【沖縄からの通信】

沖縄戦歴史歪曲
    日本政府と仲井真知事による「記述回復」決着を許すな
      あくまで検定意見撤回の実現を

 9・29県民大会のその後と言っても、生起している事柄を羅列するだけでは意味が無い。本稿では、仲井真知事の対応・手法を批判し、また、その知事らを制して沖縄民衆が日本政府に勝利するための統一戦線をいかに生み出し得るだろうかか、ということを主眼に述べてみたい。
 県民大会の翌九月三十日、東京の政府関係者たちは、「沖縄の人々の深い思いを重く受けとめる」等々と発言し、早々に政治的対立を緩和しようとあがいた。一方、沖縄側はのんびりしている。十一万六千の巨大な力をバックに直ちに東京・文部科学省に切り込むなどという、気のきいた話はない。県民大会前に、東京要請は十月十五日・十六日だと決めていたが、大会の成功の瞬間から情勢が激変していることを充分自覚していない。
 やっと気がついた主要実行委員が腰をあげ、十月三日に東京要請となった。この県民大会実行委員会の第一次要請団には、仲井真知事をも含んでいた。文科省は知事を交渉相手としているようだ。この一次要請には、渡海文科相自身が対応し、マスコミに派手に取材させた。
 この場で、知事以外の実行委員は「検定意見の撤回」を発言しているのに、仲井真知事だけが「記述のすみやかな回復」を要請した。この時点ですでに自民党と文科省には、最低限「記述修正」(しかし検定意見撤回なしの)を合意しているかのような発言が見受けられた。注目すべきは、この時、渡海が「一体どっちが『沖縄の声』なのか」と発言したことだ。沖縄側のただ一つの要求を、むりやり二つに切り裂き、要求が二つに分かれているかのように印象付ける策略に出たといえる。この策略の公開・展開のために、仲井真知事が大きな役割を果たしたことが明らかとなった。
 三日の東京要請まで、沖縄では要請が二つあるなどとは議論になったことはない。県民大会の準備過程からずっと、文科省の「検定意見の撤回」であり続けた。「検定意見撤回」を集会名称とする県民大会に、参加をしぶっていたのは知事と商工会だけであった。知事が参加を決めたのは直前であった。日本政府はあらかじめ、知事を通じて、大会後の経過にはどのような手を打つかを決めていたのではないか。
 帰ってきた知事は、「県民大会の決議には、検定意見の撤回と、記述の回復の二つがある」と発言した。9・29決議文は、「県民の総意として国に対し今回の検定意見が撤回され、『集団自決』記述の回復が直ちに行なわれるよう決議する」である。知事は、この一つの文章を前後に無理やりに二つに分けている。何のためか、言うまでもなく、沖縄が要求する「検定意見の撤回」という核心点に触れずに、小手先の運用でごまかすためだ。教科書会社に「訂正申請」をやらせて、一時的なその場しのぎとして「記述の回復」で落着させようとする政府の策略を助けるためである。
 みっともないぞ、仲井真知事、あなたの企みはバレバレだ! 県民の圧力に屈し、やっと県民大会参加を決めた者が、大きなツラをして大会後の指導権を取ろうなんて、県民侮辱ではないか!ひっこめ!
 大会実行委員長は仲里利信県議会議長である。要請団を代表するのも、仲里氏だ。文科省さん、福田首相さん、9・29沖縄県民代表は仲里さんですよ。そこを取り違えれば、沖縄県民に対する失礼になりますよ。
 第一次要請後、沖縄自民党の衆参議員で作る「五の日の会」は、「記述の回復」で落着するよう仲里に圧力をかけた。自民党沖縄県議らも仲井真に加担し、「記述の回復だけでいい、ここが落とし所だ」と言い、政府の「解決」策への容認へ引っ張ろうとした。まず仲里を落とさなければ、自民党友誼団体代表とも言える他の実行委員を落とせない。しかし仲里は「五の日の会」を蹴った。
 仲里にとっては、少々の政治的果実で釣られる問題ではない。彼自身が沖縄戦で日本軍に家族を殺されている。日本軍の野蛮な行動をその目でみている。一九八二年には、沖縄戦での「日本軍による住民虐殺」が検定意見で抹消されようとしたが(県議会の抗議によって失敗)、このときにも彼は、沖縄戦体験を歪曲しようとする日本政府に対して妥協しない態度と人格を示している。「こんな政府案を呑めば、検定意見は生き残り、今後文科省の望む時期に、回復されたはずの記述がまた修正される。ここ二、三十年の文科省をみればはっきりしている。県民を裏切ることになる、何のために十一万人が集まったのか」、これが仲里の心情だろう。
 結局、第一次要請の仲井真知事をあやつった文科省の自作自演のショーは失敗し、また知事と沖縄自民党らが、日程をあやつり、公式の要請団の東京行動である10・15〜16行動を破壊しようとした画策は失敗した。
