【沖縄からの通信】

本部P3C基地阻止の勝利から、辺野古新基地阻止の勝利へ

 勝利の経験は活かせるか


 去る九月十三日、沖縄北部・本部町で「P3C基地建設阻止勝利集会」が成功裏に催された。
このP3C阻止の闘いは、一九八七年に防衛庁が那覇基地へのP3C対潜哨戒機配備に伴い対潜戦闘作戦センターを作るとして、本部町の米軍飛行場跡地にその送信所を建設すると発表したことから始まった。闘いは長びき、八七年から今日まで二十年を経ている。
勝利した本部町P3C闘争の経験は、現在の辺野古新基地建設阻止の闘いに役立つだろうか。P3C闘争勝利の経験を活かして、辺野古新基地を阻止したいと考える。

  「超党派」で勝った本部

本部町豊原区民、P3C基地建設阻止対策委員会の団結は固かった。他方、本部町の町長と議会は二転三転し、町道を廃止したり復活したりで、防衛施設庁に操られた。県民大会がP3C独自問題で二回開かれ、九ヶ字大会、全町民大会、労組等各団体の共催大会が、攻防の各要所においてタイムリーに闘われてきた。北部地区労、一坪反戦地主会、平和市民連絡会は毎年、キビ収穫期、キク栽培その他農作業に対する援農活動を行なった。
 九十年代に入って、豊原区は実力阻止を確認。敷地測量、里道境界測量等をことごとく阻止。毎日、監視団を二箇所に配置し、闘争小屋には当番二人制がしかれ、喜納政豊委員長と三役は三交替(三日に一度)制をしいた。北部土木事務所と防衛施設庁の測量隊が入るとサイレンが鳴り、農作業中の人々が10分で現地に急行した。現地に入るすべての自動車をチェックした。車があきらめて帰るときでも、名護近くまでは追跡し確認した。
 九四年、長浜徳松氏がP3Cを争点にして、現職町長を町長選挙で破ったことは、闘争にとって大きい。
 本部町は自民党支配の「保守王国」であるが、基地反対陣営は現地(浦崎)出身の長浜氏に一本化するために、喜納委員長は長浜氏にゆずって立候補を辞退し、彼と同盟を結んだ。長浜氏も自民党であるが、故郷が軍事基地になることを嫌った。この長浜町長は一期で終わる。それは、P3Cを阻止するための特別町政であった。
 その後、国・防衛施設庁による町長・議会に対する干渉は続くが、町民の意識はかれらとは逆の方向に進む。
 二〇〇六年には、P3Cを争点にするわけでもない通常の町長選挙で、本部町を牛耳ってきた保守本流の候補が、「町政をガラス張りにする」という公約をかかげる新参の高良文雄氏に敗れる。防衛省の基地建設のための政治的条件は一層失われた。
 この間、闘争小屋に詰めた当番の人々も、今は半数近くが逝っている。いくつかの情景は忘れることができない。一つは、防衛施設庁の車を包囲したとき――喜納委員長が一喝した。「きさまら、これでも帝国軍人か! 小生は最後の海戦で、16m砲の砲身が真っ赤に焼けるまで、米艦に向かって撃ち続けた。するなら、すると前もって住民に告げて、正々堂々とやれ! こんな農繁期にかこつけて、こそこそドロボーみたいに汚いやり方で、国民の面前で振舞うとはなんたるぶざまだ!」と。そして遂に防衛施設庁の職員たちは、「二度とこのようなことはいたしません。来る時は事前に連絡いたします」と口頭約束をして、帰された。この件は、翌日の沖縄タイムス紙にも記事になっている。
