地域から日本の未来を考える


再考・西郷隆盛の国家観
     
          
その「重郷主義」は、こんにちに活かせるか

                         九州・M


 明治維新の時期の西郷隆盛については、日本の左翼では下級士族の利害に立つ保守派とする評価が一般的であるが、同じ薩摩出身の大久保利通や長州出身の伊藤博文などがすすめた集権主義・覇権主義の国家路線に対し、西郷の未完の国家路線とはどのようなものだったのか。こんにちの日本の社会変革にとって、そこから学ぶべきものはあるのか。最近、九州の一地域では、そうしたテーマで住民の勉強会が行なわれた。(編集部)

  政治哲学塾の発足

連合メーデーが開催された日の午後、私が住む地域で、政治哲学塾と銘打った塾が発足した。初回テーマは「西郷隆盛の国家観」「日本はこれからどういう路線をめざすべきか」。主宰者は民主党の新人市議会議員である。塾の趣意書にはこう記されている。
「日本の近代化から始まり続いてきた私達の生活哲学、それをいま洗い直し、私達の生活の中に“心地よい時間”がながれる社会づくりのための哲学をあぶり出したいと思っています。そして、この活動の継続が「持続循環革命」と呼べるような新たな時代の創出をリードする政治哲学につながることをめざしたいと思っています」
政治哲学塾の発足にあたり、記念講演として今年八十歳になられる元大学教授が、「西郷隆盛の国家観」と題して「日本はこれからどういう路線をめざすべきか」について述べられた。
講師は旧建設省の技官としてのキャリア歴があるが、建築学者として「橋の博物館」「大阪万国博覧会お祭り広場」「旭川市平和通買物公園」などの作品を手がけ、著書も「日本人と住まい」「神なきニッポン」「鎮守の森」など多数。現在は地文学研究会を主宰している。「地文学」とは聞き慣れない言葉であるが、講師が編集者の一員となった著作「日本人はどのように国土をつくったか―地文学事始」の紹介文では「地文学とは、土地の文(あや)つまり土地の特徴的な構造を読み、土地を解釈する学問である。国土の造形は自然現象だけでなく、永年の人間の営みによっても培われた。庶民が信仰を支えに自然と調和したしなやかな国づくりに取り組んだ、古代から近世までの国土開発の特徴を読み解き、現代の国づくりの方途を問う意欲作」とある。
 講演の内容を小テーマに沿って紹介しよう。

一 明治維新とは何だったか?
 講師は「西郷隆盛・ラストサムライ」の執筆が終わったばかりで、西郷隆盛の国家観を通して日本の今後の有り様を提起することを試みる。明治維新の新政府は欧米列強国を目指して「文明開化」「富国強兵」を進めるが、一方では西郷隆盛がいたわけで、明治維新の評価は定まっていないとする。
西郷は東京(明治政府)では太陽暦に改めたが、鹿児島では太陽暦を太陰暦に戻してしまった。太陰暦の方が農業には都合が良いからである。つまり欧米列強を相手にしなければならない中央政府(東京)では太陽暦を採用するが、地方では生活基盤となる農業に適した太陰暦を使うという、文化の二重構造を西郷は良しとした。「富国強兵」の強力な中央集権国家をめざす新政府に抗して西郷は「第二維新」をやる気であった。この「西郷王国」を大久保利通は黙認したが、木戸孝允(桂小五郎)は許さなかった。そのため西南戦争が勃発し、「第二維新」の夢は消えてしまったわけだが、西郷の人望は厚く、彼が全国に大号令をかければ「第二維新」も可能だっただろう。だが、全国から援軍の申し出があるもこれをすべて断った。新政府内の対立で、もし大久保利通が先に暗殺でもされていたら、西郷は全国の援軍を募ってでも「第二維新」を敢行しただろう。

二 西郷はどういう鹿児島を考えたか?
 西郷の考えは「重郷主義」とでもいうべきか。郷とは「孤立・過疎・零細生産の島国」日本の割拠性の産物であり、今に残る郷や郡のイメージである。郷百姓は農業を基礎にした中小企業主(農林漁業・鉱工業・商業・運輸など何でもやる)であり、中世には自己武装した。江戸時代、薩摩藩は郷百姓を郷士として温存し、西郷は明治維新後の国づくりに郷士を据えた。郷士は百姓でもあり、軍人でもあり、行政官でもあった。現に鹿児島藩では、城下に歩兵四大隊、砲兵二大隊しか置かないのに対し、郷に三十七大隊、九大砲隊を組織した。学校についても、鹿児島県では城下に本校と十二分校を置いたが、郷には百二十四の分校(私学校)を設けた。ほかに屯田兵の養成所として開墾社などを創設した。

三 西郷はどういう日本を考えたか?
 「郷士分散国家」では工芸品のほかに輸出するものがないから、食料・エネルギー・工業資源を輸入することができない。よって「富国強兵」「工業立国」「人口拡大」「国土の総鉄道化」をめざす国家をつくることは不可能。明治政府の国家目標はプロイセンであったが、「郷士分散国家」がめざす国家目標はスイスということになるのでないか。中央集権大国でなく、連邦小国ではないか。軍隊はなく、男子が毎年短期訓練をうける民兵で自衛する国になるのではないか。工芸品や小型機械などを輸出する「工芸国家」をめざすべきではないか。帝国主義に反対し、徳治国家をめざす東洋の小国になるべきではないか。

