新政権外交を評す〕
  
  なぜ「東アジア共同体」は支持できるか
      東アジア労働者民衆の連帯めざし、有利な環境かちとろう

@外交戦略の政治性格

 鳩山首相は、九月二十四日、国連総会において一般討論演説を行い、世界に向けてその外交戦略を表明した。「友愛精神に基づき、東洋と西洋の間、先進国と途上国の間、多様な文明間等で世界の『架け橋』となる」と。
 われわれはまず、この表明の中に、二つの政治的意味を見ておく必要があるだろう。
一つは、「対等の日米関係」を一定実現する際の戦略的環境づくりという側面である。
「対等の日米関係」の実現という新政権の目標設定に対して、自民党や大方のマスコミは、非現実的だと口を極めて非難してきた。確かに日米の力関係からだけで計るなら、非難している勢力の対米従属的本性は問題あるにしろ、一理あることだろう。
しかし、今日の日米関係は、国際的な相互関係総体の中において、しかも時代の変化の中において見るならば、歴史的な転換が問われているのである。
アメリカは、イラクから撤退を始めており、アフガンでも敗勢を建て直すのが難かしくなっている。国民の間に厭戦気分が広がり、財政的にも莫大な戦費を賄う余裕がなくなっている。これにアメリカ発世界恐慌が重なって、世界的規模で無秩序化が拡大している。そして中国の台頭に端的な世界の多極化も、急速に進行している。このためアメリカは、世界支配戦略の抜本的転換が問われているのである。
転換の方向は、「核廃絶」「地球環境保護」「貧困撲滅」といった人類共通の課題を立てて共同関係を再建しながら、東アジアなどの諸地域の自主的支配秩序の形成を大幅に承認し、軍事的戦略配置の大胆な後退を実施していく以外ない。しかしオバマのチェンジは、軍部や金融資本などの抵抗もあって、きわめて不徹底になっている。
鳩山首相の「架け橋」外交戦略は、このような状況の中で、アメリカの世界支配戦略が世界の現実に適合する過程を先取り的に促進することによって、「対等の日米関係」をある程度実現しようとするものである。
二つは、それが、内政における懐柔・包摂政治の継続としての外交戦略であり、それを通して政治大国の地位の確立をめざす側面をもっているということである。
小泉政権以来のアメリカ一辺倒・市場原理主義の政治は、問答無用で侵略戦争を発動するアメリカに追随し、「格差が何で悪い」と開き直る、いわば対決の政治であった。この対決政治から、友愛政治に転換しようという訳である。政治は一貫性がないと、人々の同意と積極的行動を引き出すことはできない。政治の転換をやろうという時に、外交戦略を含めた政治の一貫性が新政権に問われた。「架け橋」外交戦略の表明は、まずそうした意味を持っていよう。
また今日の国際政治と内政は、アメリカの帝国的世界支配とその下でのグローバル経済の発達によって相互に深く連関し、一体化してきている。そうした意味でも、外交戦略は内政の継続としての側面を強く持つものとなっているのである。
鳩山首相は、「日本が『架け橋』となって挑む」課題を五つ挙げた。「世界的な経済危機への対処」「気候変動問題への取り組み」「核軍縮・不拡散に向けた挑戦」「平和構築・開発・貧困の問題」「東アジア共同体の構築」である。まさにこれらの諸課題は、内政問題であり、しかも国際的な共同による解決が必要な課題である。それらの解決のために、日本が国際的な『架け橋』になるという表明は、懐柔と包摂の友愛政治を内政においてだけでなく国際政治の舞台においても主導的に展開し、そのことを通して政治大国の地位を確立するのだという意思表示に他ならない。