 仲里大会実行委員長を団長とする二百名あまりの、検定意見撤回を求める要請団が十月十五日、那覇を立った。十五日の首相官邸要請(不誠実にも福田首相は出てこず、大野官房副長官しか対応していない)に始まり、十六日には文科省(池坊副大臣)、自民党(細田幹事長)と各政党(党首対応)、教科書会社五社などに要請交渉を行ない、また七百二十余名の国会議員一人ひとりに対し、班ごとに手分けして、県民大会決議文と大会を報じる沖縄現地紙二紙を手渡して要請した。
 十五日の夜には、多くの要請団員が参加して、東京沖縄県人会と沖縄戦裁判支援団体が主催する「検定意見撤回を求める10・15総決起集会」が七百名規模で開かれた。
 その後十六日議員会館で、内外のマスコミに記者会見を行なったが(「本土」側マスコミは、訂正申請について、どのような記述の回復であれば容認できるのかというようなスタイルの質問を繰り返した)、そこで明白になったことは、訂正申請による記述回復だけでは解決しない、検定意見の撤回を求める、それによる解決をみるまでは実行委員会は運動を続けるということである。こうして、第二次要請行動によって、政府と仲井真らの記述回復で収拾を図る路線は破産したのである。
 十月二八日、教科書執筆者の坂本昇氏は、検定意見撤回を求める県民大会の開催、軍命を裏付ける新証言、これらを根拠に、訂正申請を行なうことを表明した。その訂正は、「『集団自決』においこまれた」の文脈に「日本軍によって」を入れること等であるとする。十一月一日、教科書会社二社が訂正申請を文科省に提出した。他の三社も右にならえでいくものと考えられるが、この訂正案は、教科書審議会でその検定意見(それまで定着していた各社の「軍の命令・強制・誘導」を示す記述を、「沖縄戦の実態に誤解を与えるおそれのある表現」などとして削除することを指示)と再びぶつかることになる。審議会は軍の強制性について、あるときはノーと言い、あるときはイエスと言う、こんなデタラメでは誰も納得させえない。論理的な整合性から言っても、ノーと言った検定意見を撤回するしかないはずである。
 検定意見撤回をしぶる福田政権の大義名分は、教科書検定に政治は介入できない云々である。しかし、もともと今回の教科書改ざんは、「新しい歴史教科書をつくる会」の極右グループと密接な関係にある村瀬信一教科書調査官らが、検定意見原案を審議会に持ち込んだことにある。安倍前政権による右傾化と教育基本法改悪の成立という状況下で、文科省職員の調査官が、審理中の大江・岩波沖縄戦裁判での原告側主張をあえて検定意見の根拠にするという暴挙を行なってまでして、不当に政治介入したものである。「公平、中立を装いつつ、シナリオ通りに修正を求めたもので、検定意見は、審議会を隠れみのにした文科省の自作自演としか思えない」――仲里実行委員長が、県民大会挨拶であえて語ったとおりである。
文科省主導の改ざん、不当介入であり、政府自身がすすんで正すのが当然である。また、ある意味では、教科書検定審議会を飛び越えて、政治決着すること(「近隣諸国条項」のように、沖縄県民感情の考慮を検定基準に入れること)も可能である。いずれにせよ政府が右派的な企みを捨てれば、簡単にできることである。福田政権は、不評を買って破産した安倍政権の政治を手直しすると言っている。そうならば、検定意見撤回こそ真っ先にやるべきことだ。
安倍辞任は9・12であった。筆者は9・29の前対応だろうかと友人に言ったら笑われた。しかし、自民党の加藤紘一元幹事長が十月三十一日、安倍辞任と9・29を関連してとらえ、「安倍政権が続いていたら、非常に深刻な話になっていた」と語っている。9・29への予兆というものが、6・9県民大会、七月糸数参院選挙をへて現れていた。体制側の方が先に気付いて、9・29後の策略を準備していたのかもしれない。
6・9の「沖縄戦の歴史歪曲を許さない県民大会」は高教祖や平和センターが主催したものであるが、これまでの野党系集会にはない雰囲気をかもしだしていた。労働組合や市民団体が座り込むまわりを、若者・高校生、老人らが取り巻いているのである。この運動は巨大化するという予感がひしひしと感じられた。
参院選はこの運動の渦中で行なわれ、七月二九日投開票の結果は、糸数慶子が予想外の大差で圧勝した。筆者は本紙八月一日号で、安倍政権による「集団自決」改ざんへの怒りによる圧勝と書いたが、今はより強くそう思っている。
この数ヶ月の変化について、検討を加えた発言がない。われわれ沖縄人は、自分たちのやっていることの意味について、自分らの力について、また、それが与えた影響について、はたして自覚しているのだろうかという疑問がわいてくる。体制側に先をこされてはならない。
