民主党圧勝の7・12都議会選挙
  自治の前進はわれわれにかかる


 七月十二日に投開票された東京都議会選挙は、当初の予想どおり、都政課題のみならず「政権交代」を前面に掲げた民主党が圧勝し(相対得票率40・8%)、自民党(25・9%)公明党(13・2%)の得票を大幅に上回る結果となった。これにより議席では、自公は過半数割れし、民主党が単独過半数ではないが都議会第一党の座を初めて占めるに至った。
 わたし達が強く支持した杉並選挙区の福士敬子さんは、定数六名に対し十名もの有力候補が立候補する激戦区で、当選も厳しい選挙戦であったが、三期の実績とともに都民の健康・福祉・環境・生活・平和・人権を訴え、区民のみならず、首都圏の多くの仲間の支援に支えられて2万1078票を獲得し、六位当選を果たすことができた。
 民主党の一人勝ちという結果であるが、本紙前号にもあるように、都議会民主党は石原都政に対し、都政与党の自公と大差のない、あいまいな与党と言うべき立場に立ち続けてきており、今回、解散総選挙を前に野党色を押し出したにすぎない。ただ国政での政権交代を望む都民の投票行動が、投票率を大きく上げ、民主党を勝たせたのは当然の結果といえる。
 しかし、その結果として、福士敬子さんの苦戦や、日本共産党(12・6%)が十三議席から八議席に減らしたこと、社民党の議席獲得ができなかったことなどにより、総じて議会の都政チェック機能の低下が危惧される。
 日本では、自治体首長と自治体議員の両方を住民選挙で選出する「二元代表制」を行なっている。自公にせよ民主にせよ、地方自治体の議会機能を、首長・行政に対する与党あるいは野党という機能だけに切り縮めれば、「二元代表制」としての議会の役割、住民代表としての議員の役割が軽視されることになる。石原都政には厳しく批判すべき点が多いが、石原にイエスかノーかというだけでは、議員の質が、福士敬子さんのような議員を除き、政策能力も疑われるただの陣笠議員のレベルになる危険性をはらむことになりはしないだろうか。
わたし達は福士敬子さんとともに、東京の自治実現に向けて闘いの歩を進めたい。(東京K通信員)

大阪・鶴橋
  「在特会」排外主義策動に緊急抗議
  背景に政府の朝鮮敵対策

 七月十八日、大阪市・鶴橋の北鶴ふれあい公園に仲間たちが集まり、「在日特権を許さない会」「主権回復を目指す会」等の排外主義集団のこの日の策動に抗議する緊急行動が行なわれた。
 このファシスト排外主義集団は六月十三日の京都での公然たるデモから、わずか一ヵ月での大阪登場であるが、今回は、在日朝鮮・韓国人が多く住む生野区鶴橋をその攻撃対象としてきた。あからさまな排外主義者たちが、また一歩踏み出してきたということだ。
 我われの対応は京都に次いで、出遅れが否めなかったが、電話やメールで必死に仲間たちに連絡し、約七十名が抗議行動に結集した。釜ヶ崎からも前日の緊急連絡であったにもかかわらず、十二名が釜ヶ崎日雇労組の旗を立てて結集した。
 集会では、アジア共同行動、釜ヶ崎パトロールの会、労働者共闘などの力強い発言を受け、直ちに抗議のデモに出発した。
 目立った特徴は、集会参加者をゆうに超える私服や機動隊の動員の凄まじさである。デモへの対応というよりも、我われの排外主義糾弾!ファシスト倒せ!の声を封殺し、街頭から消し去るという意思すら感じられた。
 他方、「在特会」の行動では、「在日外国人参政権反対」の他、「許していいのか北朝鮮の横暴」、「在日北朝鮮のメッカ、大阪鶴橋で大デモ決行」などを掲げているが、今回はさらに、「北朝鮮は横田めぐみさんたちをすぐ返せ」と掲げ、あたかも拉致被害者の会と連携があるかのように装い、拉致問題を利用して排外主義を煽るという断じて許せないファシスト的手口を取り入れている。
 かれら「在特会」は埼玉、名古屋、京都、今回の大阪と排外主義デモを続け、翌々日の二十日には福岡にも登場しているが、各地で広範な抗議に直面していることは言うまでもない。
 排外主義者の登場の背景にあるものは、このかん北朝鮮対決姿勢を強める麻生政権の動きである。六月十六日閣議決定の対北全面禁輸措置など独自制裁に続き、同月十七日には「骨太09」を経済財政諮問会議が了承しているが、この経済財政改革方針の中で、北朝鮮を敵国扱いで明記し、「防衛生産・技術基盤の確立」として軍事産業の強化を掲げている。また防衛費は、このかんの新自由主義、財政再建の路線の下、七年連続で減額されていたが、財政拡大路線とともに一転し増額を決定している。
 対北朝鮮を口実とした軍拡と連動し、来年の改憲国民投票法施行に対応して、9条改憲の動きも再開されている。
 排外主義運動の基盤は、こうした一連の流れの中にある。その社会経済的背景としては、世界恐慌・日本大不況がある。失業と野宿が常態化し、生活保護世帯が116万に及ぶに至って、労働者人民の現状への怒りが、排外主義に集約されて資本家の手先となるのか、それとも労働者階級の団結に組織されて社会変革の側に立つのか、これが鋭く問われている。どちらにせよ、今は不鮮明なこの分岐は、非和解的な対立として大衆化していく可能性がある。
 現状では、露骨な排外主義運動は極少数派であるが、警戒心を高め、かれらの策動には即座に抗議し、広範な反戦・反失業・反差別の闘いを作り出していかなければならない。(大阪M通信員)