A東アジア共同体の構築について

 新政権の外交戦略にとって「東アジア共同体の構築」は、政治的に極めて重要な位置を占めるものである。
 まず第一に、「東アジア共同体の構築」の必要と展望は、「対等の日米関係」を実現していく際に、それを正当化し導く国際環境となることである。侵略・植民地支配の歴史の清算と戦後冷戦構造の解消をテコに東アジア共同体の構築へと展開することで、超大国アメリカのくびきからの自立の道が大きく開かれるのである。
東アジアと軍事的に対抗している現実を解消せずにアメリカとの対等な関係を実現する道は、観念的には核軍事大国の道としてある。それは、アメリカも東アジアも敵に回し、孤立して軍事的に暴発する道、内外民衆を地獄に突き落とす危険な道である。しかし、アメリカ帝国の世界支配力が衰退する中、台頭する東アジアと軍事的に対抗した状態で向き合う時、そうした危険な道を唱える傾向も増大してこずにはいない。そうであるからこそ、アメリカ・オバマはプラハ演説において、日本の核武装の危険を政治的に封じ込める(核独占体制維持の)意図を込めて、広島・長崎への原爆投下にたいする「道義的責任」に言及したのである。
 こうした時代状況の中で鳩山首相は、EUを手本に、東アジアとの壁を打ち壊す道を選択し、踏み込もうとしている訳である。
 第二に、「東アジア共同体」は、相互依存関係を深めつつ勃興する東アジア市場(実物経済)発展が要求するところであり、超大国アメリカの地盤沈下によって、その実現への道が開かれようとしていることである。
 特にこの間の世界恐慌は、政治的には新自由主義・市場原理主義として表現されるアメリカの巨大投機マネーのヘゲモニーを世界的規模で後退させた。たしかに世界史的には産業の成熟によって、新規投資領域を実体経済に見い出せなくなった貨幣資本が巨大投機マネーに転化し、支配的地位を占める時代に入っている。しかし、巨大投機マネーが引き起こした世界恐慌によって、実体経済を重視し建て直す方向への政治的揺り戻しが生じている。これを背景に中国経済の影響力が、アメリカを頂点とするグローバル経済の構成部分にありながら「産業革命」期にあることによって、急浮上している訳である。
 そして、これと連動して日本の支配階級内部においても、多国籍企業から東アジア市場に主として依存する広範な層へとヘゲモニーが移行した。後者の利害を主として代表する政治勢力が、格差と貧困の淵に沈む労働者民衆の苦悩と怒りを政治的に包摂してヘゲモニーの移行を実現したのである。
 こうしたことによって、「東アジア共同体」は、アメリカの逆鱗に触れて潰された構想段階から、実践的段階への道が開かれようとしているのである。

B問われる態度

 資本主義は、基本的には、アメリカ一辺倒・市場原理主義をやって巨大投機マネーの略奪的膨張運動を推進する「発展方向」にしか生きる道はない。しかしそれは、社会を崩壊させてしまう。これからの一時代のブルジョアジーは、このジレンマの中でやっていかなければならない。このため支配階級は、巨大投機マネーの運動を維持するのためには社会の崩壊が拡大してもやむなしとする部分と、その「発展方向」を基本的には是認しつつも、超大国アメリカと一定距離を置いて社会の崩壊をくい止めることに腐心する動揺的部分とへ、分裂を深めていくことになる。小泉政権が前者の路線を立ち上げたのに対し、鳩山新政権は後者の路線を立ち上げたである。
 そうした中でわれわれが実践の核心に置くべきは、労働者民衆が社会の崩壊(生存の危機)に抗して推し進める社会の再建と闘争力量の蓄積、「第三極」政治の形成に助力することである。新政権の外交政策に対して取るべき態度も、その一環でなければならない。
 まず第一に、「東アジア共同体の構築」は、基本的に支持することである。
 われわれの立場は、いまだ存在する歴史問題と冷戦構造の壁を解消し、国境の壁を掘り崩し、この地域で強まる排外主義を打破して諸民族の共生関係を創り出し、東アジアの労働者民衆同士の協同と連帯を発展させるところにある。東アジア共同体の構築は、この立場から見て、前進的環境を創り出すものである。
 もとより「東アジア共同体」は、市場統合を基盤とするものである。それは、労働力市場や農産物市場のそれを含む。それらは、失業を増大させ、競争を激化させ、労働者民衆の生活を悪化させる方向に作用する。われわれはこれに対して、地域を基盤に、人間(環境)を大切にする相互扶助社会への社会の在り方の転換、地産地消への経済構造の改造、労働者民衆の連帯と闘争力量の育成などによって対抗する方向と条件を創出・獲得していかねばならない。
 東アジア共同体構想の推進は、日朝国交正常化の実現を問うものでもある。それは、アメリカの覇権に抗して東アジア共同体を自立的に実現する上で、最大の攻防環・転回点となるものである。
 第二に、「対等の日米関係」の一定の実現は、「第三極」政治の形成にプラスである限りにおいて、闘いとることに尽力することである。
 われわれは、全世界の被抑圧諸民族人民の側に立ち、超大国アメリカを主柱とする国際反革命同盟体制と対決する立場にある。現代においてアメリカ帝国主義と日本帝国主義の対等な関係はありえないし、それがわれわれの目標でもない。しかし、「対等な日米関係」の一定の実現は今日充分可能であり、それは労働者民衆の主体力量の形成にプラスであり、その限りで推進すべきことである。
なぜプラスかと言えば、まずアメリカ一辺倒・市場原理主義という労働者民衆の生活破壊・連帯破壊の政治からの転換を推し進めることを意味し、新政権の労働者民衆に対する懐柔・包摂の側面(譲歩)を大きくすることに連動するからである。またそれは、「東アジア共同体」の構築をやりやすくし、東アジアの民衆連帯を促進するからである。
新政権は、労働者民衆と連合して初めて、支配階級の間でヘゲモニーを発揮できる政権である。民衆の側の関与がない時、この政権は「現実路線」に転落していく。対米関係においては、それはてき面に現れる。われわれは、反戦・反基地・反安保の闘争を推進することによって、これに積極的に関与していかねばならない。
第三は、超大国アメリカおよび対米一辺倒勢力による「第二極」政権打倒の動きに対しては、断固として闘うことである。
新政権は、一方でアメリカ一辺倒・市場原理主義の側面と、他方における東アジア共同体を目指し・労働者民衆の苦悩と怒りを懐柔し包摂する側面の間で動揺する「第二極」政権である。それゆえわれわれは、労働者民衆の主体力量の発展のために、この政権の前者の側面とは闘い、後者の側面とは協力するということになる。
「第二極」政権に対して批判し対決するだけで良しとする態度は、当面の情勢下では誤りである。なぜならアメリカ一辺倒・市場原理主義の「第一極」勢力と連動して「第二極」政権を挟撃し、前者の政権奪回に手を貸すことになるからだ。要するに、「北東アジア共同体」を目指し、北東アジアの「バランサー」であろうとした盧武鉉政権の方が、アメリカ一辺倒の李明博政権よりはるかに良いという話である。(M)

