世相雑感
  われわれは「岐路」にある

 小泉「改革」が大手を振っていた頃、ホリエモンのようなあからさまな拝金主義の若者が出てきて驚いたものである。「勝ち組」「負け組」なる言葉が、ゲーム感覚で使われていたように思う。われわれはいま、当時発動された「変化」の社会に及ぼす深刻な結果に気付かされ始めているが、その深さがどれほどのものか戸惑ってもいるところだろう。
 そもそも、死への願望が広がっているというのだから驚きである。死刑になりたいとして殺人を犯す者が出てくる。若者が、「生きさせろ」と叫び、高齢者は、昔話だったはずの「姥捨て山」の現代的復活に直面している。「異常」なことである。だがこれらも、ほんの始まりにすぎないのだろう。社会が社会として存立できない時代に入ってきているようだ。
 食料品やガソリンの価格が上昇している。ながらくデフレスパイラルが取り沙汰されていたのが、いまや不況に沈みだしている中で物価が急激に上昇し始めた。最大の元凶は世界的な投機マネーだという。あり余るマネーの対極で、年収200万円以下層が文字どおり生きていけなくなる。さらに消費税の値上げだいうから、とんでもないことだ。第三世界では食糧暴動が激発している。ヨーロッパでも、ガソリン価格の上昇に怒って、運輸労働者や漁民の抗議行動が広がっている。日本もまた、このままではすむまい。
 中国・四川大地震は、被災一千万人・死者七万人・行方不明二万人、天災といい人災といい桁が違う。被災状況や被災者の姿、救援活動などの映像が中国全土・東アジア・世界へと伝えられ、被災住民相互、中国各地の住民同士、東アジアの民衆同士の助け合いが広がっている。中国政府は、「改革」路線から「調和」路線への転換の加速が迫られよう。東アジア諸国との「戦略的互恵」が、経済発展の見地からだけでなく、民衆に対する共同対処の見地からも一層推進されるだろう。中国発の不安定化の波が東アジアへと波及する。東アジア共同体が少しばかり形を現わしているようだ。 
 日本も今、小泉的改革路線と小沢的懐柔路線のつばぜりあいになっている。背後に「改革」への民衆の怨嗟の高まりがある。大連立論の読売新聞はもちろん、朝日新聞も支配の安定策を提案することに汗を流しているが、うまくはいっていない。とはいえ、労働者・民衆の側において、政治的進出の準備ができている訳ではない。難しい局面だ。
 世界観の領域はどうか。天皇制文化に対する縄文文化、孔子・儒教に対する老子の思想、民族排外主義に対するアジア主義・国際主義、資本主義・国家主義に対する協同社会論・階級論、生産力主義に対する人間(=自然環境)第一など、「改革」の時代に抑えられながらも力をつけてきた様々な対抗思想が広がり、思想的混沌状況が現出されつつある。あれこれの対抗思想が優勢とも言えない。若者たちに生死を問うような社会において宗教を信じないという人が増えているというのだから、宗教界も同じような状況にあるのかもしれない。
 われわれは、「岐路」にある。基本的には支配階級の岐路であり、その二つの路線をめぐる選択ではある。しかし、この路線闘争の真の主役は第三者の民衆である。民衆に対して正面切って犠牲を強いるべきか、懐柔策を併用すべきかで争っているのである。民衆が声を上げ始めたから、こうなった訳である。しかし、民衆が政治の主役の一角を占めるには、力をつけねばならない。政治の流れを変えて、まずは力をつけることのできる状況を作り出さねばならない。(M)