 本紙が禁輸貨物に
              異常さきわまる対北制裁措置

 本紙『プロレタリア』の航空便が、六月の麻生政権の対北制裁措置によって輸出禁止となった「北朝鮮を仕向地とする貨物」とみなされ、朝鮮民主主義人民共和国の読者宛のものが東京税関外郵出張所で止められて、さらには一方的に返送されてしまう事態となっている。本紙にかぎらず、六月十八日以降、北朝鮮向けの郵便物や貨物がすべて同様の事態となっている様子である。
 当社は経済産業省貿易管理課に対し、この輸出禁止措置の詳細についての質問状を七月二四日付けで提出し、文書回答を求めている。質問状では、とくに刊行物・郵便物の扱いについて問いただすと共に、次の見解を提出した。
 六月十六日閣議決定の対北朝鮮輸出全面禁止等の制裁措置は問題が多く、直ちに是正されるべきである。同月十二日の国連安保理による北朝鮮制裁決議は、核兵器等の開発阻止のために貨物検査・金融制裁を行なうとするものであり、それは国連加盟国に郵便物を含めた全面禁輸措置を求めるようなものでは決してない。この国連制裁決議を根拠として取られている麻生政権の独自制裁は、国連決議の拡大解釈であり、核開発などとは全く無関係な民間関係を著しく阻害する不当なものである。とくに刊行物の輸出禁止措置は、憲法第二十一条(出版・表現の自由)に違反する疑いがある。
 当社はひき続き、当局・政府を追及していく。異常な制裁措置を麻生政権は撤回せよ、と言うよりも、総選挙後の新政権はどうするつもりなのか注目したい。(新世界通信・若杉)