 
〔新政権内政を評す〕

官僚依存・官僚主義の克服を中央・地方で
     市町村を基軸とした分権改革を闘いとろう

 総選挙での民主党の圧倒的勝利は、民主党中心の連立政権を樹立させた。それとともに、早速、「官僚内閣制」を打破するためのさまざまな活動が、新政府によって開始された。
 思えば、官僚機構は、戦前の専制主義天皇制(外見的立憲主義)を支えた最大の政治機構であり、第二次世界大戦の敗北によってもほとんど再編されず(内務省など一部を除き)、基本構造とその思想・体質も克服されずに継続されてきた。
したがって、法律的には、戦後憲法下で「議院内閣制」が設立されたが、実際にはそれが歪曲された「官僚内閣制」を実現させているのが、今日の日本の官僚制度の実態である(端的な表現は、毎年の予算編成の構成比率がほとんど変わらない点にある)。
そこでは、歴史的な積み重ねの上に官僚機構が「自立化」し、行政府が各省庁の権益の連合体と化し、高級官僚が総理大臣をはじめ各大臣をしばしば背後から操縦し、法案作成もまたその多くが官僚によるものとなっている。しかし、名文上、官僚は政治家に従わざるを得ない。だが、無能な政治家が多い自民党の政権下では、実際活動において政治家は官僚に依存せざるを得ない。だから、政治家と官僚の癒着が生じる。しかも、今日の資本主義制度のもとでは、独占資本ブルジョアジーの利益実現を最優先する必要から、政・官・財(業)のトライアングルが形成されるのであった。このような政治体制のもとでは、民衆の生活が蔑(ないがし)ろにされるのは、けだし、当然である。
従来の官僚依存の政治を変革し、「官僚内閣制」を克服しようというのが、民主党の一つの重要な目標である。だが、戦前以来の歴史と伝統を持つ官僚たちの体質は、容易には変われるものではない。官僚たちは、さまざまな抵抗やサボタージュを行ない、その攻防は短期間で決着しうるものでもないであろう。はたして、民主党はどこまでその目標を実現できるのであうか。