 二つめは、防衛施設庁が、「皆さまの生活をあくまで考えて、基地が生活圏を犯さないよう、キレイなフェンスを設置します」と言ったとき――照屋のバーチャンが言った。「そのキレイなフェンスが一番キタナイのだ。そんなものを毎日、目の前にしては不愉快で、落ち着いて暮らしていけない」と。
 国・防衛施設庁は、この地の人々の思い、それを形成した歴史を1ミリも知らない。薩摩の侵略時、明や清から尚王朝に請われて琉球に移住していた知識人や技術者たちが城下の久米を追われ、この地に流された。この地はサンゴ礁岩が林立し、土が少なく、水のない、人が住めない地であった。かれらは指の爪がなくなるほど岩石と格闘し、ついに豊穣の地に変えていった。畑、屋敷は、打ち砕かれた岩石の礫で積み囲われ、そのいくつかは今でも残っているが、先祖の辛苦の歴史を物語っている。
 しかるに、無惨にも一九四五年の沖縄戦の結果、全住民が久志収容所に強制留置され、そして豊穣の地は分厚いコーラルでおおわれ、2本の滑走路をもつ(桃原)飛行場を米軍が作ってしまったのである。その後住民は飛行場の周りに、へばりつくように住むことになるが、水を汲むにも薪を取るにも、飛行場を迂回せねばならなかった。
 伊江島の故・阿波根昌鴻氏もこの地の出身であるが、この地の人々は日本軍の伊江島飛行場建設時に、恩賜のタバコ一本で牛馬のようにこき使われた。沖縄戦では米軍の弾雨に倒れ、生き残りは海峡を渡って本部半島のわが家へたどりつこうとしたが、海流に呑まれて多くの人がたどりつけなかった。
現在でも分厚いコラールはそのままであるが、今では米軍から一応は返還されているので、滑走路跡のどこでも突っ切って周囲の道路にでることができる。そこにフェンスの話である。フェンスと聞いただけで、不快感をあらわにした照屋おばあの言葉の意味、その歴史を、あの職員はみじんも理解していない。
 二十年にわたる闘いを勝利できた構造はなんだろう。その土台として、豊原区民の主体性がしっかりしていた。援農その他で、区外のまわりとの連帯が形作られた。また政治的な方針として、出発時点から「超党派」を宣言し、党派などの宣伝利用を許さず、すべての人々が参画できるようにすることを最大の要件とした。選挙では、「保」「革」に拘泥せず、P3C阻止を至上命題として行動し、自民党の長浜氏ともP3C阻止で協定を結んで同盟的行動を取り、さまざまな政治意識をもつ町民の基地反対への移行を容易にした――ことなどであろう。
 もともと、生活の場そのもので地上戦を経験している沖縄人は、戦争、軍事基地に対しては決定的な拒否意識をもっている。日本の国家・政府はその意識に触れずに、住民を各政党的に分裂させ、また経済的にも分裂させ、いろいろな面で分裂させ、地元行政を掌握し、拒否意識を迂回してその企図を実現させる以外にない。
 本部・豊原の勝因は、ことごとく日本政府のこうした手段を封じたことだろう。
 
