(書評)

  ジョン・ホロウェイ著(09年3月 同時代社)
  
『権力を取らずに世界を変える』

    反「疎外」の一人歩き


 この本は、ホロウェイが、メキシコ・先住民のサパティスタ運動から多くの影響を受け、世界社会フォーラムにも参加する中で執筆したものである。それゆえ内容は、抽象的表現を使いながらも実践的であり、とりわけ運動に関わる若い人々などに一定受け入れられるものとなっている。
 タイトルが「権力を取らずに世界を変える」となっているように、内容は刺激的である。それは、国家権力を奪取することによって社会革命の道が開かれるとして、まずは国家権力の奪取に全てを集中してきた前世紀の左翼のスタンスに対する批判として展開されている。だが残念ながら、論理展開の道は誤っており、たどり着いた結論も誤りである。
その理論体系としての特徴は、マルクス主義を継承しつつも、その「物神崇拝」批判に力点を置く。すなわち、行為(「する力」)が生みだしたものが行為から分離され、分離されたものが行為を否定する権力(「させる力」)に転化するという自己疎外の仕組みを批判する。そして、この仕組みの中で人間性を否定された主体の発する「叫び」こそが世界を変える力なのだと主張する。アイデンティティの問題においても、生みだされたものとしてのアイデンティティ(細片化された社会関係としての労働者階級、黒人、女性、民族、等々)に止まるのではなく、アイデンティティを越えて人間性の回復ために闘うことが重要だと主張する。
そして、権力というのは「社会関係の細片化に」根拠を置いているのだから、「総体性への渇望」を導きとして社会関係の細片化を乗り越え、「自己決定」に向かう永続的な運動によってしかなくすことはできない。そもそも国家というものは、それ自身が民衆にかわって政治を「代行」するもので、自己決定に反する存在であるから、国家権力の奪取によって革命をやることはできないと主張するのである。
以下、ホロウェイの見解に対する私の批判を述べ、読者の参考に資したいと思う。

@ 資本主義・物神崇拝の歴史的役割の捨象

 ホロウェイの理論は、単なる『反』物神崇拝論になってしまっている。
米を作るある人の労働と田植え機をつくる他の人の労働との関係など、社会的有用労働の分業は、人が分業の各分節に隷属している場合には、商品交換を媒介として社会的協働労働としてのその性格を実現する。商品交換の世界においては、その背後にある社会的協働労働関係が消し去られ、その力は商品(モノ)自体に宿っているかの如く現象し、「物神崇拝」を生み出すのである。物神崇拝の端的な現れが拝金主義である。
問題は、この間の中国でも見られたように、拝金主義が生産力の発展と物的豊かさの実現を牽引してきたという現実を見落としてはならないということである。これは、物神崇拝なり拝金主義を構成要素とする資本主義のシステム全体について言えることである。
資本主義(剰余価値を目的とする賃金奴隷制)は、嵐のような生産拡大とその一時的破綻を周期的に引き起こしながら機械制大工業の発展を牽引し、消費手段生産部門、生産手段生産部門、労働力再生産部門の機械化を順次実現してきた。今日、「地球環境崩壊の危機」を伴う形で、ネットワーク社会の技術的基盤を発達させつつ「産業の成熟」を実現しているのである。
物神崇拝(「させる力」)によって不断に否定されているところの行為(「する力」)に焦点を当て、分業への隷属からの解放、アイデンティティを超える変革をめざすには、その為の物質的条件の成熟(「産業の成熟」)に目を向ける必要があるのだが、ホロウェイはそれをしていない。ホロウェイは、物質的条件の成熟と関係ないところで、自己疎外に対する批判を一人歩きさせてしまっているのである。