  いかなる立場からの地方分権か

さて、官僚依存の政治からの脱却、官僚主義の克服は、当然のこととして、中央政治にとどまるものではない。地方政治においても、同様のことが必要なのである。地方政治においても、地方自治体の官僚のタテ割り主義、縄張り主義が存在し、それらに加え、中央従属主義も根強くある。しかも、地方政治における議会・議員の活動もまた、決して十全なものではない。
この中央従属主義に関連して、中央と地方の関係を改革することは、地方自治・住民自治の発展にとって極めて重要で焦眉な課題である。
今回の総選挙を前にして、民主党は七月二十七日に、マニフェストを発表した。しかし、各方面からのクレームにより、民主党は、八月七日、「農業分野に関連してのFTA(日米自由貿易協定)問題」、「成長戦略の明示」、「地方分権」の三点で修正した。
「地方分権」での修正は、「分権改革」の「協議の場を法制化」することが記された。しかし、その内容は、全くもって不明確である。そもそも、修正は橋下・大阪府知事らの要求意見などを踏まえたものと見られるが、そのこと自身が問題をはらんでいる。
「地方分権」といっても、その内容は極めて多義的で、思想傾向としては正反対ともなりうるものである。一方では、基礎自治体(市町村)を優先するという立場もあれば、他方では、都道府県や財界が主張する「道州」に軸点を置くものまである。
橋下知事の場合は、マスコミなどで報じられる限り、広域行政圏の施策を充実させるための立場から、「地方分権」が強調されているように思われる。それは、まさに経団連の主張する「道州制」と符合するものである。橋下知事は、はたして基礎自治体を優先し尊重する見地から、基礎自治体の財政自主権を確立し、都道府県は基礎自治体の補完活動に徹するという体制作りにどれほど献身しているのか―寡聞にして耳にしない。
民主党は、いちおう、基礎自治体を優先する立場をとっていると耳にするが、橋下知事とのズレを必ずしも明らかにしていない。総選挙直前の「戦術的対応」なのか否か、はっきりしないが、いずれかの時期には白黒を明らかにしなければならないであろう。
同様なことは、「地域主権」なるあいまいな用語にもみられる。民主党は、よく「地域主権」という用語を使う。今回の政権交代で、総務省には「地域主権室」なるものも設置されるようだ。だが、この「地域主権」の「地域」とは一体何を指しているのであろうか。基礎自治体なのか、都道府県なのか、経団連の言う「道州」なのか、それとも基礎自治体の下の支所レベルを指すのであろうか。そして、「地域主権」と、憲法に明記された「主権在民制」はどのような関係になるのであろうか。全くもって、あいまいである。
九月二十九日、原口総務相は、橋下・大阪府知事や中田宏・前横浜市長ら「首長連合」のメンバーと会談し、鳩山政権のかかげる「地域主権」の原則について連携していくことで合意したといわれる。それは、「分権改革」の柱である「出先機関の原則廃止」や「国と地方の協議の場の法制化」などを進める狙いからだとマスコミなどでは報じられている。
無駄な二重行政を整理したり、(地方自治を発展させるために)地方や国の当事者を含めた「協議の場を法制化」したりすることは、必要かつ重要なことである。しかし、「国と地方の協議の場」を中央と地方の行政府レベルの協議に狭めるとするならば、それは誤りである。それでは、「国と地方の行政府の談合」に堕するものである。
地方自治を発展させ、住民自治を拡充するためには、中央政府の支配と統制から脱却し、自己統治を制度的に確立・強化し、地方自治体とくに基礎自治体の財政自主権を確立することである。
これらの施策を恒常的に担う機関が是非とも必要なことは、本紙458号(07年12月1日号)の堀込論文(「小泉三位一体改革と地方零落・格差拡大」)でも提唱されている。それは、地方6団体のいう「地方共有税構想」(地方交付税を国の一般会計を通さず、特別会計に直入するなど)などもふまえ、国会に直属する地方自治委員会(仮称)の設置である。つまり、内閣の一部としてのかつての自治省や自治庁という発想ではなく、中央政府が支配・統制できない形での恒常的機関を国会の下に設置し、活動させるのである。
この地方自治委員会は、地方・中央の議員や行政マン、地方自治体の首長、地方自治に係わる専門研究者などによって構成される。そして、地方自治体のための情報収集と情報の公開、地方自治体にかかわる法案の作成、地方自治体の財政調整などを任務とする。
ともあれ、官僚機構の改革をめぐる闘いは、長期戦となるであろう。地方自治・住民自治の原則的見地に立って、基本政策や当面する方針を磨き、腰をおちつけ、広範な民衆の闘いとともに粘り強く推し進めることが肝要であろう。  (H)


