〔書評〕

  『生きる意味』
        (上田紀行著 岩波新書08年16刷)


  「経済成長」信仰から
     「人生の質」へ、と主張



 先日、「産業の成熟」という事態が生みだす「欲求の変化」(それは将来社会の目的となる)の領域に関心があり、関連する本がないか書店の棚を探していた。そしたら、たまたまこの本「生きる意味」が目に止まる。購入して読んでみたら、なかなか良い内容だった。
 「何を求めてこの人生を生きるのか、何を求めて生きるべきなのか、そういった私たちの『欲求』の形は、ながく続いた右肩上がりの経済成長の時代においては安定していた。しかし、その蜜月状態は突然破綻し、私たちは途方に暮れている。そして、相手から一方的に関係の終結を宣言されて、放り出されてしまい、自分をどうしても『被害者』『犠牲者』としか思えないのが現在の私たちの姿なのである」と、「経済成長教」という信仰の破綻を確認する。そして、「数字信仰」から「人生の質」への転換、「ひとりひとりが自分自身の『生きる意味』の創造者となる」ような社会作りが求められていると主張する。
 「生きる意味」の中身に関わる危惧には、「グローバリズムもナショナリズムも『多様な意味』の圧殺の上に成り立っている」とこれらを退け、「ワガママ」に堕する危険についても「自己信頼」「自尊心」を育めばそういうことはないと指摘。抑圧的側面をもっていた・すでに崩壊しているかつてのコミュニティーにかわって、「私たちの『生きる意味』を育むような中間世界、コミュニティーを再創造すること」を提唱し、NPO、協同組合、セルフヘルプ・グループの活動を評価。宗教の可能性についても言及し、「いま私たちに届くメッセージは、上の立場から人々に『正しい生き方』を教え諭すものではなく、ともに学びあい、励まし合うような仲間からのメッセージなのである」と、仏教徒やキリスト者の注目すべき活動も紹介している。
 「産業の成熟」は、一方で資本の拡大再生産の困難をもたらしている。新たに広がる社会活動領域は、労働手段(産業)の発展領域ではないからである。物質的豊かさへの欲求にかわって、ひとりひとりの自由な発展の欲求が高まってきている。しかし資本は、利潤を目的とする支配隷属関係であり、こうした欲求とは本質的に敵対的である。したがって資本のますます大きな部分が、過剰貨幣資本として実体経済から遊離し失業者・半失業者を増大させながら、投機マネーとして徘徊することになる。環境的、経済的的、国家的、倫理的等々、ありとあらゆる障壁を取り払い、かつてのように実体経済を拡大する仕方でなく、共食い的に他の資本を吸収し、結局は労働者から巻き上げる仕方でのみ、そのあくなき蓄積運動を維持する。つまり、今日の資本の自己増殖運動は、社会を崩壊させる仕方で展開されているのである。「発展途上国」における産業の発展は、延命装置として機能するにすぎない。
 かつては利潤という資本の目的が、物質的豊かさの実現という社会の必要に裏打ちされていた。いまや利潤という資本の目的が、空虚な目的となって社会的に強制されつづけている。青年たちが「生きる意味」に苦悶する時代になっているのである。
 「産業の成熟」を基盤に醸成されるひとりひとりの自由な発展への欲求こそは、社会革命の基幹的推進力、将来の社会の目的となるものである。この本が扱っているのは、社会を崩壊させ始めているにもかかわらず依然社会的に強制力を維持し続けている現在の社会の目的と、将来の社会の目的に転化するであろう高まる「高次の欲求」の葛藤である。欲求の領域のこの葛藤を正しく捉え、しっかり位置づけることは、現代の革命理論の構成する際に極めて重要となるものである。一読をお薦めしたい。(M)