A 人々の欲求の歴史性を無視

 ホロウェイの理論では、資本主義の下では常に、分業への隷属(「細片化」)からの解放、一人ひとりの自由な発展への欲求(「総体性への渇望」)が人々の主要な欲求であるかのように前提とされ、論じられている。これは間違いである。
 人間の欲求は、三層構造を成している。基層は類的自己保存欲求、中層は類的自己保存欲求を超える物的生活の豊かさへの欲求、最上層は自由な自己発展への欲求である。人類史上、産業が成熟するまでの産業革命期ほど、底辺において類的自己保存欲求を残しつつ、人々が物的生活の豊かさを激しく追求した時代はなかったのではないか。そして資本主義は、また物神崇拝(拝金主義)は、産業革命と物的豊かさの実現を牽引するのに最も適したシステムだったのではないのか。
社会(人々)の主要な欲求が物的豊かさの実現にあったからこそ、これまでの幾多の共産主義革命の試みは、たとえ政治革命を達成しても、国家資本主義にせよ自由競争資本主義にせよ結局は資本主義をやり、その下で機械制大工業化を推進せざるを得なくなったのである。それは、「一つの社会構成は、それが十分包容しうる生産諸力がすべて発展し切るまでは、決して没落するものではなく…」というマルクスの見解を実証した歴史であった。
 しかし今日、産業が成熟段階に到達したことによって、また地球環境崩壊の危機に直面することによって、人々の欲求に歴史的変化が起こっているのである。より一層の物的豊かさへの欲求から人間(=環境)の豊かな発展へ。欲求のこの変化は、青年層から広がってきている。
 ホロウェイは、欲求のこのような歴史性を踏まえていない。それは、たとえ「叫び」から出発しようと、現実の欲求に立脚して革命を語る態度ではない。システム批判から無媒介に社会の中心的欲求を決めつけてしまう態度である。

B 社会の崩壊と社会革命が見えていない

ホロウェイは、革命への確信を、「やつら」は「われら」に依存している、という点においている。「やつら」を絶えず創り出しているのは「われら」なのだから、無力なわれらは実は全能なのだ、と。これは、事の半面を過度に強調するという誤りである。確かに資本は賃労働を前提とするが、賃労働も資本を前提としているのである。つまり彼は、資本主義というシステムによって社会が回っている状態を前提に、革命の問題を考察しているのである。
だが現実は、すでにそうなっていない。資本がその発展を促進してきた機械制大工業は成熟段階に突入し、投資領域として縮小過程に入っている。貨幣資本が工業の領域から遊離し、不可逆的に過剰化し始めた。産業の成熟、地球環境限界への逢着、高次の欲求を契機としてこれから発展が求められてる人間(=環境)の豊かさを実現する活動領域は、一つの奴隷制である資本主義では本質的に開花させ得ない。このため過剰化する貨幣資本が行き場を失って、投機マネーに転化している訳である。これは世界史的な事態であり、「新興国」がまだその途上にあるとしても、事態の本質は変わらない。
一方における投機マネーの肥大化は、他方における過剰人口の絶対的増大である。それは、現実に進行している社会の崩壊の一つの側面である。資本主義によっては、社会は成り立たず、人間は生存できなくなってきているのだ。
社会の崩壊が広がる中で、人々は、自己の生存の確保と社会再建の必要に迫られて闘いを発展させ、資本主義とは異なる仕方での事業を起こし、地域社会づくりに参画し、住民自治を発展させ始めている。古い社会構成の制約の下で、その綻びを突いて、社会革命を模索し始めているのである。
ホロウェイの理論的視野は、資本−賃労働関係の枠内にとどまっている。失業・半失業の労働者は視野の外である。それは、協同組合やNPOの活動の意義を否定するという形で、端的に現われている。

C 過渡期の否定

ホロウェイは、社会システムの細片化や分業への隷属構造を打破しようとする人々の苦闘の延長に、おのずと国家の消滅が展望できると主張する。それは誤りである。
国家は、階級対立の非和解性の産物であり、社会(特定の支配的経済システムの下にある)の統合性を確保するために、階級矛盾の激化をあるいは緩和し、あるいは抑制するという機能を引き受けている特殊な機構である。したがって、社会システムの細片化や分業への隷属構造を打破する闘いにしても、それらが激化し発展すれば、それを緩和し抑制して社会秩序の内に包摂しようとする国家がその前に立ちはだかることになる。既存の国家の打倒は、避けて通れない課題なのである。
既存の国家を打倒した後、階級対立をなくす過程に入っても、それが即日消失する訳ではない。社会の細片化や分業への隷属構造を根底から克服する過程に入るとしても、それがすぐさま克服される訳ではない。社会の統合性は確保されねばならず、権利の保障と反乱の鎮圧は必要である。国家であることを否定していく過程にある「国家」は、過渡期の間、必要なのである。
そして、人間一人ひとりの豊かな発展が、階級差別をはじめとする全ての社会的差別の壁を打ち砕き、国家の廃絶と相互扶助社会への道を切り開いてゆくのである。(深山)