東京行動後も、参院議員の山内徳信氏が言うように、第三波、第四波を発して文科省を包囲すれば、福田内閣に強烈な打撃となるだろう。自衛隊のインド洋給油問題などで民主党と政権を争っている現在、沖縄との「集団自決」をめぐる争いは続けたくないはずだ。
十一月一日、仲井真知事は福田首相と会談した。辺野古と「集団自決」、二つの問題についてである。この会談は福田訪米の前提づくりのためでもあるが、仲井真は、辺野古新基地の政府案(V字案)に対して「沖合移動」案を唱え、さも日本政府と争っているかのように演じ続けている。ちょうど「集団自決」問題で争っているかのようなふりをしているのと、同じ役廻りである。「記述回復」も「沖合移動」も、日本政府の掌中にあり、沖縄県民の要求ではない。稲嶺前知事も、SACO原案で日本政府と争っているかのふりをして県民をあざむいた。三期に渡って続いている、日本政府カイライの県政を政権交代させねばならない。
そのためには、沖縄民衆の要求を一つに結集する持続的な議会、これまでの「県民会議」や「超党派共闘」をもう一歩超えるような、かっての復帰協のような結集体が求められているのではないだろうか。そのために、今は、仲里委員長らを大切にし、超党派を発展させることが必要であり、また、9・29大会の基礎としての、6・9大会というエンジンを止めないようにすることが大事であろう。
9・29も、6・9も、沖縄百万民衆の土台の上にある。その沖縄民衆が日本政府と対峙している。仲井真らのように、その土台から離れた者をバクロしよう。生存の条件を獲得していかねばならない沖縄百万民衆の土台から、しっかりと離れることなく最後まで闘いぬこう。(T)


「普天間移設協議会」再開反対、高江ヘリパッド基地阻止!
  「軍命は今もつづいている、
    この、押しつけられた基地を見よ」

 政府と沖縄県などによる「普天間基地移設協議会」が、十一月七日にも開催されようとしている。教科書の沖縄戦歴史改ざん問題が解決していないにもかかわらず、福田政権はまたもや沖縄の民意、名護市民の市民投票の意思を無視し、新基地を押し付けようとしている。まさに、「軍命は今も続いている。この、押しつけられた基地を見よ」である。
 移設協議会は、SACO原案(海上案)が反対運動によって破産し、また仲井真知事が政府案(V字滑走路案)容認せずを一応公約としているため、再開の見込みが立っていなかった。しかし、このかん知事が辺野古での政府案に基づく「事前調査」強行を容認するなか、政府は八月に環境影響評価方法書を一方的に沖縄県に送付し、公告・縦覧を強行した。十月下旬、方法書への住民意見をまとめたとして県に送付し、移設協議会開催のアリバイは整ったとしているのである。
 しかし、このアセス方法書は、新基地が住民にどのような影響を与えるか判断できない代物であった。飛行経路を示していないだけでない。日米の秘密合意によってオスプレイ垂直離着陸機の配備、揚陸艦接岸が可能な214mの岸壁建設、戦闘機装弾場が計画されていること、これらを隠している。普天間基地移設ではなく、飛躍的に強化された新基地建設そのものである。今夏、その着工が強行されている高江のヘリパッド基地と一体となって、大浦湾一帯を軍事拠点化するものである。
 政府は、沖縄の基地負担軽減を口にしながら、県民をだまそうとしている。また仲井真知事が「沖合移転」を主張しているのは、移設協議会に参加するための粉飾にすぎないのか、このことも問われている。
 沖縄では平和市民連絡会、辺野古新規地建設を許さない市民共同行動が十一月一日から、県と日本政府の移設合意「基本確認書」の白紙撤回と、県知事の「協議会」への出席中止とを求めて、県知事要請行動や県庁前座り込み等を開始した。県内移設反対県民会議も十月三十一日に会議をひらき、移設協議会開催反対を強める。
 また市民連絡会は、「辺野古・高江の闘い参加のための交通手段確保カンパ」運動を十月二六日から開始し、沖縄内外に寄金を訴えている。ヤンバルの両地区でも更に遠い所にある高江の闘争現地には、行きたくても交通手段の確保が難しい人は多い。定期便の検討も含めて、自力で車両の運送体制を作るためのカンパである。(カンパ送金先は、郵便振替01710−5−88511平和市民連絡会)
 東京では、十月二七日に辺野古実行委員会の諸団体によって、「辺野古への基地建設・高江へのヘリパッド建設を許さない!10・27緊急デモ」が銀座で行なわれ、また十一月二八日には沖縄一坪反戦地主会関東ブロックの主催で、「今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会」が開催される(全水道会館4F、午後七時)。
 「教科書」も「基地」も根っ子は同じ問題、戦争への道は沖縄を踏みにじって開始される。検定意見撤回とともに、沖縄基地撤去を「本土」でも強化しよう。(W)