして絶対的過剰人口部分は、死への道を余儀なくされる。この人口部分は、資本主義にとって(社会にとってではない)絶対的に過剰な人口部分であり、資本主義に代わる仕方で生産と生活を組織し新たな社会を創り出していく以外に、生きる道をもたないのである。
支配階級は、自己の奴隷制の内部で被支配階級に生存を保障できなくなった証である絶対的過剰人口の膨張を放置できない。ブルジョア階級は、国家による生活保護という形で破綻を弥縫しようとする。この人口部分が財政的限界を超えて膨張していくとともに、民衆自身による社会再生活動への依存を強め、それを支援し、政治的に包摂しようとする。この構造は、国家連合である国連や各々の国家による援助、NGOに対する政策となってグローバル化している。
しかしブルジョア階級は、民衆自身の社会再生運動を十全に開花させようとはしない。絶対的過剰人口は膨張せずにいない。今日、世界人口の6分の1に当たる10億人が1日1ドル以下で生活していると言われる。政治的・社会的・経済的な秩序が、世界市場の周辺部から・ブルジョア社会の底辺部から崩壊しだしている。周辺部における海賊・山賊の跋扈や、中心部における刑務所収容人口の増大も、そのことと無関係ではないだろう。

  ビル・ゲイツ「創造的資本主義」の意味

C絶対的過剰人口の増大は、ブルジョア階級の間に、これまでの資本主義の在り方への深刻な危惧を生みだしている。その代表格がマイクロソフト会長・ゲイツ財団共同会長のビル・ゲイツである。彼は、スイスのダヴォスで毎年開催されている世界経済フォーラムにおいて、二〇〇八年一月、従来の在り方とは異なる資本主義への転換の必要を次のように訴え、それを「創造的資本主義」と呼んだ。
「純粋な資本主義体制では、裕福な人々のために働こうとするインセンティブは、多くの見返りが期待できるため高くなりますが、貧しい人々のために働こうとするインセンティブは、あまり見返りが期待できないため低くなります。とくに相手があまりに貧しい場合には、そうした人たちのために働こうとするインセンティブなど全くなくなってしまいます。だからこそ私たちは、裕福な人々のために機能している資本主義のさまざまな側面を、貧しい人々のためにも機能させるような方法を見つけ出さなければならないのです」(「ゲイツとバフェット 新しい資本主義を語る」マイケル・キンズレー編 和泉裕子・山田美明訳 徳間書店)と。
 ビル・ゲイツの「創造的資本主義」提起の歴史的意味は、三つある。
 一つは、「あまりに貧しい人々」の問題が浮上し、世界トップクラスの大富豪さえ、「純粋な資本主義体制」に疑問符を付けざるを得なくなったということである。
 その根拠は、産業の成熟、地球環境限界への逢着、モノから人(含・環境)への中心的欲求の移行によって、慢性的な過剰生産の時代に突入したこと、絶対的過剰人口が膨張する時代に入ったことにある。新産業を勃興させ、大量の新規雇用を創出して物的豊かさを実現できた時代は、世界史的には終わっているのである(新興国の「新産業」は、世界史的意味では新産業ではない)。 
 二つは、「創造的資本主義」も、問題を解決できないということである。
 今日の絶対的過剰人口の増大は、物的生産(=産業)の発展を中心的目的とした社会の在り方の終焉、人間(および自然環境)の豊かな相互関係を創り出していく社会の在り方の創出を求めている。だが資本主義は、利潤を目的とする一つの奴隷制である以上、この時代の要求に適合する方向で自己改造することには、本質的に限界がある。
 三つは、ここに見られるゲイツの資本主義改造論の提起とこれに対する資本主義保守論(市場原理主義)からする反駁が、これからの一時代を通して拡大していく支配階級内部の葛藤を象徴しているということである。
 ブルジョア階級は、資本主義をやり続けなければならず、巨大投機マネーの略奪的膨張運動を推進しなければならない。しかしそれは、絶対的過剰人口の増大、社会の分裂と崩壊を促進する。このジレンマが、これまで通りひたすら金儲けにまい進すれば万事うまくいくと主張する傾向と、労働者民衆を懐柔・包摂して社会秩序を維持することに腐心する傾向への、支配階級の今日的内部分裂を生みだしている。