【沖縄からの通信】

「琉球独立」論の危うい行方

沖縄的ナショナリズムの右翼的転回策す「南西諸島防衛論」

 「政権交代」下の当面の争点の一つは、新政権の沖縄基地政策であるが、長い視野で見ると沖縄基地問題の背景には、今後も琉球・沖縄が日本に帰属し続けることが是なのか非なのか、という歴史的論争点が存在する。
この点について労働者共産党は、「琉球・沖縄人の民族自決権および自己決定権を承認する」(99年・共同声明)として、帰属問題および他の重要問題での沖縄人民自身による意思決定を支持する態度を明確にし、これを前提に日本・沖縄の労働者階級人民の団結をおしすすめてきた。「本土」側が、日本帰属の是非を沖縄側に強要するほど誤った態度はない。他方、沖縄人側は帰属問題を決定できる当事者であり、沖縄人どうしの間では、日本帰属の是非について積極的に論争すべき立場にあるといえるだろう。
以下に掲載するのは、沖縄人同志による「琉球独立」論批判である。(編集部)

  新しい「独立論」の登場

今年2009年は、〈薩摩侵攻400年・琉球処分130年〉という歴史的節目を機にして過去から未来を展望し、マスメディアを含めて沖縄・琉球の全体像が論じられることが多かった。
三月から5・15(日本復帰37周年)にかけては、「琉球独立」あるいは「琉球人の自決権確立」を主張する人々の活動が展開された。その集会・デモなどでは、ここ数十年間、「独立論」を真剣に営んできた人々(その正統派とも言えるような人々)は退却し、新しい人々が登場している。「本土」から集会参加の人々のことはよく分からないが、正統派の後継者あり、右翼的独立論者から左翼的自決権支持派まで諸傾向があり、さらには火事場泥棒的利用主義者や自己中心主義者とでも言うべき人々もいる。
しかし、この新しい「独立論」の企画においても、「復帰運動をどう捉えなおすか」、「現在の世界をどうみるか」、「東アジアはどうなっていくのか」、「沖縄の社会経済構造において何を捨て去り、何を確立するのか」、「沖縄の現状を植民地と規定できるかどうか」等々、「独立論」を真面目に論じるならば当然問われるこれらのテーマについて、真剣に俎上に上げているとは言いがたい。
筆者は、「独立論」はイヤではないが、今日の「独立論」には親近感がもてない。「現状で、独立論がなぜ市民権を得られないのか」、「反基地で日本政府・日本国家と対決している活動家たちとの現在的関係を、独立論者はどうするのか。相互間にいかなるくい違いがあるのか」等々が自省されるべきであるが、かれら独立論者は他との関係について何の思考もないのである。