千葉県野田市

  公契約条例を全国で初めて実現
     公契約法の制定、最賃制の変革へ


 九月二十九日、千葉県野田市の市議会は、全国初の公契約条例を全会一致で可決した。
この条例が提案された背景には、一般競争入札のかかえる問題点がある。野田市の根本崇市長は、条例案提案の理由として「提供されるサービスや財に対する品質の確保が問題となり、さらに低入札価格の結果、業務に従事する労働者や下請け業者にしわ寄せがなされ、賃金の低下を招く状況が発生しています。」と述べている。地方自治体の財政難を背景に、自治体発注の公共事業に一般競争入札が広がったが、そのために入札価格が低価格に抑えられ、その結果、品質上の劣悪化や受注企業(その下請企業も)の労働者の賃金低下が深刻になった、ということである。
採択された条例の対象は、予定価格が一億円以上の発注工事(野田市では、年平均4件ほど)や、一千万円以上の業務委託であるが、下請け企業にも同様の規制を適用するとしている。下請け企業などが違反した場合、契約解除はもちろんのこと、受注者が下請け企業らと連帯して違約金を支払う義務も明記されている。
野田市は、農水省と国土交通省が、公共工事の積算に使用している労賃単価を基準に市長が賃金の最低額を定める予定だ、としている。今年度の千葉県内での労賃単価は、「例えば鉄骨工が八時間1万6700円、配管工が1万8千円。同市は『労務単価の約8割』を基本に考えたい」(『朝日新聞』九月三十日付け朝刊)としている。業務委託の場合は、「市の用務員の初任給」を基準に、「時給八二九円を想定している」(同前)といわれる。

  新自由主義の追撃を

 今回の公契約条例は市長提案であるが、それが全会一致で採択されたことは、地元の政治地図でたまたま市長を支持する関係にあった自民党系が反対できなかったためと思われる。また野田市でも全建総連などの運動はあったものの、条例制定の大きな市民運動があったとも言いがたい。だが、いずれにしても、全国初の公契約条例が採択された意義は大きい。
 国がこの問題を避けて放置し、ILO94号条約(公契約における労働条項)も批准していない現状からすると、全国の地方自治体が野田市の採択に続き、公契約条例を拡大させるならば、民主・社民・国民新党の連立政権を動かし、公契約を法律で定め、ILO94条約を批准することも決して不可能ではないからである。
 わが党は、二〇〇五年七月に開催された第三回党大会で労働運動決議を採択し、その中で賃金闘争の課題の一つとして、中央政府や地方自治体に、自ら発注する公共工事や委託業務に従事する労働者の労働条件を守るという責任を果たさせるために、次のように規定している。「D公契約は、価格競争入札ではなく、入札基準に労働条件、人権、環境、福祉、公正など社会的評価を加えた総合評価方式に転換していく。最低制限価格制度を積極的に活用し、公的機関が委託や請負を行わせる場合はその地域の平均的労働条件を切り下げることがないよう規定したILO公契約条約〔第94号〕の実現をめざす。さらに民間の契約にもこの考え方を拡げる」と。(また、この課題について詳しくは、理論誌『プロレタリア』5号の佐藤浩著「自治体公契約条例制定で公正労働基準の確立を」を参照されたし)。
総合評価方式をもった公契約条例の実現やその法律化における大衆的な闘いの意義は、第一に、いわゆる官民の労働運動を連帯させるのはもとより、環境保護運動、女性解放運動、障がい者解放運動、ホームレス自立支援運動などさまざまな運動体との連帯と交流を一段と強化し発展させるに大いに役立つことにある。
第二に、今日の審議会方式で決められる最低賃金制度がマンネリ化し、最低賃金の向上にほとんど貢献していない現状を打ち破る別の角度からの一つの手段となりうるからである。
自公連立政権の崩壊は、日本における市場原理主義の破綻の一つの証左である。しかし、民主党とて、市場原理主義から完全に無縁とはいえないのであり、公契約条例の拡大と国会での法律化の闘いは市場万能主義に対する追撃ともなりうる。地域的な闘争体制を強化し、公契約条例の実現と最低賃金制度の変革のために、粘り強く闘おう。(T)