三里塚闘争
 7・19加瀬 勉さんを囲む会
一坪共有化運動の再出発へ

七月十九日午後、東京都しごとセンターで「三里塚闘争と一坪共有地運動について7・19 加瀬 勉さんを囲む会」と題した集会が行なわれ、約五十五名が参加した。主催は、三里塚芝山連合反対同盟大地共有委員会(U)と三里塚・暫定滑走路に反対する連絡会。
 三里塚では、国交省と成田国際空港会社が、成田空港暫定滑走路北伸工事を十月までに完成させ、十月二十二日、半年前倒しに供用を強行しようとしている。さらに、現在の暫定滑走路をその延長工事で2500mにした後も、南側に延長して3500m級の滑走路にすることもねらっている。また、現在年間20万回の発着回数を30万回に増やす計画も明らかにしている。東峰地区住民の頭上にジャンボ機を飛ばし、今以上の騒音と排気ガスを撒き散らし、住民追い出し攻撃の強化を図っている。
 この暫定滑走路前倒し供用強行に先行して空港会社は、昨年十二月、空港内に存在する一坪共有地を買収しようと、全国の共有者約千人に売却を迫る手紙を送付し、本年二月にも手紙を再送した。反対同盟大地共有委員会は、代表の加瀬勉さんが先頭になって空港会社の一坪共有地売却強要に反撃し、大地共有委員会の声明を発し、ニュースレターを発行し、共有者の運動側からの再整理を行ない、全国に発送した。今回の東京での会は、一月成田での反対同盟旗開きの後、木の根ペンションで開かれた「加瀬さんの話を聞く会」に続くものとして設けられたものである。
 会は湯村一美さん(全水道東京水道労働組合青年女性部)の司会で行なわれ、会の開催経過について経過報告が行われた。
 田んぼくらぶの横山晋さんにより、「三里塚の風景─田んぼくらぶの取り組み」のスライドショウが上映された。
 加瀬さんは、「空港建設反対一坪土地共有化運動について」と題して問題提起を行なった
(要旨別掲)。さらに空港会社の地権者切り崩し工作・攻撃の実態を自らの体験を通して暴露し、一坪共有地を、全人民の闘う拠点として守り抜いてほしいと訴えた。
 また、共有地管理、「相続と譲渡問題」などを提示しながら、「階級闘争のモラルにもとづいて守り抜く主体によって受け皿を早急に作ってほしい」と訴えた。
 共有委員会の山崎宏さん(横堀地区)は、三里塚芝山連合反対同盟大地共有委員会はパートUとして新たにスタートし、ニュースレター第2号を発刊したことを報告。今後の共有化運動の強化、カンパの協力を訴えた。
 引き続き、京都、大阪、静岡など全国からの参加者を交えて、一坪共有者の仲間から次々と提案、問題提起などが行われた。
 高橋千代司さんは、ネットワーク型の共有者の会を作り、組織的に取り組むことを提起、静岡の塚本春雄さん(静岡・三里塚闘争に連帯する会)は、これまでの三里塚闘争を振り返りながら、更に「静岡空港反対闘争を取り組んできた。私よりも若くて新たな世代が闘いに入っている」と報告、目黒の宮本なおみさんは、「三里塚に学びながら住民運動を推し進めてきた。その地平を維持しつつ、新たな三里塚闘争を作っていきたい」と熱意をこめて話された。
 関西・三里塚闘争に連帯する会として渡邉は、関西での一坪共有地運動の取り組みと論議を紹介し、相続・譲渡など具体的課題について方針と、受け皿の組織の検討が必要だと述べた。また秋の反空港全国連の集会についても取り組み準備状況を報告した。
 辻和夫さんは、横堀団結小屋維持会、田んぼくらぶの取り組みを報告。さらに横堀農業研修センターの現状と維持管理・財政支援を訴えた。
 最後に、山崎さんから現地状況が報告され、10・22平行滑走路供用抗議の10・18東峰現地抗議行動への参加の呼びかけがなされた。
会はその後、一坪共有者・支援団体関係者会議として、絞られて開催され、共有委員会から大地共有委員会(U)の経過、名簿の集約状況、今後の運動の方向が提案された。三多摩、京都、千葉、練馬の仲間たちから共有者の現状の報告と、共有への熱意からの要望が出され、委員会は諸提起の整理と意見集約をし、今後、具体的方向性を提案することを確認して会を終えた。
全国の一坪共有者が集まり、現実を見つめなおし、新たな方向を模索する重要な集会と会議であった。東峰団結小屋維持会も関西と首都圏から参加した。(関西東峰団結小屋維持会、渡邉充春) 


  空港建設反対一坪土地
  共有化運動について

                               加瀬 勉

 一九六六年五月十八日に富里・八街空港反対闘争一坪共有運動の登記をした。土地の提供者は川島秀介、長谷川清二、山下藤一郎であった。
 一坪共有地運動の発端は、千葉県館山から投函された匿名の一枚のハガキが社会党参議院議員加瀬完さんのところに来たことで、その内容は、建設予定地にクロスする形で大勢の人が土地を共同で所有すれば建設は阻止できるというものであった。そしてマンモス土地共有化運動が始まったのである。 
 反対同盟は富里、八街、酒々井、山武、芝山の各町村の連合の反対同盟であった。大鐘争議とか、西村争議などを戦い抜き、千葉県に初めての農民組合を組織した人々が、社会党の党員として残っていた。また、反対同盟無用論の農民も沢山いた。自分の土地は自分で守る。意志の弱いものが他人を頼って反対同盟を作るのだ。闘争すれば、金と手間がかかり畑が草だらけになり、とどのつまりは土地を売ることになる。命をかけて先祖の土地を守れといっておきながら、その土地を見ず知らずの人に売り渡す。矛盾しているではないか、と。
 しかし借地運動、地上権の設定運動、立木の売買運動などが展開されていった。しかも偉い社会党の国会議員、県会議員に限ると設定して運動が始まった。県庁乱入闘争、 耕耘機でデモなど運動の発展の中で、一坪共有地運動に土地を提供する人が出てきた。 青年行動隊であった。政治的自覚のある青年によって土地は提供されたのである。3000人の申込みがあった。

