11・23〜24第七回反空港全国連・関西大会
    各空港は安全か?必要か!

 十一月二十三〜二十四日、第七回反空港全国連絡会・関西大会が全国から約四十名の参加で開催された。初日は、釜ヶ崎の地を会場に大会が、翌日は、釜ヶ崎の見学の後、関西・伊丹・神戸空港の視察という日程で行なわれた。
 一日目、記念講演は「パイロットから見た空の安全」というテーマで、全日空パイロットで航空安全推進連絡会議元議長の森徹次さんが行ない、会場からの活発な質疑が行なわれた。森さんの講演は以下のとおり。
 「六六年に三つの大きな航空機事故が続けて起きた。事故の連続に対し、日本の空の安全問題の検討のため、全日空のパイロット、搭乗員、整備スタッフ、管制官や気象スタッフなどにより、航空安全推進連絡会議が作られ、航空局との交渉を主に安全の推進のため努力してきた。
 関西は、大阪湾を中心に伊丹・関西・神戸の三つの空港が狭い空域をつかっている。伊丹の北側には六甲山があり、離陸した直後には明石大橋がある。このような地理的状況の神戸空港は、作るべきではなかった。関東では、全国の六割の航路が集中している。焼津沖の七〇七便と九〇八便とのニアミスは衝突しなかったのが不思議なほどであった。
 燃料節約のため、会社は常に一万メートル以上の上空を飛べと盛んに言っている。高度を上げると、気圧差のため機体には大きな力が加わる。金属疲労の問題も忘れられず、常に大きな危険をかかえているともいえる。
 静岡空港では、近くの自衛隊基地との空域の問題を抱えている。航空局と防衛省との調整は難しいだろう。成田の暫定滑走路使用については、実にふざけている。騒音で住民を追い出そうとしており、国民を軽視している」。以上、航空界から安全性に警鐘をならす講演であった。
 大会は、各空港からの報告が行なわれた。三里塚からは「三里塚・暫定滑走路に反対する連絡会」の山崎さんが、暫定滑走路の北伸に伴う東峰地区への攻撃と、完全民営化による暫定滑走路の正規化への動きなどを報告した。羽田からは「羽田空港を監視する会」の大道寺毅さんが、羽田再拡張による騒音・飛行回数の増大の問題が報告された。
 静岡からは「静岡空港に反対する県民の会」の桜井建男さんと地権者の大井春生さんが、有無を言わさぬ建設強行の実態を報告した。
 福岡からは「新福岡ストップ連絡会」の牧忠孝さんが、一旦ストップした新福岡空港の再計画をねらう「福岡空港調査連絡調整会議」の実態が報告された。
 休憩後、地元の神戸より恩田怜さんが、神戸空港強行開港二年目の六割程の利用人数の現状と、土地造成による売却がわずか一社一・八%にしかなっていないとの報告、また大阪からは「泉州沖に空港をつくらせない住民連絡会」の根本博さんが、二期供用強行開始の報告と、二十四時間使用・四千メートル滑走路でハブ空港と宣伝されているが実態は、交通省と財務省の合意の年間十三万回も達成できない現状が暴露された。
 白保では「八重山・白保の海を守る会」の生島融さんから、土地強制収用をねらう極めて短期間の法的手続きの遂行への抗議と、環境問題への施策のズサンさが報告された。
 これら各報告をふまえ最後に、「市場原理から言っても採算がとれず、四苦八苦している空港が本当に必要なのか?空の安全性は?環境問題は?軍事利用は?これらの是非を問う」とする大会宣言を採択した。
 なお、討論の中では、一坪共有地の長期化の中で相続問題などが発生しており、どのように守っていくのかが提起され、逆に、白保からは収用攻撃の前にどう共有地を拡大していくのか、また静岡からは、地権者のシビアな闘いに共有者がどれだけ係われるかが問われているとの意見が表明された。
 翌二十四日は、釜日労のバス「勝利号」に乗車し、関空・伊丹・神戸空港の視察を行なった。関空の二期B滑走路の運用状況、引き続く地盤沈下の現実と建物のゆがみの補修工事の現実を見た。伊丹では、滑走路南端・北端からの騒音の実態体験を行ない、神戸空港では、ターミナルで目立つのは市内の家族連れや観光客の見学者であり、空席が埋まらない現状を視察した。
以上、集中した討論が出来た関西大会であった。来年開催地は、現時点では未定である。(関西東峰団結小屋維持会 渡邉)