  植民地規定と反併合論

新しい「独立論」の政治的特徴は何か。@「併合」の歴史認識。とくに日本復帰を「再併合」とすること、Aアプリオリーな沖縄への「植民地」規定、この二つによって「独立論」を「成立」させていると言えようか。「独立によって、米軍基地その他いかなる問題でも、すべて解決できる」と、独立論者は言う。しかし、「観念の上では」と付け加えねばならない。
新基地建設と闘っている活動家たちは、かれらに対し、「独立を言うなら、最低、辺野古を徹底的に闘うべきではないのか」と、常々批判している。真っ向から日本政府・国家と対立している辺野古の闘いをたたかわずして、どうして独立運動の主体性を作りうるのか。
薩摩侵攻の四百年前、琉球は、王族と士族が百姓を支配する王国であった。それは琉球処分による尚王朝廃止まで長く続いた。しかし今は、その社会構成は、すべて分解をとげて一つとして残存していない。今日の沖縄の労働者人民に、過去の沖縄社会から引き継がれてきた一様な琉球アイデンティテーが存在するのか。琉球王国としての歴史を理由にして、またそこに(王国という意味ではないが「琉球」という括り方に)帰らざるを得ないのか。別の道はありえないのか。伝統的要素としてのウチナー文化は、「独立」の根拠足りえない。ウチナー文化自体が変化・発展していく。
琉球400年を、四つに時期区分して見てみよう。
@ 1609〜1879年、薩摩権力下の「琉球王国」。
A 1879〜1945年、琉球処分以降の天皇制下の沖縄県。
B 1945〜1972年、米軍占領下の「琉球政府」。
C 1972〜現在、日米安保体制で米軍基地が集中的に置かれる日本権力下の沖縄県。
@の時代。士族層に親清・親薩の対立あり。この対立に百姓は無関係的な部分。百姓に反薩運動起こらず。
Aの時代。親清派士族に反日的な渡清嘆願行動あり。ロシア革命の影響受け、マルクス主義伝わる。県民多数派の農民等は琉球人差別を受けつつ、「日本人になりたい」意識を植えつけられる。自らも「皇民化」を徹底させつつ、台湾や南方諸民族に対して、天皇制思想・皇民化宣伝の媒介役となる。
B沖縄戦での「玉砕」「集団自決」の後、「軍作業」で生活しつつ、復帰運動起こる。初期には、米合州国帰属論を含む体制派の独立論あり。また人民党の少数に琉球独立論あり。
C多数派は復帰運動であったが、復帰前後に言論界で思想的独立論あり。
このように併合された歴史をはじめ、独自の歴史を持ち、独自の民族性と文化を持っていること、また労働者民衆の多数派が沖縄人として一かたまりの政治意識を持ちつつある以上、可能性として、独立論はありうる。
とくに、植民地規定が成立するという前提からの帰結ならば、当然「独立」はありうる。第二次世界大戦後、旧植民地のほとんどで独立国家が作られたように。しかし独立論者は無前提に、熟考せずに「植民地」沖縄を語っている。「植民地」規定ができるか、できないかは厳密でなければならない。なぜなら、人々を説得し、政策を持つためには、その「植民地」規定の正当性が前提とならなければならないからである。本来なら、ここが独立論の核心部分となる。
基地の島・沖縄の形容として、「軍事植民地的な」と言う言葉が使われることがある。沖縄への米軍基地の集中特化、沖縄特別法と言うべき米軍用地特措法の適用実態、基地のためのインフラへの財政投資、自由な産業・経済発展の抑止と「自立経済」を目指さない政策等は、「軍事植民地的」という言葉が使われてもよい。しかし、この現状を、日本政府による沖縄への構造的差別と言うことはできるが、「植民地」規定の根拠とするのは社会科学的ではない。
独立論者は、アプリオリー(先見的)に沖縄は「植民地」だとし、だから「併合」反対だと教条を振り回している。それでは何の説得力もない。
また、「併合されたのだから独立する」論も、必ずしも成立するものではない。琉球王国は、薩摩侵攻によって、また琉球処分によって併合された。その二度の「併合」時、問題足りえたのは(問題だと認識したのは)士族たちであって、王国で多数派の一般百姓は、その身分故にカヤの外であった。王族・士族と百姓からなる琉球社会の構成は変化をとげ、今は労働者が多数を占めるブルジョア社会となった。このブルジョア社会多数派に「併合」の歴史認識がありやなしや。ありとしても「独立」の決定要因となりえるか。「併合」から四百年〜百三十年、現代人は幾世代たってもそのDNAは受け継いでいるが、「併合」をその当時の意義で受け継いではいない。また「在日」2世・3世の帰属意識はいかに(それは琉球か)。
また、1972年「再併合」論は、復帰運動をどう評価するかという難問があるので、なおさら巧妙な立論が要ることとなる。

  「独立だ!」は統一戦線要素

下層を成す沖縄の労働者には、日本でも中国でも、琉球でも、よりよく生存できればどこでもよいとする人々、「独立」に拘泥しない人々も多い。ある調査(台湾の研究者のもの)によれば、沖縄人口の4分の1が「独立」を受容するという。ここで言われる独立とは一様ではなく、かならずしも政治的な独立国家を意味するものでない。
沖縄人は、次のように言われ続けてきた。「沖縄人は基地と共存せよ」「ジェット機の轟音は自由の響きだ」「軍施設を作る、訓練場を作るから、この山あの海は立ち入り禁止」「PAC3を配備する」「ここに新基地を作る」などなど、日米の勝手でいじめぬかれるとき、人々はテーブルをひっくり返して「独立だ!」と叫ぶ。
あちらこちらで叫ばれる「独立だ!」は、必ずしも国家としての「独立」を意味するものではなく、もっとも簡単明瞭な言葉での「反日」「反ヤマト」を意味する。こういう「反日」としての「独立」は少なくはない。これはまた、沖縄の反戦反基地の土台とも重なり合っている。だから、そういう「独立」論に対しては、ていねいに扱うべきであり、いかに、日本政府と対決する沖縄の統一戦線へ組織的合流を図っていくのかにとって重要問題である。