四 外国から侵略されなかったか?
 「工芸小国」では、外国から侵略されるのではないか?では、スイスはなぜ侵略されなかったのか? スイスは人口七百万人くらいで、面積は北海道の半分くらい。軍隊は民兵からなる。幕末の時代、アメリカ公使ブリューインは「日本人の戦闘精神」についてどのように本国に報告したのか? 日本人は防衛意識が強く、外国の侵略に対して強い反応を示す。道路はまったく整備されておらず、大砲を移動させるのが困難。よって短期間は可能だとしても長期占領は困難と報告したといわれる。イギリス公使オールコックはなぜ彦島を放棄したのか? 長州藩はイギリスをはじめとする連合艦隊に砲撃を受け、休戦交渉に高杉晋作が赴く。イギリスは休戦の条件として彦島の租借を要求。彦島をシンガポールのように寄港の基地にしたかったのである。だが、高杉晋作は、古来から日本は外敵に対して徹底的に戦ってきたこと、たとえ正規軍が負けたとしても一民衆までが最後まで徹底抗戦することを長々と論じ、結局、賠償金だけで話しをつけてしまった。当時、金や銀は江戸時代に掘り尽くしており、欧米列強にとって必要な資源は日本にはなかった。日本は「小国」でもやっていけたのではないか。

五 アジアはどうなっていたのか?
 アジア諸国は欧米列強国に植民地化されたが、日本はそのときアジアの独立運動を助けるべきだったか? スイスはドイツの侵略に対してベルギーやポーランドを助けたか? スイスは、フランス、ドイツ、イタリアなどの多民族をかかえており、一方に組することは国の分裂をもたらすだけで、中立を維持した。

六 日本はこれからどういう路線をめざすべきか?
 今いちど明治維新の原点に立ち帰って考えよう。内部に多民族を抱えるスイスと、「外交音痴」の島国日本は「非戦中立」で共通しないだろうか? 永世中立・国民皆兵・連邦国家・技術立国のスイスの生き方は、日本には不可能だろうか? エネルギー問題と食糧問題を解決すれば可能ではないだろうか? 日本の山は杉やヒノキばかり植えているが、これは建築資材にするためだが、山はシイ、カシ、ブナなどの落葉樹にすべきである。落葉樹は実がなり、動物が増える。実や動物の糞は川を通って海に流される。それが魚の餌となって沿岸漁業が発達する。エネルギー問題は、日本は地形的に傾斜がある河川が多く、ダムは問題が多いので、水車発電が適している。こうして小国主義で行けば人口は増えなかったはずだし、エネルギー問題も食糧問題も起きなかったはずだ。

七 「西郷路線」を受け継いだ人達はどうなったのか? 
  「夜明け前」の青山半蔵はなぜ発狂したのか?/西郷路線を受け継いだ人達はいたか?/参加者三十万人の「筑前竹槍一揆(明治五年)とはいったい何か?その要求事項(@年貢の3年免除A旧藩の復活B学校・徴兵・地券の廃止C藩札の復活D「解放令」の廃止E旧暦の復活)とは何だったか?/西南戦争に呼応した武部小四郎・越智彦四郎らの「福岡の変」とは何だったか?/頭山満らの開墾社、箱田六輔の向陽社とは?/島津覚念の復権同盟とは?/多くの民権運動団体(共愛社・立憲帝政党・筑水会・久留米改進党・公同社・協集社等々)とは?/日本の民権運動とはいったい何だったのか?/西郷隆盛の国家観が明らかにされていなかったのでは?/

  高めよう住民自治意識

 講師のレジュメにはこのように記されており、興味つきないテーマだったのだが、時間オーバーで七の小テーマまで行きつかなかった。講師は「日本の民権運動とはどういう国家像・国家目標だったのだろうか」と最後に問題提起されたが、小テーマの最後が「西郷隆盛の国家観が明らかにされていなかったのでは?」と締めくくられていることから察すると、民権運動や農業振興も「大国日本」をめざす中ではアジア侵略の大東亜共栄圏の発想に取り込まれていったのではないだろうか。
 労働者共産党は第二回党大会で、憲法決議として「憲法闘争における党の政策」を採択しているが、この政策では「常備軍廃止(自衛隊解体)・全人民武装の見地に立ち、内政においては、軍事官僚制をはじめとするブルジョア官僚制を廃止し、人民武装を伴う労働者人民の自治に取り替えていく。外交においては、国軍を保持することなく、人民武装、全世界人民との連帯、革命政権の外交などによって社会主義日本の安全保障を保っていく」としている。
今回の政治哲学塾の発足会には学生から高齢者まで百名近くの住民が集まったが、講演の内容は建設すべき未来の社会主義日本の有り方を示唆しており、この塾が継続発展し、住民が自ら自治意識を高めていくことが期待される。