12・2上坂喜美さんを偲ぶ会に90名
    遺志を継ぎ新たな闘いへ

 十二月二日、大阪市北区の山西福祉記念会館で「上坂喜美さんを偲ぶ会」が九十名の参加で行なわれた。
 上坂さんは七月十七日未明、肺ガンの上に肺炎を併発して亡くなられた。生前からの意思で葬儀は行なわず、近大医学部に献体された。この二年ほど、集会等にはお顔を見せなくなっていたが、療養されておられる姿を見ていたのに、急な訃報に皆茫然としたのだった。
 偲ぶ会は、関西三里塚闘争に連帯する会、関西三里塚相談会、関西共同行動の三者の呼びかけでの実行委員会によるもので、五十名余りの賛同者を得て準備された。
 司会は、東大阪の三輪喜久治さんと尼崎の山本将嗣さん。まず主催者を代表して渡邉があいさつし、上坂さん療養経過、遺言、偲ぶ会開催の経過を紹介した。
 続いて「在りし日の上坂さん」として、遺族からの提供の写真を中心にしたスライドショーと、『大義の春』の一部上映が行なわれた。3・26開港阻止闘争での菱田小学校の集会での姿、闘いのなか一貫して笑顔の上坂さんを改めて観た。ご遺族からの写真の多くは、堺での老人大学、ボランティアのガイド、お祭りでの千利休に扮した上坂さんだった。参加者一同、上坂さんの多彩な生き方に感動した一刻であった。
 多くの人が「上坂さんと、それぞれの時代・場所」を語った。最初に三里塚空港反対同盟の柳川秀夫さんが、「三里塚とともにいつまでも」として発言した。「スライドを観て改めて、七四年頃からの闘いの先頭の上坂さんと、地域活動を取り組んでおられる姿とを観て安心した。穏やかな死だったのでは。国に誤りを認めさせ、事業認定を取り下げさせ、強制収用を断念させ、国との交渉という新たな闘いに、上坂さんは終始付き添ってくれた。その中から、新たな世の中を目指す闘いをどう作るかを語っていた」。
 「共産党幹部候補生から離党へ」としては、大阪中電の後輩でもある前田裕悟さんが、上坂さんの共産党幹部からの離脱と三里塚への関わりの経過を紹介した。阪神連帯する会の杉本昭典さんは、「上坂さんとの最初の出会いがレッドパージ後の関西での組織統一の話し合いで、国際派の私と、所感派の代表の上坂さんという関係だった。上坂さんは六全協の後、追及される立場になったが、その時の出会いが戸村選挙、連帯する会結成を共に担うきっかけになった」と語った。
 また「反戦・平和運動のご意見番として」は、関西共同行動の中北龍太郎さんが、関西での八十年代初めからの共同行動の立ち上げ当時の思いを語った。
 ラルザックとの連帯の橋渡しとなった竜谷大の杉村昌昭さんによる献杯のあと、歓談。東峰の石井紀子さん、平野靖識さんらのメッセージも紹介された。
 続いて「上坂さんと私たちの時代」として、多くの仲間たちが発言した。元摂津宮田教会の桑原重夫さん、東大阪・高槻・阪神・京都・東淀川の連帯する会の仲間、労組関係からは小寺山康雄さんや大阪中電の仲間、全金港合同田中機械、宇治の米沢鐵志さんと労農合宿所、泉州など各反空港運動が語った。三里塚闘争被告の刈谷・加藤・小林・畑・岸本・阿木さんらも一言づつあいさつした。
 締めは、上坂さんの古くからの友人、阪神連帯する会の菊永望さんが、開港阻止決戦時の論議を紹介し、上坂さんが現場を第一とし、全国とのネットワークを常に考えていたことを改めて紹介した。「現在の世の中で何もしないでいる訳にはいかない。八十でも九十でもやるべきことはやろう」と偲ぶ会をしめた。
 なお、偲ぶ会実行委は引き続き「遺稿集」の発刊を企画しており、また一月二七日には恒例の関西三里塚闘争「旗開き」を尼崎市立労働福祉会館で開く予定である。(関西東峰団結小屋維持会 渡邉)