  1966年7月4日三里塚闘争開始

 社会党は反対同盟を結成。現地闘争委員会を組織して三里塚に土地を持つ会を結成し、一坪共有地運動の取り組みを開始した。芝山反対同盟と三里塚反対同盟を一つにすると同時に、一坪共有化運動を実施する。目的は、騒音地帯の農民と敷地内部の農民の団結を図る。これが第一次一坪土地共有化運動の目的であった。
駒井野の第一次強制代執行で共有地を死守、敷地内部の農民、騒音地帯の農民、支援団体が運命共同体、一つとなって戦うことができた。しかし、成田治安立法に賛成して社会党は一坪共有地を放棄、共産党はパゴダを権力に売り飛ばして三里塚から姿を消していった。

  木の根土地共有化運動

 反対同盟小川明治副委員長の死亡、財産相続問題が発生した。小川直克君が移転するような状況に追い込まれた。小川源副委員長、小川直克君が私に、「明治さん」の意志を引き継いでくれと土地の所有を要請された。全国の政治団体、同志たちの出資金で木の根の土地の譲渡を受けた。
したがって木の根の土地は、日本人民の所有地であり、たまたま私が代表名義人となったのである。木の根の土地は、風車を立て、畑地灌漑をやり、交流の場ペンションを建設した。芝山鉄道の建設に反対し、一坪共有地全国運動を展開し、現に横風滑走路の建設を阻止している。
強固な空港建設反対の意志と、空港建設地に土地を所有すること、この二つの物質的条件が一つになって大衆的力を持ったときに、闘争の前途はさらに開けてくる。一坪共有地運動の目的は、三里塚の農民と運命を共にして、その闘争に生涯をかけることである。(以上要旨)
 

  7・11
  「大阪希望館」設立記念集会
  野宿に至る前に支援を

 七月十一日、大阪市の浪速人権文化センターにて「大阪希望館設立記念集会」が、約250名の参加で行なわれた。同日、その運営母体である大阪希望館運営協議会の結成総会がもたれた後で、広く大阪希望館への支援を呼びかける集会であった。
 同館は、NPO釜ヶ崎支援機構、大阪労働者福祉協議会、連合大阪の他、カトリックや金光教などの宗教団体も呼びかけ人となって「大阪希望館・相談センター」を五月三日に立ち上げ、六月八日よりすでに入居を受け入れていたものである。その名称は、直木賞候補となった難波利三さんの小説『大阪希望館』より、作者の快諾を得て命名されたもの。
 集会では、小説のモデルとなった戦災孤児らの保護施設「梅田厚生館」の時代を演じた、あんがいおまる一座の「大阪希望館」上演が披露され、作家の難波さんが、名誉館長を引き受けたこと、また「皆が貧しかった戦後より、格差が広がる中で住居を失う形で脱落するのはよりつらいものがあり、支援が必要」との挨拶を述べた。
 大阪希望館の内容は、野宿者になる前に受け止め、公的セーフティネットにつなげるまで緊急的宿泊と食事を提供すること、再出発の方向を共に模索する相談活動やチャレンジ就労活動の実施など多数に渡り、当面四室より出発し今年度中には二十室をめざしている。
 集会当日、入居の当事者も発言した。Aさんは、大手派遣会社の子会社で個人請負の形で建築業の仕事をしていたが、昨年十二月より仕事がなくなり、知人と同居していたが住居も失い、ネットカフェで宿泊していた。その後チャレンジネットで同館を知り、入居したという。「精神的・肉体的にも希望が持てなかった。今は明日のことを考えることができる」と体験を語った。
 希望館は、「野宿に至らざるを得ない人だけでなく、至る恐れのある人にも手をさしのべる」拠点となっていくことが期待されている。運営に多くの費用がかかり、募金が呼びかけられている。問い合わせは同館・電話06−6374−0225。

  8・12〜15
  釜ヶ崎夏祭りへ


 さて、釜ヶ崎の夏がきた。来る八月十二〜十五日、第38回釜ヶ崎夏祭りが行なわれる。恒例のスイカ割り・綱引き・すもう大会に、夕方からはバンド演奏や歌謡ショーで、今年は「大阪を元気にするために」と俳優・赤井英和さんが、シンゴ☆西成とラップを披露する予定。夜八時からは盆踊りが連日行なわれる。
 恒例の、釜ヶ崎講座による「夏祭りツアー」は十五日午後二時より、三角公園のヤグラ下より出発する。(関西S通信員)