  再び煽られる「尖閣」領有

権力側も、このような民衆側の「独立」を、かれらのナショナリズムの運動体にいかに合流させていくかを画策する。今日、そのキーをなしているものが「尖閣列島」の領有権主張と資源開発、および「南西諸島防衛論」ではないかと思われる。
七月八日、浜田防衛相が琉球弧西端の与那国島を初訪問した。「南西諸島」での国防を煽り、先島への自衛隊進駐を策している。八月二日の与那国町長選挙で、自衛隊誘致派の現職が反対派候補に僅差で勝ち、その危険が高まっている。
自衛隊と国防族は、大浜市長(八重山石垣市)の「尖閣」訪問を企図した。また辺野古新基地についての建設固執派は、仲井真知事ら沖縄県防衛協会がその中核である。
一九七二年の復帰直後、復帰協の母体組織と全政党が「尖閣列島石油資源開発促進協議会」に取り込まれ、それまでの返還協定での保守・革新の対立が一転して、ナショナリズム一色に塗り込められたことがある。またしても一大ショービニズムが、すぐそこまで迫ったのである。しかしその「意図」は、日本政府との間の他の矛盾が高まり、この時は失敗に帰した。
あれから三十年以上が経っても、今でも、機を見ては「尖閣」が突き出されてくる。たんに「領土問題」としてではなく、沖縄の民衆意識の右翼的転回、沖縄的ナショナリズムの権力側への回収を策してのことである。

  屋良朝助一派の策動

新しい「独立論」の担い手として登場している屋良朝助一派は、この沖縄「独立論」の権力側への回収策に、まさに呼応している部分である。「尖閣」も「独立」も、かれらの売り物だ。新しい「独立派」の一翼に屋良も、堂々と座を占めており、無料のパンフレット『琉球独立』を大量に配布している。言うことに、「尖閣の石油資源を開発して、琉球(独立国家)の経済を建設する」である。
〇六年、屋良朝助は、糸数慶子と自公との事実上の一騎討ちであった知事選に立候補し六千票あまりを得た。その立候補は、新基地阻止での世論統一を妨げる策謀である。
ここで改めて「尖閣」の歴史について触れざるを得ないが、「尖閣」は、日本帝国併合以前の琉球の版図には存在しない。当時の琉球漁民の帆船やカイ舟が、深い海溝の荒い黒潮を越えて、中国の大陸棚上にあり台湾の浅海地域にある「釣魚」(尖閣)に行くようなことは無かった。「尖閣」は琉球から見ると、冊封使の巨船でさえも命を落とすまでに危険な海域を越えなければならないむこうにある。中国の大陸棚上、浅海部にあるから、四百年以前よりもっと古い地図には「釣魚」と載っている。「尖閣」の名は、十九世紀になってから、航海の便宜上、イギリス海軍が命名したものである。日本政府が中国侵略の歴史的流れの中で、燐鉱を略奪するために略取したのが始まりで、日清戦争時に日本領としたものであって、沖縄が領有を主張し始めたのでは無い。こんにち日本帝国主義は、「尖閣」が沖縄固有の領土だったと、歴史上成立しない無理を通している。
新しい「独立派」の人々は、この日本政府の論拠に拠って、「尖閣」は沖縄のモノだと主張するのだろうか。そう主張するなら、琉球王国の時代から沖縄のモノだったことを実証しなければならない。
日本政府は、屋良一派はいうまでもなく、新しい「独立派」を「南西諸島防衛論」の中に、その同盟者として取り込もうとするであろう!(沖縄T)