  運動前進阻む党派政治

 他方、首長選挙一つをとってみても、名護・辺野古の闘いでは失敗している。〇六年の名護市長選で、反基地勢力の多くが、自民党員の我喜屋氏と辺野古新基地NOで一致し、選挙に勝てる最善策をとった時、共産党の大城敬人氏(数十年間、共産党の名護市議で活動し、現在も瀬長亀次郎氏を尊敬し、路線上も同じ道を歩いている人が、ある日、私は共産党員ではないと宣言しても党外に説得力はない。)が、共産党員数人の支持を確保しながら「保革共闘反対」を主張し、辺野古NOを実現するための超党派的手法を破壊する挙に出た。これは、運動を「党」の領域に固守する考え方である。
 共産党は我喜屋選対の中で、大城批判を封じ、「批判しない」ことを決定させた。筆者は、「公報第3号を大城批判にしぼって出すべきだ。このままでは、大城は相当数得票し、我喜屋は基地容認候補に敗れる。放置すれば、反基地二本立てに市民は嫌気を起こし、やる気にならない。やる気のある者は大城の『保革共闘』批判に吸収される」と提起したが、選対情宣部長(共産党)は、「大城とのこぜりあいは得策ではない。大城は二千票の泡沫候補だ。島袋との一騎撃ちだ。大城批判をしないことは選対会議で決定している」と答えた。
 この選対の対応の背景には、東京で革新系が主張する政策やスローガンのとおりに、沖縄の地方の党もやっていればそれでよい、という思考がある。沖縄の闘いが、日本の国家・政府と直接に対立する独自性をもっていることを認識していない。この大城問題では、辺野古NOに限らず、沖縄の闘い全体に要求される沖縄人の独自の闘い方が問われていた。大城批判を徹底し、沖縄の闘いとその統一戦線の独自性、「超党派」を前進させねばならない性質の問題である。
 市長選敗北後も、共産党は「二本立て」になったことを市民に謝りもせず、大城選対にはせ参じた党員たちにどう対応したかも不明のままである。こうした党派政治の問題としては、名護のヘリ基地反対協でも高江のヘリパッド反対運動でも、政党の立ち回りが強く、市民たちの出現をむずかしくしている。
 P3C闘争では、現地豊原では、党名の入ったものはすべて認めなかった。各党の宣伝カーですら、紙を貼って党名を消した。スピーカーや小道具でも、党名などを宣伝する文字を出そうとしてくるが、これらも封じた。超党派を文字通り貫徹し、参加してくる人々が党派問題で不快感をもたぬよう、不必要な詮索を発生させないよう配慮し、超党派の団結、心情的な一致を育てた。
 他方、名護反対協の車には「日本共産党」が大書きされている。高江は、「統一連」の大看板が来訪者を「歓迎」する。その他小細工は言うに及ばず、なんでも有りである。こうした問題は、勇気ある、あるいは鈍感な人にはたいした事ではないが、一般市民は不快感をもつ。「党」を一歩引き下げれば、市民運動は二歩前進する。
 筆者は、「勝ちたくはないのか?」と改めて問いたい。一九九五年の『第三の波』以降、小異を残しても大同につくことを迫られている。沖縄人が、日本国家・政府による犠牲要求を拒否するためには、まず第一にそれが必要である。沖縄の闘いの独自性を認識し、この闘いに勝たねばならないという危機感をもてば、ここでくどくど述べてきたことはすべて解決する。
 名護はもちろんのこと、宜野座村、東村、金武町においても、人々の中には基地をはねかえす土台はある。金武、宜野座の当局主催の町民大会、村民大会をみてみよ! PTA、婦人会、青年会、高校生など町村民各層の代表たちが、無条件の辺野古新基地NOを表明しているのに、町村当局や一握りの連中だけが「上空を飛ばさないように要求する」などと言って、民意のねじ曲げに汗だくである。町村当局が日本政府に買収されているだけなのである。これら名護市の周辺町村当局による島袋名護市長支援がなければ、仲井真、島袋ら誘致派の存在は成り立たない。
 人々が一旦、政治的武器を手に入れれば、日本政府は基地建設を策謀する手段を失う。昨年九月の、教科書検定意見撤回・「集団自決」記述改ざんを許さない十一万人県民大会は、目的意識的に「超党派」をうたった。十一万人を糾合しえる要素、条件は何であるのか。「超党派」によって起動されるこのエネルギーを、いかなる政治構造に結晶させるのか、これを考え続けなれればならない。
 反基地運動の現状は、各町村では町村民が意思表明の手段を奪われ、その総意を出すところを奪われている。しかし、今年六月の県議選を見てみよ! これら町村当局の「受け入れ」とは逆の結論、辺野古NOを出したのだ。民衆意思を引き出す方途が閉ざされている、これを運動内部の弱点として考えなければならない。
 P3C勝利集会で、喜納政豊委員長は、反戦反基地の闘いを続けると宣言し、ヘリ基地反対協の安次富浩さんと高江の宮城勝己さんに、P3C基地建設阻止対策委員会からの金一封カンパを手交した。照屋全豊・元豊原区長は、里道廃止要求に対し拒絶を貫き通し、いま現在も桃原飛行場の原状回復を政府に要求し続けている。
 この間に死去した、P3C闘争小屋の当番仲間たちのご冥福を祈る。
 
  沖縄人の総意の表現を

 さて、闘いの局面は、四面楚歌に陥っている仲井真知事を叩きつぶす段階に入っているのではないか。沖縄的争点で闘われていない十一月十六日の那覇市長選挙での野党統一候補の敗北は、仲井真の窮地を何ら救うものではない。
十月県議会で、議会多数派は仲井真の「米軍再編の円滑推進のため」という訪米理由に対し、辺野古NOの県議会決議に抵触するとして知事訪米費をカットした。仲井真と日本政府にとって大敗北、県民にとっての一歩勝利を印象づけた。
しかし十一月下旬にまたもや、今度は「基地負担軽減のため」という「理由」で訪米予算案を出してきた。「キャンプ・シュワブに施設を作るものであり、新基地建設ではない」(9・5知事見解)などとし、辺野古への移設が「負担軽減」だとすること自体が決議に抵触する。二度目も切って棄てるべし!
一つ、仲井真をやっつけることは、日本政府をやっつけることである。一つ、「超党派」とは、党派に関係なく市民本位に考え、「沖縄人の総意として」事をすすめようということである。以上を提起したい、ともに闘おう。(T)